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2008年10月23日 (木)

曲解音楽史47)17世紀イタリア〜「歌」の自立へ

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧
    42)オスマントルコ 43)アフリカ 44)明朝時代の「中国」 45)朝鮮中世
    46)戦国期日本


さて、突飛ですが、16世紀末にイエズス会が日本の大名の子弟を使節としてローマに送り込んでいますから、それにくっついて行って、当時から17世紀前半にかけてのイタリアへ行ってみたいと思います。

このいわゆる「天正の遣欧少年使節」が辿ったローマまでの行程が、インド洋はもはやイスラム商人独占の時代ではなくなっていることを如実に物語っています。けれども、もっと興味深いのは、それでもなお彼らは直接ローマを目指したのではない、ということです。中立地域とも言えたマラッカ海峡を経由し、既にポルトガルの支配下にあったインドのゴアに寄港した後、当時の航路としては自然であるとはいえ、喜望峰経由で大西洋を「ヘラクレスの柱」まで北上したところで、そのまま地中海に入るのではなく、まずポルトガルに入国し、次いでスペインに入り、途中にあるフランスの勢力下にある地域を避けながら、途中あるジェノヴァには寄港せず、もっと先にあるフィレンツェを経てローマに至るのです。
すなわち、この少年使節一行の往路は、当時のイタリアの錯綜した政治情勢を反映しているのです。
彼らの面倒を見たイエズス会はカトリック界である限り国境を超えた存在として認識されていましたから、ポルトガル・スペインとフランスの対立には直接の関係はないのですから、もっと自然に、もっとはやくローマにたどりつくことが本来可能であったと思われるにも関わらず、おそらくはその時々で最も世話になる国の事情には従わなければならなかったのでしょう。・・・同じ半島上で、位置的にもそれほど離れていないジェノヴァとフィレンツェなのですが、都市国家が林立する状態が続いていたイタリアでは、主にはまだスペインの直接間接の支配下にあったものの、それぞれの都市の成立基盤は実に多様でした。すなわち、ジェノヴァはスペインにとって重要な「金融機関」となることがこの頃ほぼ確定した一方、フィレンツェはそれまで婚姻関係によりフランスとの連携を強くしていたメディチ家の衰退が進んだ時期で、まさにそれにつけこんだイギリスやオランダがスペインと並んでこの地に集積する富を和が手に独占する機械を虎視眈々と狙っていました。ポルトガルはもちろん、スペイン陣営です。スペインとしては、既に確保したジェノヴァでわざわざ冗費を使う必要はなく、むしろいちにちも早くその場での優越した位置を確保したかったフィレンツェで、目新しい「見世物」を土産を披露する外交策をとりたかったのではないのでしょうか?



少年使節たちがローマで耳にした音楽も、また日本に持ち帰って秀吉に披露した音楽も、彼らを世話したイエズス会のパトロンがスペイン陣営だったことも手伝って、16世紀末から17世紀のものとしては旧態然としたものでした。というのも、一般に「イタリアバロック音楽の開花」がなされたと言われているこの時期において、まずローマ自体は「新音楽」とされるモノディ(旋律主体の、対位法を控えた音楽)に否定的で、依然としてパレストリーナとその後継を最重要視していましたから、使節団がローマで聴いたミサ曲はパレストリーナ作のものだったと言われています。また、スペインもなお、音楽に対しては新しい流行に乗ることはありませんでしたから、使節団に持ち帰らせ、日本で演奏させた音楽は、フランドル楽派の代表者ジョスカンの作品だった、と推測されています。
スペイン本土は勿論、スペインが完全に支配していたイタリア南半分のナポリ王国も、教会以外で楽しまれる音楽は、ギターないしハープで伴奏される歌でした。その呼び名の中で興味深いのは「カンツォン」というもので、参照した辞典や資料類では見つけ損なったものの、おそらくはこんにちの「カンツォーネ」の<初代ご先祖様>なのではなかろうか、と、勝手に推測しております。

お聴き頂く例では、歌ではなく、ヴィオールでの演奏になっていますが・・・
・Valente: Gallarda Napolitana
Gallarda Napolitana
"MUSIC FOR THE SPANISH KINGS" viritasX2 7243 5 61875 2 8
(作曲者名なのでしょうか、ヴァレンテという人物については調べがついておりません。ご容赦下さい。)



ローマについては、その保守性を述べましたが、実質的にはしかし「旧態然としたままだった」という表現はあたらないでしょう。ローマカトリックが死守したパレストリーナの様式は、のちにモーツァルトが聴き取り、書き取ったアレグリの「ミゼレレ」に繋がって行く、という息の長さを保ち、同時期にモンテヴェルディをシンボルとして台頭した<第二の書法>すなわちモノディ様式に比べると、才能の無い音楽家の手による流動性や不安定感によって危機にさらされるような事態とは、以後もまったく無縁だったのです。
ローマでは、その時々の教皇の音楽重視度の違いにより、音楽の「地位」そのものはなかなか安定しませんでしたが、デカルトの庇護者としても有名なスェーデンのクリスティナ女王が引退して1656年にローマに定住するようになると、それまでのあいだに着々と創作され続けて来たイエズス会やオラトリオ会による宗教的音楽劇も確実に演奏機会に恵まれるようになり、さらには純器楽であるコンチェルト・グロッソも一挙に完成に向かって行きます(劇音楽については、世俗的なイタリアオペラの嚆矢となるアレッサンドロ・スカルラッティが晩年のクリスティナの音楽監督に任命され、コレッリは1681年に彼の作品1のトリオソナタをクリスティナに献呈しています。なお、クリスティナの没年は1686年ですが、ローマはその後も音楽の盛んな地域のひとつであり続けることが保証されました。)

