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2008年10月10日 (金)

「音楽」マーケティングは<本当に>存在するのか?

大宮光陵高等学校音楽科23回定期演奏会、是非お越し下さい。



仕事のスケジュール、およびスタミナの問題もありあまして、

・モーツァルトの「フルート四重奏曲」を読譜中ですが完了せず
・ゼキ氏著第7章を通じての「視」と「聴」の対比もまとまらず

でして、かつ、音楽史は宣教師の訪れた戦国時代の日本から、ふたたび「イエズス会」の原動力であったローマ世界を含むイタリアへと戻っていかなければならないのですが、これは少し時間がかかります。

したがって、昨日の屁理屈の続きで行きたいと思います。



ギャラリスト小山登美夫さんの「現代アートビジネス」にあったうちで心を動かされた、この言葉からスタートします。

「新しいアートが世の中に受け入れられていく過程とは、今までまったく存在したことがないものに、どうやって価値を見いだしていくか、ということではないでしょうか。」

モダンアートの世界は、たとえばこうした小山氏のような発想と、それを貫いた情熱によって、日本ではまだまだ、だそうですが、欧米はおろか、アジアにも大きな市場を形成しており、それは未だに成熟途上だそうです。

ただ、小山さんは、大先輩ギャラリストの西村さんが常々お話になっていたという
「(モダン)アートの世界にはマーケティングが効かない」
ということを<初心>・<原点>としています。かつはおそらくギャラリストなる人々は常にこの<原点>を維持しているからこそ、「新しいもの」を「売る」ノウハウを、そろそろ確立し、確立したことを実感もし始めた。実際、彼らの実感は、いちおうは価格という物差しによってしか明示されてはいないものの、「現代アートビジネス」のような著作が発行されるのは、価格には現れない「社会が求める<新しい美術>の価値を測る尺度が生まれ、または生まれつつある」ということが世間の認識に裏打ちされているからこそ可能なのであろうか、とも思います。

そこで逆に、非常に引っかかったのが、「音楽や映画はマーケティングが効くが・・・」という前置きが、ギャラリストたちの、いわば<アンチ・マーケティング>発想に付随していることでした(小山氏の著作で明確に文言化されています)。

映画や音楽については、本当に「マーケティング」が「効いて」いるのでしょうか?

映画方面は<息子と映画を考える>のほうで別途また考えていきたいと思いますが(まだろくに記事も綴っていません)、とにかく親子連れで見に行ってみたり、関連する書籍をあたってみたりした限りでは、以下に見ていく「音楽」同様、ビジネス的な「マーケティング」導入に若干の余地はあるように見えますけれど、私の実感するところを小山氏の著書の記述内容と比較すると、むしろ、本来的意味合いでのマーケティングは「モダンアート」の方が、よりしっかりしたものが確立されているように感じられます。

・アーティストが自身を客観的に評価できるかどうかの見極めから入り(つまり、ギャラリストさん自身がアーティストさんを「客観的に」好きになり
・アーティストが信頼できれば、その人につけるべき最安値から売り出しを開始し
・作品はその段階で、作品を純粋に愛する人に買い取られる

ここまでがギャラリストさんたちの基本のお仕事で、後年オークションで目の玉が飛び出るような(十億単位以上の)高値が付くような「アート」でも、最初は数十万円もしない。
かつ、オークションでいくら高値がついても、その段階では売り手はギャラリストさんではない。あくまで、「アート」を愛して買っていった人たちの手から手へ渡っていく過程でつく値段ですから、超高値物件の売却でもたらされる大幅な収益は、売却主のものであり、ギャラリストさんはそこからマージンを得るわけでもなんでもない。
・・・ただし、副次的に、そのアーティストを見出した実績を評価されて、高値品の転売を委託されることがあれば、ギャラリストさんは初めてそこで、「上がった価値」の幾分かの実入りを得ることが可能になり、結果的に・・・儲かる、というのが主眼なのではなく・・・また新たなアーティストの発掘に注力できる、というのが「モダンアート」業界のベーシックな流れです(小山さんは美術品が何故しばしば投機の対象になるかについてもきちんと記述していらっしゃいますが、今回は貨幣で測られる「収益」を主眼に置くわけではありませんので、そのあたりのことは省きます)。

