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2008年10月15日 (水)

音楽美の認知(8) 「理解する」とは?

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どんどん溝にハマッて・・・アクセス数を落としております。 (^^;

専門家さんから見れば、素人考えなんか別に視野にも入りませんでしょうし、もしご好意をもって覗いて下さっても、議論がチャンチャラおかしいか、徹底していないでしょうし。。。

アマチュア仲間にとっては「なんでこんなことに熱中するのか」、キチガイ沙汰でしかないでしょうし。
第一、世間様でこんなことに興味を持つ人も少ないでしょう。
要するに、私は実に取るに足りない、無益なことに熱中している。
しかも、人様が敷いて下さった線路の上を歩きながら、価値のない石ころを拾いつづけているようなもんです。

まあ、懲りずに続けます。



さて、この曲、賛美歌のメロディーのアレンジですが、元のメロディが分かりますか?


ゼキ氏が第8章<見ることと理解すること>で注目しているのは、「失認症」と呼ばれる疾患です。脳の一部欠損によって起こる視知覚の「狂い」で、たとえば「部分」はどこもかしこも見ることが出来ても、それを「全体像」として捉えることが出来ないとか、自分の肉親を他人と並べて座らせると識別できない、とかいうような症例です。 が、ゼキの興味は、そうした症状を持つ人は「何が分からないか」ではなく、「何ならわかるのか」のほうに向けられている点で、従来の発想とは逆転しています。 「全体像」として把握できない人でも、風景は見事に写生出来る。・・・それが何であるかを説明は出来ないにも関わらず、彼の絵には、すべてがしっかりと描かれている。(訳書154〜156) じっと並んで座った肉親を同じ列に並んだ他人と区別できない人も、みんなが一斉に走れば、その途端に 「あ、あれが私の妹です!」 と即座に答えることが出来る。(158頁)

・・・この、「出来る」ことのほうに、注目した。
(他に色彩の失認についても採り上げていますが、今回は省略します。)

そこで脳の領野にどのような変化があったか、ということは、前章と読み比べればすぐに推測できることです。
すなわち、ゼキたち最先端の研究者によれば、視覚を司る脳は連繋プレイはしているものの、決して統合されているわけでもなく、統合するための特定の司令塔となる領野も見出されていない。
「一定の色」・(まだ前章には出てきませんが)「一定の傾き」・「一定の動き」等々を時間差をもって知覚する領野だけが存在し、視覚像が知覚される瞬間には、それらはそのままの時間差をもって受け止められているのであって、私たちがあるひとつの視覚像を「統合されている」と思い込むのは、各々の間の時間差が短いからに過ぎない・・・すなわち、視覚像のうちの特定の特徴を知覚するシステムは、各々「自律的に」活動している。
「見ることは知覚することであり、理解することなのである。そして見ることには(中略)仮定が含まれているのである。」(165頁)
これは、ゼキが直接触れることは一度もなく終わるのですが、<クオリア>を知覚の究極とする感覚・感性論とは、大きな一線を画するものです。
私たちの知覚は、統合されてはじめて「知覚」となるのではなく、したがって、<クオリア>と呼んでいるものに生理的なもの以上の「知覚としての」価値を見出すことには、何か誤謬があるのではないか?・・・それは、本来の<クオリア>というプロセス的な「ある一連の」生理的現象を、「知覚」が「記憶」に変じるまでの時間をあえて無視して、旧来の「知覚」に対する捉え方をそのまま<新しそうにみえる>言葉で<美人さん>にお化粧直しをさせただけなのではないか?

「全体」だけを考えることに固執すると、「一部一部では何が出来ているか」を見失う、という例でして、「森を見て木を見ない」ことにも「木を見て森を見ず」と釣り合うだけの<論の欠陥>があることを、<「失認症」でも出来ること>の確認例から、私たちは充分思い知ることが出来るのではないでしょうか?


<クオリア>について、ここで復習、というより突っ込み直しをしておきましょう。 いちばん純粋に脳を調べる立場から記述している池谷裕二氏の表現は、こうなっています。

「脳波をモニターしながら脳の活動を調べると、(略)先に『運動前野』という運動をプログラムするところが動き始めて、それからなんと1秒ほども経ってから『動かそう』という意識が現れたんだ」(ブルーバックス版『進化しすぎた脳』170頁)
すなわち、この、あとから生じた「意識」をもって、池谷氏は<クオリア>と呼んでいる。脳の働きの上での<クオリア>という言葉の位置づけは、これが最も基本的なものでしょう。
しかし、ゼキは「意識」されてからの「脳の反応」ではなく、前の第7章において既に、受容器官から脳が対象についての信号を受け取った瞬間からの観察を行なっており、その結論(まだ最終ではないことは次回以降見ていくことになりますが)として、先の

