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2008年10月 2日 (木)

音楽美の認知(5) 絵画のイデア、音楽のイデア

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先に、お聴き頂いておきましょう。
これは、音楽でしょうか? 音楽以外のものでしょうか?




ゼキ先生、第5章は<プラトンのイデアの神経科学>、と来ました!
これは、前章でショーペンハウエルを引いていることからのつながりから来るのでしょう。
この章から、ゼキは脳神経系の臨床データを用いているのだ、と最初は誤読していましたが、本章は未だ序論の一節でした。ですから、本章でも、ゼキはゼキの「観念」を述べているに留まります。

そこで、私の「読み」も観念的なものにしておきます。

私の以下の要約で適切かどうかは心もとありませんが、極力、細かくなりすぎないように努めましょう。

趣旨としては、人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな「像」の蓄積が出来る。人がものを「見る」ときには、その蓄積=イデア(というのが、端的に言えばゼキ見解です)を原像・・・雛型、と呼ぶことをあえて避けたのは、私の意思です・・・として、その「もの」が何であるかを判定する。
したがって、初めて見るものに対する判定も、経験の蓄積による原像が元になっている。
美術として一つの驚きをもたらすものは、その原像に当てはまらないものが描かれている場合、あるいは画像としては原像にリンクさせ得ても、副次情報(タイトルなど)がリンクした原像に一致しない場合である、というもので、これをマグリットの作例3つをもって読者に確認させています。・・・ですから、内容としてはまだ、視覚脳の働きとしての原像とは何か、の彼なりの立脚点を見出すことに重点が置かれており、視覚脳各論の詳細には立ち入ってはいません。
ただ、非常に根本的な概念として、プラトンの哲学用語であった「イデア」が、脳・神経系の経験の蓄積による原像である、という置き換えを行なうために用意されている、ということで、非常にウェイトの高い一章となっています。



ゼキの捉えている「原像」は、はたして、どの程度の範囲をおさえているのか?

あとでヘーゲルを引用したりして、必ずしも次の記述からだけで判断していいものではないのかも知れませんが、ゼキ自身が「期待」しているものよりは<狭い>のではないか、との感じを拭い去れません。

「ここにある一つの寝椅子は、横から見たり、前から見たり、あるいは他の方向から見ることによって、それ自体と異なるものになるということがあるのだろうか。むしろ、違うように見えるけれどもまったく違わないのではないだろうか」
「その通りです。違っては見えるけれども、実際には違っていません」
「では、まさにこの点について考えてもらいたい。絵画はどんなときにも、実体をあるがままに模写することを目的としているのだろうか? つまり、見かけの模写なのかあるいは真実の模写なのか」
「見かけの模写です」
「そうすると、模倣の美術というのは真実から程遠いところにあるといえるね」
「ええそうです/形の見かけでしかなく、実体でも真実でもありません」

(ゼキは明記していませんが、プラトン『国家』第10章からの引用です。)

ゼキが典型としてあげている、プラトンの問答・・・これがゼキの最も依拠する記述です。
・・・静止像が前提になっているのは、氏の取り上げているテーマ・課題の上からくる制約でもあり、この限定無しには美術についてまとめることが出来ませんから、この点の責をゼキに帰することは出来ません。

最小限、二つ、検証が必要です。
ひとつめは、果たして、ゼキが事例として掲載しているマグリット作品は、ゼキの定義しなおしている「イデア=経験の累積の原像」の崩れに、本当に繋がっていると言えるかどうか。
ふたつめは、音楽に、「経験の累積の原像」の崩れに相当する事例を、私たちが見出しえるかどうか、です。
この一方でも、ゼキ定義では正確に不足が生じる場合には、「イデア」の脳神経科学からの再定義自体が「不充分」であるか、「不可能」であるか、のいずれかになるのではないか、と私は考えます。
・・・念頭にあるのは、次のようなことです。

「私たちは、自分達が未経験な事物・事象に出会ったときにでも、感激を覚えることがあるのではないか? そのときには、自己のうちには依存すべき原像がないはずであり、ゼキ定義の<イデア>ではこのケースの感激を説明することが不可能である」