「売り手」にとっても「買い手」にとっても、作品を愛することが基本です。ですから、その「真贋」の管理も徹底していて、ギャラリストの手を離れた後には、オークション時にカタログも(ミスケースは皆無ではないとのことですが)きちんとしたものが整備され、「買い手」となる意思を持つ人は、それを物差しにすることが出来ます。
商業世界で一般的な、エリアや世代展開を目的とした「マーケティング」ではありませんから、たしかに常識的なマーケティングの教科書に載るような類いの仕組みではありませんが、
「作品を愛する個々人」
にしっかり浸透する、という面では、実は最も理想的なマーケティング戦略が、かなりきちんと定式化されていると見なせるのではないでしょうか?

・・・ですから、過去の日本の「バブル経済」時の馬鹿げた美術品高額買いみたいなことは通常行なわれず、そこには景気に影響されない「富」が蓄積される。



「貨幣価値」でしか「富」をイメージできないのでしたら、ここまでの話も「ピラミッド上に積み上げられた金の延べ棒」を脳裡に描いてしか読んでいただけないかもしれません。

本来は、私は「収益」を目指すわけではない「アマチュア」についてまで視野に入れて、以上のことに考えさせられたのですが、それについてはまだ一言も述べていませんし、今日だけでは無理でしょうから、まずは「貨幣」イメージでお読み頂いても結構でしょう。

では、金銭価値としての「富」が蓄積されるという、いわば表面的な部分からだけ見た場合でも、果たして、「音楽」には、「モダンアート」に匹敵するマーケティング展開がなしえているでしょうか?

「ポップはいけてるけど、ジャズやクラシックはむずかしいな!」

・・・はあ。

「ジャズはまあともかく、根強いファンがいるからある程度はね。クラシックは、古い。硬い。え? 現代音楽? 訳わからんだけじゃない! やっぱりポップだよ! 新しい。 最先端だ。タレント性もある。」

・・・念のためですが、「現代音楽」は、「クラシック」の延長線上で扱われていて、CDショップの棚でも「クラシック」に分類されていますし、それ以前に、演奏されるコンサートも「クラシック」として扱われていて、演奏者も9割方はクラシックと重複しています。話を複雑にしないために(もう充分複雑かも知れませんが)、この先は現代音楽は「クラシックの<新しいもの>」ということにしてしまいましょう。

・・・それから、ジャズについて、かつまた、ここまでも登場させていませんが、ワールドミュージックなるものについて、は、省いて考えます。



上のセリフは、日本のマーケティング担当ならこう言うかな、と仮想してのものです。
つまり、いちおう、ここからは日本を前提とした話です。
このマーケッターのセリフの背後には、「音楽」そのものを「売ろう」という精神が、まず存在するでしょうか?

試しに、何でもいいから、今10代の間で流行しているポップをお聴きになってみて下さい。
リヴァイバルも結構な割合を占めているのは、ご承知の通りです。
そうではなくて、新作と称するものの方を聴いてみましょうか・・・。

試しました。・・・「音楽」そのものには、ガッカリするほどに、「新しさ」は感じられませんでした。
さすがに1960年代までには遡らないとは思いませんでしたが、70年代に聴いたロックとかフォークとか歌謡曲とか、同時期のアメリカン・ポップやロック・・・要するに30年から40年前には開拓されていた「大衆音楽の新スタイル」を踏襲しているに過ぎない、というのが、私の正直な感想でした。
つまり、ポップが売れているのは「音楽が新しい」からではないのだ、と思われます。

ポップの特徴として、若干の例外を除き「楽器だけで演奏される目的で作られたもの」は、存在しません。
ポップのご先祖様をたどれば、都都逸〜浄瑠璃〜謡〜平曲〜和歌の朗詠、みたいになるのでしょうが、近代に至るまでは、節回し(メロディ)も、作品ごとに際立った個性があるというわけではありません。器楽側も、演奏の基本スタイルよりはパフォーマンス性という視覚要素が関心の中心となります。
したがって、「聴き手ないし観衆」は「音楽」ではなく、歌のセリフに託された、今という時代への共感をもって、ポップを聴く。あるいは、歌い手・演じ手のキャラクターに、現在そのものの理想を見る。

ポップの「聴き手(ないし観衆)」の目的は、「音楽そのもの」ではなさそうです。

ということは、「音楽のマーケティング」というものは、日本の音楽マーケティング担当者が先ほど仮想したようなセリフを発想の根源としている限り、実は「音楽そのもののマーケティング」ではない。

という次第で、じつは、「音楽そのもの」には、マーケティングは戦略的に行なわれているわけでもなんでもなく、「音楽そのものの愛好家」がターゲットにされていないのではないでしょうか?

