« 歌ってみればよいのです(アマオケで「おらあヘタだ」と悩む人へ) | トップページ | ちと早すぎですが:大宮光陵高等学校定期演奏会のお知らせ »

2008年10月20日 (月)

音楽美の認知(9) 色彩と運動、その把握についての課題

「音楽のような」映画をDVDで見ましたので(とはいえ、その映画を「音楽のようだ」と思ってみる人は少ないと思います。私の感覚、ちょっとヘンかも知れませんから。監督した人も「音楽みたいに作った」とは一切思っていないようです)、そちらの話を、ほとんど記事を綴っていない「映画」のほうに載せたかったのですが、その話題にも絡んでくるので、「脳」シリーズを先にします。



リンク:(0)(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)

「色合い」と「動き」に関しては、音楽と美術を同列で考えてよいのか?
・・・これには、少し戸惑いを覚えます。

ゼキ第9章は<視覚美のモジュール性>というタイトルになっているのですが、扱っている主要な内容は、
・色覚を失った場合でも形態は知覚できる(168頁)
・運動を知覚できなくなると、移動したり量が増減したりする対象を知覚できなくなる(174頁)
ということを巡っての考察です。

視知覚上の色彩は、文字通り、「赤」・「青」・「黄」・「緑」等々、具象的な<色>を指します。で、<色>によって光の波長が明確に区分けされます。

同じく、運動は、物体(の境界線)が上下左右にあるスピードで<動く>ことを指します(位置の運動)。

聴覚上、「音色」と呼ばれるものは、同一の周波数であっても、音波の波形が異なれば、違う<色>として捉えられます。かつ、いかに音叉から発せられる「純音」に対してであっても、私たちは通常、「純音とはこういうものだ」という音色感を持っています。
音叉の金属音や、放送の時報のようなパルス音は、まずアナログ的な正弦波か、デジタル的な擬似的正弦波としてのパルス波かを聞き分けられます。
アナログ的なものならば、時間の経過とともに減衰・・・すなわち音量が小さくなっていく・・・のに対し、パルス波には、その発生源が一定である限りは減衰が生じないことも、先験的に知覚できると推測し得ます。

また、聴覚上の運動は、「音」という、目には見えない対象が
・「右から左へ」とか「上から下へ」とかに移動して「聞こえる」こと(位置の運動)
・ある高さの音が、ある時間の経過後に、より高いか、より低い、別の音に移動すること(波長の運動)
という、それぞれ違う<動き>を複合的に捉えているものです。

したがって、視知覚的な「色彩」・「運動」と聴知覚的な「色彩」・「運動」は、(回りくどい言い方で恐縮ですが)「色彩」・「運動」という同じ<大きな集合>に属するものであっても、その<大きな集合>の中で、明確に区分される部分と重なり合う部分がある、ということを、まず念頭に置かなければなりません。



ゼキの著書に挙げられている、「脳の損傷によって色彩を知覚できなくなった」画家の絵(169頁)は、悲しいものです。そこにはバナナの形も、リンゴの形も・・・心が荒れているからでしょうか、線は荒っぽいものの・・・しっかりと捉えられています。陰になっている部分が塗りつぶされているのを見ると、おそらく、明暗までの知覚は出来ているのでしょう。ですが、この画家さんは、色彩を失った後、それまで愛したフェルメールの絵を振り返ることもなくなり、ギャラリーへ出かけることも無くなった、ということです。

音楽は、「まったく聞こえない」ということを除いて、果たしてこの画家の例と同じような「色彩の喪失」を私たちに経験させるでしょうか? 上の純音の例を見ても、完全に、というわけには、どうもいかなそうです。
が、「単色」の濃淡だけにすることは可能です。

一つ、例をお聴きください。

・ブラームス「交響曲第4番」2台ピアノ版・・・第1楽章(立体感を消す為にモノラルにしました)

ラ・マルティース/ケーン NAXOS 8557685

ここには、最後に聴いて頂く、オーケストレーションされたあとの豊かな色彩は、確かにありません。
この2台のピアノ版は、ブラームス自身が交響曲を公衆に発表する前に、自分を理解してくれる友人を集めて披露するために編曲したものです。このときの友人達の反応が、興味深いのです。
ブラームスともう一人の人物がこれを弾いた後には、長い沈黙が待っていた、というのです。
・・・おそらく、いくらブラームスを理解している友人達でも、いわば「モノクロ」のこのヴァージョンからは、ブラームスが頭の中で何をイメージしているのか理解できなかったのでしょう。
作品自体は、通ならば「仕掛け」が分かるようになっていて(音を3度ずつ下げていく音列を、4音目で一見上昇したかに見せる)、このことは、即座に分かってはもらえたらしいのです。ですが、誰も、一言も発することが出来なかった。最後に、まだ歳若かった指揮者リヒターが、気まずい沈黙を破ろうとして
「一人くらいは大声で『ブラヴォー!』って叫ぶと思ってたんで、若輩者の僕は遠慮してたですが」
と発言したことで初めて場が和み、次の楽章の演奏に進むことが出来たのです。

何故そんな事態に陥ったか・・・秘密は、ブラームスがこの作品の評価を乞うた長年の友人エリザベート・フォン・ヘルツォーンベルクの
「これは(とても素晴らしい作品だけれど)普通の人たちにとっては難しすぎる」
との発言が物語ってくれます(ただし、エリザベートは正式のオーケストラスコアを見て発言したかも知れません。それでも、曲のイメージを頭の中で掴む上では、ピアノ版を聴くのと大きな差はなかったと思われます。以上は、フリッシュ『ブラームス 4つの交響曲』音楽之友社、絶版・・・英語版は容易に手に入ります、および同社版のスコアの解説を参照しました。)