ただし、前提として、ゼキの立脚点から逸脱しないように、プラトンがもし「運動」や「時間」について定義している<イデア>があるとしても、考慮しないこととします。これは前回、音楽を観察する上で「時程」が重要な位置を占めることが分かってしまっているので、音楽側からは実に厳しい制約なのですが、あえて挑戦してみましょう。・・・実際問題として、プラトンは音楽についても『国家』第3章の中で音楽のイデアについての最初の検証を試みている(山場に達してからの第7章で、天文学の次に置かれていますが、これはピュタゴラス派の見解の総括りであると同時に、ピュタゴラス派に対する非難ともなっています)のですが、これは当時のギリシャ音楽のあり方(歌詞があり、ギリシャ語の持つ長短アクセントに伴うアクセントがその歌詞が歌われるリズムを規定している)が前提に据えられているため、旋法(いわゆる「調」)以外に関しては、そのまま現代に援用することが出来ません。



Knmvjot8ゼキが挙げているマグリットの作例3つはいずれも有名なものですが、木陰を通り過ぎているはずの馬が木の表面に現れているかと思ってよく見ると歩いているはずの地上にはいない部分が含まれているもの(「白紙委任」)、海辺に打ち上げられた生物の上半身は魚だが下半身は人間の女性(「共同発明」)、という2例は除外しましょう。これは単に、情景のトリックにより「原像」が中断されるのであって、ゼキの再定義した<イデア>の崩れの根本にまで触れるものではないからです。

パイプ(であるはず)の絵の下に「これはパイプではない」とフランス語でサインされた絵を、俎上に乗せて考えます。・・・これは、ゼキが依拠したプラトンの記述に、最も合致します。

・・・じつは、プラトンの専門家のまとめたものによりますと、そもそも<イデア>とはプラトンが先験的な普遍性を追求するにあたって用いた術語であり(ちくま新書190『プラトン入門』1999年参照)、このことを理解した時点で、ゼキの「脳神経的なイデアの再定義」が経験の蓄積に依拠している以上、プラトンの意図からは逸脱していることが明らかなのです。むしろ、ゼキの定義は「クオリア」を哲学的な定義に見せかけている諸著作のものと同じ、もしくは近似している、ということになる。
ただ、ゼキが追求したいのは「クオリア」ではない・・・前回私があえて音色については「質感」という日本語を用いましたが、そこで考えていることも「クオリア」とは区分けしておきたいためにあえてそうしたのでして、そのほうがゼキの意図に叶う、と判断したからです・・・。プラトンにとっての<イデア>が先験的であることを意図したからといって、それに拘泥する必要も、また、ないでしょう。従って、繰返しになりますが、ゼキの定義は、まだ、あえて<イデア>の脳神経的な再定義である、ということを認め、前提としておきます。

話をややこしくしました。すみません。戻りましょう。

2265254558マグリットの「これはパイプではない」という、パイプの絵の話でした。

この絵に対する、いくつかの、代表的と思われる「鑑賞者の受け止め方」を考えてみましょう。

「パイプの形を描いているのに<パイプではない>と言っているからには、

<パイプ、というものを見たこと、触ったことがある人の受容>
1)これは確かに「パイプ」そのものではなく、「パイプの絵」という、絵画である。
2)「パイプを描いたのではないのだとしたら、果たして何を描いたんだ? 描かれた物はパイプではない、ということか?」

<パイプというものを知らない人の受容>
3)「ふうん、じゃあ、ここに<描かれている>のはパイプという物ではないんだ。じゃあ、何という物だろう?」

他にも考えられますか?・・・私の貧弱な発想で思いつくのはこれだけです。

また少々用語だけはややこしくなりましが(じつは私も理解してるわけではないからです、お恥ずかしい限りで!)、ゼキの再定義の根拠となったプラトンの<イデア>には、探れば非常に難しい話ながら、割り切ってしまえば実に単純なパラドックスがあります。
もういちど、ゼキの引用したプラトンの文をお読み下さい。