この、基本・根本のズレを見直すことが、なんだかいつまでもしゃちほこばってしか捉えられていない<クラシック>だって、本来的に「音楽そのもの」で・・・プロ作曲家・演奏家は生活が成り立ち、アマチュア演奏家は聴衆と一緒に音楽を愛せる、等々・・・「新しいもの」に馴染んでもらうマーケットを、数段のレベルで拡大出来ていくのではないでしょうか?



私がなぜ「クラシック音楽ビジネス」なるものを考えようと思ってみたり、一見それとは繋がりのない、「音楽の認知のされ方」を素人レベルのままながら検討してみようと思っている最大の理由は・・・前の記事の「くどい」反復にはなりますが・・・アバウト、こんな思いがあるからでございます。

またまた穴埋め記事ですみません。

本論に入るには、まず「認知」の件を片付けなければいけませんので、合間にまた似たような駄文を綴るかも知れませんが、お付き合い下さっているかたには、引き続き宜しくお願い申し上げます。

こんな記事ばっかりなので、さすがに、こちらに移行してからの方の読み手は少ないんですよ。
未だに、旧版の記事のほうが、毎日同じペースの「一元さん」に恵まれています。
どっちにしたって、個人の趣味ですからね、数を云々しても無意味なんですが、
「なんかが違う、なんか変えたい」
自分には、たかだか1日百数十アクセスの旧ブログでも充分に大きな母数ですから、新の方がその3分の1程度しかいかない、という現実には
「うーん、やっぱり、こりゃ下積み丸出しだからかなあ」
と、少し、肩が落ちる思いでは、いるのです。

でも、かの伸介竜助だって、売出しまで1年の前準備をじっくりしたのですから、どうせ先々も一介の素人で行こう、日に100人共感してくれるようになったら御の字だ、と思っている私には、こっちのほうがずっと貴重な「自分のための準備」ノートだと思って続けている次第です。

「アキレスと亀」の、売れない画家さんと同じだ。
(リンクした私の記事にはストーリーのことは殆ど綴っていませんので、この記事に寄せられたトラックバックをご参考になさって頂ければと存じます。)


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コメント

 初めまして。「JIROの独断的日記」さんからリンクをたどって来ました。

ご存じかと思いますが、言語に関してはチョムスキー(エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky, 1928年12月7日 - ))の「普遍文法」があります。

これは、いかなる人種といえども、他の言語圏に生まれればその言語を母語として話す事ができる事から、人間の基本的な機能として、全ての自然言語を理解するためのメタ言語とその文法がそなわっているとした仮説です(大雑把ですが)。

音楽(というか、拍、音程、音色の組合せ?)が人間の情動を変化させる力があるという前提が必要ですが、音楽にも、このような”メタ”楽典があるのでは?と考えてしまいます。

以前に、「純正律」を調べていた時、様々な文化圏に多数の音律がある事を知りましたが、私が知る限りでは、「周波数が倍の関係にある音同志を、”高さが違う同じ音”と認識する」というルールは共通であるように思われました。
これだけでは、到底”メタ”楽典などと言えるような物ではありませんが、直感的には何かあるのでは?と思い、現在も調査中です。

#勿論、欧米と日本では、虫の声の認識する脳の部位が
#異なるという研究もあり、生理学的な面では逆風もあ
#るのですが(苦笑)。

 こんな稚拙な書き込みをしましたのは、ブログ主様が「この手の話題」のレスポンスに不満を抱いていらっしゃるようでしたので、日常の中で同じ不満を持つ物として応援したい気持ちがあったからです。