ところが、オーケストレーションを施された正式版が大衆を前に演奏されたとき、作品はエリザベートたちの憂慮を見事に裏切り、大喝采を浴びた。

やはり、さまざまな楽器で音楽が明確に「色分け」されることによって、印象が平明になったのですね。

この例をみるかぎり、ピアノにはピアノの音色がある、とは言いながら、視覚とは意味合いにズレがあるものの、音楽にも「色彩」が作品を豊かにするとの事実は、厳然として存在することがわかります。

しかしながらもう一方で、音楽作品は、「音色が存在するのに、音色を聞き分けられない」という症例を見出すことが、出来たとしても非常に困難でしょう。「音色」には同一の周波数でも別の色がついている、ということが当たり前にあるのですから。
それと同時に、音楽作品には、本来的に、先ほど挙げた、音楽上の意味合いでの「運動」は、具象的な物体とは異なり、必然的について回る。
難聴にいくつかの種類があるとして、ある種類の波長は聞こえない、ということは、あるかもしれない。
ですが、聞こえない波長は、私の知る限りでは、途中の音域が抜けている(低音と高音は聞こえるが、中間の音は聞こえない)という非連続性を示すことが無い。物体の移動の知覚とは違うのです。ですから、波長の変化については音楽では「運動」なのですけれど、視知覚としては「色彩」の問題と同列に扱われるべきものになる。



ゼキの挙げている「運動の知覚障害」症例の中に、音との連動を扱ったものが現れないのを、非常に惜しく思います。
音もまた、知覚の世界では、音を発することを伴う「物体の移動」を知る際に大きな手がかりを与えてくれるのは、誰でも体験していることです。
では、ステージの右側で歌っていた歌手が、歌ったままで走って左側に移動した場合でも、運動を知覚出来ない視覚の持ち主は、やはり歌手を見失うのでしょうか?

さしあたって「運動失認」患者さんには物が場所を変えることが理解できない・・・液体の量が増えても、その液体と空間の間の線が認識できないので、お茶をこぼれないように注ぐことも出来ない、ということもあるそうです・・・のがもっとも重大なことですから、歌手の移動などという悠長な例で「視覚の運動失認」を考えるなど、もってのほかなのかもしれません。
ですが、もし「位置の移動」が視覚では知覚できない場合でも音で知覚できるのでしたら、音を使ってそういう患者さんの手助けになる工夫が見出せる可能性もあるのです。

そうした実用面はさておいても、興味深いことが把握できる入り口を見出し得ることになります。
五感のうちの少なくとも「視覚」・「聴覚」は、もしかしたら密接に連動して機能しているのかも知れない!

「色聴」と呼ばれる感覚を持っている人たちがいることが分かっていますけれど、これは特別なものか病的なものか、まだ判明していない、とされています。

私は、自分自身は自覚的な色聴の持ち主ではありませんが、色聴は特別なものでも病的なものでもないと思っております。

映画の、とくに印象的な場面転換の際によく使われる音を、思い浮かべてみて下さい。

突然真っ暗闇に陥る場面では、非常に低い音が使われます。
反対に、これもまた突然に燦燦と光がさす場面では、高い音が使われます。

これらのことだけで、どの高さの音がどんな色か、というディテイルは措いても、「色聴」は世間の誰もが持っていることは、自ずと明らかになるのではないでしょうか?
(ここであえて聴覚障害者を含めないのには考えがあるのですが、それをお披露目するチャンスがあるかどうか分かりません、ただ、いま、ここでは上手く述べられません。)



光の波の「波長」は、音の「波長」とは比べ物にならないくらい細かいし、光と音では物理的に異なった性質を示してもいます。
ただ、「波」である、という点では、一致している。

そうすると、知覚は、
「音とはどんな成り立ちの物理現象で、光とはどんな成り立ちの物理現象である。故に、別々のものとして捉えられる」
などという割り切った原則を立てるよりは、光にも音にも共通する「波」という性質のへの類推から、違った感覚器官でも、「波」という共通性質を抽出し、近似させ得るものは近似させて、相互補完しあっている、ということも想定したって決して変なことではないと思うのですが・・・
・・・やっぱり、変かなあ。



ブラームスの「交響曲第4番」第1楽章がオーケストラ版で演奏されたものをお聴き頂きながら、今日は最後の引用になってしまいましたけれど、ゼキの見出したいくつかの事柄で本章に採り上げていることがらのまとめを、どうぞ、お読み下さい。

・カルロス・クライバー/ウィーンフィル(1980)

Deutshe Gramophone UCCG-70020


「色は(中略)脳の構築物であり、外界に色が存在しているのではない。このことは、はるか昔にニュートンが気づいていたことである。ニュートンは次のように述べている。『正確に言えば、光線には色はついていない。この色やあの色の感覚を呼び起こす一定の力と性質があるだけなのである』と。」(171頁)

「視覚性物体失認には制約はあるものの、不思議な点も認められる。認知できる物体と認知できない物体があったり、検査によって同じ物体が認知できたり、認知できなかったりすることが認められるのである。この違いの背後に潜む謎はまだ解き明かされていない。」(177頁)

「色の美しさ、肖像画の美しさ、風景画の美しさなどという言葉は、美しさに独立した複数のカテゴリーがあることを暗黙のうちに示している。」(180頁)


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergjOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« 歌ってみればよいのです(アマオケで「おらあヘタだ」と悩む人へ) | トップページ | ちと早すぎですが:大宮光陵高等学校定期演奏会のお知らせ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/208675/42852773

この記事へのトラックバック一覧です: 音楽美の認知(9) 色彩と運動、その把握についての課題:

« 歌ってみればよいのです(アマオケで「おらあヘタだ」と悩む人へ) | トップページ | ちと早すぎですが:大宮光陵高等学校定期演奏会のお知らせ »