「模倣の美術というのは真実から程遠いところにある」云々

・・・ここには、<イデア>云々する際に読み落としてしまう重要なポイントがあります。
「事物そのもの」と「事物を引き写したもの」の混同、という、私たちに起こる一般的な心的現象への無考慮です。

プラトン(『国家』中ではソクラテスに語らせていますけれど)は、一見、前者を「寝椅子そのものという事物」、後者を「寝椅子を描いた絵」ということで明確に区分しています。ですから、読者(あるいは話の聞き手)は、
「なるほど、実物と絵は別々のもんじゃわい」
とあっさり納得します。

ですが、実際に絵を鑑賞するとき、私たちは「絵」を見ているのでしょうか?
そこに対する根本的な問いかけが欠けているのです。

マグリットの「<パイプではない>というパイプ(らしきもの)の絵」を見るときに、鑑賞者が見ている対象の枠組みは「絵」であって、1)としてあげた反応を示している人だけが、明確にそれを意識している。しかも、それは「絵」ではなく、「絵」に付した、マグリットの「これはパイプではない」という文、この「文」という副次的な情報によって、初めて「絵」を見ているのだという自覚に至っているのです。
ましてや、2)・3)のほうが、私たちが絵画を鑑賞する際の一般的な反応でしょう。

展示されたり印刷したものを通して見るのが一般的ですから、私たちの誰もが
「描かれたもの」
という枠組みの中にあるものを見ているのだ、という「不明確な」意識は必ず持ち合わせてはいるのです。
ですが、本当に「絵画」に没入するとき、その枠組みは、実際には意識の外へ飛んでいってしまうのではないでしょうか?

すなわち、私は二つの検証のうち最初のものに限っても、ゼキの再定義は「不可能」とまでは言いませんが、不充分であると考えます。

他の例をも考えてみて下さい。
極端な例ならば、戦争の写真。その下に「これは戦争ではない」と記されているとき、私たちは、果たして上記の1)のように単純に「じゃあ、これは戦争そのものではなくて、戦争の『写真』なんだな」という発想で済ませるでしょうか?・・・中にはそういう方もいらっしゃるかも知れませんが、私には、そういう発想をする人、というのは、ちょっと想像できません。しかも、1945年以降に生まれた日本人(そしておそらく従軍したことの無い米国兵なども)について言えば、「戦争」は直接的な経験の蓄積としての「原像」は形成されていないにもかかわらず、戦争の何たるかを、観念ではなく情景として把握しえるのではないでしょうか?

話をそこまでひろげないにしても、こうは言えるでしょう。
すなわち、形として既に「存在」しているものを更に引き写した、(言葉は不適切かも知れませんが)「擬似的な「存在」の中にも、私たちは、その元となっている「存在」を<見る>のです。
その事実を、ゼキに限りませんが、脳神経系ですべてを説明できると信じている人は、意識しているかいないかに関わらず、結果として「否定する」前提から入っている。

今回はこれをあえてまた音楽体験に置き換えて言い直すことはしません。その点で、標題に「音楽のイデア」と記しておきながら、まったくそれに触れないで終わっているではないか、とお叱りを受けるかも知れません。

これについては、また謎かけ・・・読んで下さる方にも、私自身にも・・・で、まだまだ話を中に浮かせたままにしておきます。毎度ですが、ご容赦下さい。

その謎かけとは、冒頭に聴いて頂いた
「これは、音楽でしょうか? 音楽以外のものでしょうか?」
という、その音声です。

蓋を開けますと、これは「コーランの読誦」の例です。

第2章「牝牛」の一節です。
CDは、音楽物として出ています。ですが、本物のイスラム教徒のかたが、これを「音楽だ」と言われたら、多分お怒りになるはずです。
何故なら、いかに節回しが付けられていようと、コーランの読誦は決して
「音楽ではない」
からです。

さて、このことを、私たちはどのように解釈すればよいのでしょうか?

・・・毎度、お粗末さまでございました。


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