少なくとも、こういった事を日々考えている者がいるという事をお知らせ致します。

これからも記事楽しみにしています。それでは。

投稿: nabesin | 2008年11月23日 (日) 04時16分

nabesinさん、ありがとうございます。

メタ楽典・・・あったら有り難いですね。音楽への理解が恣意的でなくなりますから。ただ、現行の楽典も、バロックから後期ロマン派まで幅広く通用する(解釈が曖昧で良いものも多く、それが時代を超えて同一音符や同一用語での音楽創作を200年間可能にした)という点では「メタ」な役割を果たしていますし、現代音楽でもなお生き残っているものばかりですから、「メタ言語」〜記号言語学ではある程度までその存在を認めうるものですね〜と似た働きは現行楽典には充分あるといえなくもありません。・・・「情動」の部分について「メタ」があるかどうかは、なかなかに難しい問題ですけれど。ボディランゲージが、同じ仕草でも国や地域によって全く逆の意味を持つ場合が少なくないというのが、この場合、最大のネックかと思われますが。

それから、どういう音声が脳のどの部位を反応させるか、については体系立てた研究が必ずしもなされていないので、私は信用していません。「生理学」で全てを説明しようとする人が、とくに聴覚の分野においては研究の数々を充分吟味していないことには、非常に不満を覚えております・・・これは、nabesinさんが見破って下さっている通りです。

・・・などと「へりくつ」を重ねてしまったことをお許し下さい。

とにもかくにも、真っ当にそういうことを考えさせてくるコメントを頂けたことは、非常に力になります。

音律の話は、是非ご開陳頂ければ幸いに存じます。
民族音楽の素朴な段階のものでは、おおむね世界共通で、基準の音を仮に「ド」とした場合、上の「ファ」ないし「ソ」までしか歌われず、下は下の「ソ」までしか歌われませんので(ご存知かもしれませんが、日本でならアイヌのユーカラなどが典型例です)、ちょうどオクターヴの範囲内で音楽が完結しています。クラシック音楽でも、有名な天文学者だったガリレオのおとっちゃんのヴィンツェンツィオなどは、「歌は6度の範囲に納まって歌われるのが望ましい」と言明しているくらいで、これは6度となっている分、人の心がそれまでのマックス5度(グレゴリオ聖歌を終止音の前後で分断してみると、上下それぞれに五度以内に納まっています)、中世までの楽音感より2度分の拡張があって興味深いのですが、オクターヴ以上への音楽の広がりが何によってもたらされたのかは(話は戻りますが、グレゴリオ聖歌の場合には終止音の前後を別の曲として考えれば、それが組み合わさったことでオクターヴまで経の拡張が達成されたことになりますけれど)、世界的規模ではなかなかに見出しにくく、アタマを悩ませております。是非、ヒントを頂ければと存じます。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

重ねて御礼申し上げます。

投稿: ken | 2008年11月23日 (日) 20時43分

素早いレスポンスありがとうございます。
取り急ぎ、私の考えなど。

メタ楽典の件ですが、「楽譜」は英語とか日本語といった「言語」に相当すると考えています。
日本の能管などにも、形式の違う「楽譜」がありますよね。
なので、メタ楽典というかメタ楽譜というべきか、それらの上位にある文法があるのではないかと。
ベタな所では、上昇音階と下降音階はどのような文化でも同じ様な情動を生じさせるとか・・・・・。きちんとかかないと誤解されるとは思いますが、その非常に人間の生理に近い部分と、非常にロジカルな「楽譜」との間に何かあるのかと考えています。

音律の話ですが、「五度」が歌の基本というのはそうだと思います。但し、声の高低などあり、オクターブ違う「五度」が存在するのですよね。
その場合、違う音程のメロディーなのだけど、オクターブ上とか下とかになるわけですね。この基準が2倍の振動数だという事です。
数字の場合、桁上がりは文化により10進だったり、12進だったり、60進だったりするのですが、音律の場合、私が知る限りでは例外がありません。
なので、あらゆる人間に共通する音楽的な基本文法の一つなのかなと考えているわけです。