「見ることは知覚することであり、理解することなのである。そして見ることには(中略)仮定が含まれているのである。」

の言葉を述べているのであり、そこには信号を受けた脳があらかじめ「仮定」をなすことによって「意識」を形作っていくプロセスまでを追いかけているのであって、結果としての<クオリア>を待つまでもなく、感覚器官は対象から信号(刺激、と呼んだようが、用語上妥当でしょうか)を「理解」している(それがたとえ「誤解」であったとしても)ことを突き止めているのです。したがって、ゼキの得た結果によれば、<クオリア>が池谷氏の言うような「表現を選択できない(149頁)」脳の副産物であっても構わないとしても、<クオリア>すなわち<覚醒感覚>が、少なくとも脳の理解する「全て」なのではないことを示唆しています。
したがって、脳を客観的に観察した池谷氏の記述とは別段齟齬はないものの、それを
「心に見えているものは、クオリアから出来ている」(茂木健一郎「クオリア入門」文庫版37頁)
のようにまで敷衍してしまうのは否定されている、と見なすのは、妥当性を欠いていない、と私は思っております。



さて、聴覚においては、ゼキの観察したような、「部分が分からなくても理解は出来る」現象がみられるかどうか。
最近、最相葉月さんの『絶対音感』を読み始めましたら、やはりいろいろな症例報告があるのだな、ということが分かりましたが、症例の出所がわからず、ゼキがまとめてくれている視覚の例とどう対比させてよいか、に、まだ迷っております。見つかれば、適宜利用はしたいと思いますが、当面は従来どおり、主に西欧音楽の実作例から、聴覚健常者でもゼキの例と似た体験を出来るものを探し出し、お聴きいただいてみる方法で進めようと思います。

今回は、上に挙げた二つの例に必ずしもピッタリ対応しないのですが、次のような選曲をしてみました。



まずは、冒頭に掲げたオルガン曲です。
・バッハ:オルガン小曲集から「いざ来ませ異邦人の救い主よ」BWV599

これの元のコラールはこのようなものです。

同じ旋律だ、と感じ取ることが出来ますか?
バッハのオルガン編曲は、元の旋律を、細かな音符の唐草模様の中に巧みに織り込んでいます。そしてそれは、細かな音符の動きに注意を向けて聴く限りでは、おそらく決して、後者のようなひとつながりの旋律としては聞こえないはずです。・・・後の旋律を知っていて初めて、私たちはバッハの編曲の「骨組み」を知ることが出来る。・・・視覚と異なるのは、「全体像」を知るにもそれなりの「時間」を要することです。
が、その全体像を知る頭ないかに関係なく、バッハの音楽は「知覚」できる。「知覚」と言ってしまうには<クオリア>という言葉が孕んでいた「記憶」の混同を取り払えないのですが、知覚される対象が「瞬時に」捉えられるものかそうでないものかに由来する差異であって、「知覚される絵画」と「知覚される音楽」には<時間が(膨大に)認知を媒介するか>というところに相違点がある限り、同じ線上で観察すること自体に無理があるのでしょうね。

ですので、もう一つ、逆のケースを用意しました。

・バッハ:カンタータ第60番「おお永遠の神、轟く言葉であるお方よ」終曲のコラール

N.Harnoncourt/Cocentus musicus wien TELDEC 2564- 69943-7 Disc18

これをお聴きになってから、次の曲を聴いてみて下さい。バッハの上のコラールの旋律が登場します。・・・ただし、15分ほどかかる長い曲ですので、お時間が許すときになさって下さいね。
ヒントとしては、7分経過したあたりにほうに現れるので、はしょりたければそのあたりまでカーソルをドラッグしてみて下さい。

・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」第2楽章(終楽章)

H.Szeryng(Vn.)/R.Kubelik/Bavarian R.S.O Deutsch Gramophone 469 606-2

これはもうご存知のかたには「安直な例」と思われてしまうかもしれませんが、十二音技法で作られた響きの上にバッハのコラール旋律を乗せたものです。しかし、もしあらかじめ何も知らされずに聴いたとき、この曲のなかに「なんとなく馴染みやすいメロディがあるな」と感じたとしても、それを最初から明確なメロディラインとして捉えることが出来るでしょうか?

さらにお時間があるようでしたら、ベルクの方を2、3度聴いてから、次にまたバッハの原曲をお聴きになってみてくださることをお勧めします。そうすると、上に述べたあたりの事情が、少しははっきりと実感されるのではないかと思います。
あるいは逆に、バッハの旋律を明確に認識してしまう手順を踏んだ最初の聴き方では、あとでベルクのオリジナル部分を何度聴いても「分かりにくい」印象を持ったりしませんでしょうか?


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