以前も掲載したことがありますが、アレグリのミゼレレを聴いて頂いておきましょう。12分程度です。
ミゼレレ
タリス・スコラーズ The essential TALLIS SCHOLARS; Gimell CDGIM 201



さて、「初期バロック」と呼ばれるこの時期のイタリア音楽ですが、文芸との対比で見ると、本質的にはむしろこの時期のイタリア音楽こそが、ペトラルカやボッカチオに相当する<ルネサンス>的役割を果たした、と見るべきでしょう。それが、上のローマでの動きなどとだんだんに融合して行くことによって初めて、イタリア音楽は「バロック」に対応するものとなっていく、と考える方が妥当ではないかと思います。
それといいますのも、政治社会的に不安定な時期を迎えながら、当時のフィレンツェの音楽家たち、とりわけガリレオ・ガリレイの父ヴィンツェンツィオがそのメンバーの一人として知られるカメラータの、音楽に対する探求姿勢が、まさに「ギリシャ古典古代への見直しを通じて、人間の発する言葉に添った歌を作らなければならない」という理念で、生真面目に貫かれているからです。ヴィンツェンツィオ・ガリレーイは『古代の音楽と今日の音楽に関する対話』なる著作を1581年に残しているそうで、興味津々なのですが、いまのところ内容について私は知りません。ですが、彼を含め、カメラータの面々は、少なくとも古代ギリシャの音楽(声楽、ギリシャ悲劇中のコロスなど・・・すなわち、プラトーンが『国家』で、アリストテレースが『詩学』で述べている韻律についての記述に示されているもの)が詩の言葉の持つリズムを正確に、かつ劇的に朗唱していた、ということを正しく理解していたように思われます。
ただし、カメラータの生真面目な姿勢は、オペラの創始者の一人として構成に名を残すペーリらの名前の陰にすっかり隠れてしまっているようです。・・・誕生期のオペラは、既にパトロン(ペーリの場合はメディチ家)の財産をあてにし、それに取り入るかたちでつくられた大規模な作品(楽譜は残っていませんが)で、この時点でカメラータが理想としたような音楽そのものの「再生」の根は絶たれた、と見てもいいのかも知れません。
前回イタリアを採り上げた39節目の記事にも掲載したので、これまた重複しますが、ガリレーイの作を再びお聴き頂きましょう。前にもお話した通り、この作品は、レスピーギの「古代舞曲とアリア」第1組曲第3曲として編曲されたものです。

・polymnia
polymnia
herios CDH55146



「古典を見直しての再生」の道は断たれたものの、フィレンツェとは逆の位置にある要港、ヴェネツィアに登場したモンテヴェルディが、新しい書法で、イタリア音楽の中で初めて、歌の劇的要素を最大限に活かした大作を次々と生み出します。これによって、「歌」は民間で細々と生きて来た長い闇の時期をようやく脱し、宗教儀礼に勝るとも劣らない輝かしさを示し、庶民の、とまでは言えないものの、「世俗音楽の復権」を果たしました。
完全なかたちで現存する彼の歌劇は、遺憾ながら「オルフェオ」・「ポッペーアの戴冠」・「ウリッセの帰還」の3作のみですが、マドリガルなどの方は大量に現存しており、その今なお新鮮な響きを、私たちはCDという媒体の存在のおかげで、存分に味わうことが出来ます。そうした中にもまた小オペラと見なしてもよい「タンクレディとクロリンダの戦い」や「情け知らずのバッロ」も含まれますから、オペラの映像(以前は殆ど種類がありませんでしたのに、ここ数年で急に、さまざまな種類のものが発売されました)もご覧になると同時に、他の作品にも是非耳を傾けてみて頂ければと思います。
ここでは、有名な作品をひとつ採り上げておきましょう。

・アリアンナの嘆き(10分)
アリアンナの嘆き
Mauela Cusrer BRILLIANT 99710/5

なお、モンテヴェルディの、当時は斬新だった不協和音の使用や対位法の不使用を攻めたアルトゥージに議論を吹っかけられたことが音楽史上有名でして、最近、それについての詳しい解説とアルトゥージ論文の訳が東川清一氏の監訳で出版されました・・・高価なのと、読むべき本がたまっているのとで、まだ私は読んでおりません。お読みになって知見を得たかたからのご教示があれば幸いです。

ヴェネツィアはまた、ローマに先んじて純粋器楽をも発展させた街でした。これは、対スペイン上、地理的にも独立を保つのに優位な地理的位置にあったことも大いに益しているでしょうし、またこれまでの歴史の中で、商業的な自立の保持方法を身にしみて心得ていた市民たちの意識の高さも支えになったことでしょう。この時期登場し始める有名な器楽作家には、ヴィターリやトレルリも含まれます。
金管奏者たちのアンサンブルで有名なガブリエーリの活躍の場もヴェネツィアでしたが、ガブリエーリはドイツの最初の重要な作曲家であるシュッツの師ですから、あらためてシュッツとの兼ね合いで述べることと致します。

今回はここまでとさせて下さい。

参考とした書籍は、主に
・「西洋の音楽と社会3:オペラの誕生と教会音楽」音楽之友社
・「イタリア人民の歴史」I(プロカッチ著、未来社)
でした。


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