非常に大雑把な話ですみません。興味を失って去っていったのではなく、考え中なのだと言う事を示したかったものですから。

取り急ぎ御返事まで。

投稿: nabesin | 2008年11月26日 (水) 06時02分

難しい問題をいくつも孕んでいるのですが・・・

「メタ○○」というものを考えるときには、当面は「書き言葉」としての言語以上のものを想定すると難度が高くなるでしょうね。「メタ言語」が言語の結晶だとすれば、抑揚・息づかいなどといった、実際の発話の随伴現象をどう結晶化するか、に大きな視野と課題意識が必要になります。
また、チョムスキーについてはその「理論」を殆ど知りませんのでちゃんとしたことは言えませんが、少なくとも論理学で扱う「メタ言語」は平叙文しか扱えない・・・すなわち、疑問文や命令文などは扱えませんね。

そもそも、「メタ○○」を云々する場合、その前提として、「メタ○○」の運用に当たっての<規約>を設けるというのが約束事で、推測するに、「メタ言語」の運用の規約が「普遍文法」というものに当たるのではないかと思います。すなわち、公理系です。

現状の「五線譜記譜」を前提とした欧米型楽典は、論理学に比べれば広く「音楽言語」現象を扱えますし、他世界の音楽をも(不完全にではあってもかなりの確実さで)翻訳できる、という点では、論理学上の「メタ言語」より柔軟性があります。これは日本に数種類ある記譜法(雅楽なら楽器によって、能楽なら<謡>か<囃子(これは楽器ごと)>)をも統合できますし、現実にペルシャ音楽は、問題を抱えながらも欧米型記譜法への移行が進んでいます。

では、音律の範囲についてはオクターヴ(4+5-1【終止音】)が基本なのは世界共通だとして、微分音を孕む音程については音楽文化圏の単位数だけのヴァリエーションが存在します。・・・ペルシャ音楽の欧米型記譜に当たってはその表現も出来るように、欧米型楽典の基本には無い記号を導入していますが、それが同時にインド音楽での微分音と同じ幅を表現できるわけではありません。あるいは、微分音についてはせいぜい欧米型の4分の1音まで(音程は平均律とする)としたときに、そこまでで「完全な」規約、すなわち音楽としての「公理」がどこまで成立するかが、が、現行の欧米型楽典の「メタ楽典」への近接度を測る重要な指標となるはずです。

結論から言えば、五線記譜は少なくとも現在の12半音を均等幅で表示していない(ハ長調で言うとミとファ、シとドの半音の表記が、他の全音とまったく同じになされるため、視覚的に区分できない)という点で、手段としては「記述要言語」の道具としては完全ではありません。
さらに、情動を表す用語が統一できるかどうかは、「メタ言語」が統一的な情動を表現できるか、ということとも大きく関わってくるものでして、これが組み込まれていないと言う点でも不完全です。

加えて、情動が音楽の形態(運動)で全世界共通と捉えられるか、と言うと、これはまず不可能だろうと思っております。
単純な例で言えば、古代ギリシャ人は音階を下行音型で表示していましたが、それを受け継いだとするヨーロッパ音楽では上行型で表示します。これは歴史上の誤認が原因だと言われていますが、必ずしもそうとばかりは言えず、古代ギリシャ語と、西欧音楽を形成したラテン語のガリア的ないしゲルマン的なアクセントのあり方の違い(ラテン語そのものは高低アクセントでしたが、ヨーロッパ大陸に広まるにつれ、前者【古代ギリシャ語】は長短アクセント、後者【ラテン語】は強弱アクセントとなりました)に起因するものがあるかと想像されます。音階の表示だけで情動が語れるのか、と疑問視なさるかも知れませんが、古代ギリシャ音楽の復元演奏とグレゴリオ聖歌を比較してお聴きになるだけで、古代ギリシャ人と中世ヨーロッパ人が音楽に感じる情動が音の向きと言う点では逆方向だったことが充分に窺われます。

したがって、どんな言語にもあることですが、「普遍音楽」というものがあるとしたら、それは現実の音楽の多くの付随的な要素を取り除いたものでしかないのではなかろうか、と・・・決して負の意味合いでばかりではないのですが・・・どうしても想像してしまいます。

このあたりは、どうやら現代の科学者達も、科学者としての「イデア」の捉え方に拘泥することに端を発しているように考えております。

ですので、近日、そもそも「イデア」とは、最初にそれを述べたプラトンによって描かれたものとしてはどういう姿だったのか、について見ていく予定です。

私のプランはこんな感じですが・・・
いかがでしょうかね?

投稿: ken | 2008年11月26日 (水) 14時17分

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