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2008年10月22日 (水)

音楽美の認知(10):捉えられなかったものは永遠に分からない

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ゼキ博士『脳は美をいかに認知するか』も、第10章をもって<第一部 能と美術の役割>を終えます。
第二部<受容野の美術>で、彼は主に抽象絵画やキネティックアートにたいする具体的な脳神経の反応をもって、「知覚と美術」の世界に、より明るい光を当ててくれるでしょう。
私の、本書を音楽と関係づける講読を、ここまでで一段落させておき、第一部で思いに任せてランダムに綴ってきたことを、再度読み返し、整理しなおしてみておかなければならないでしょう。そのことによって、第二部でゼキ博士が美術のずっと細部まで見通せるほどにあててくれる光の恩恵を、音楽の上にも与えてもらうようにしなければなりません。



ところで、ここまで読んできた部分では、「美術」が「形、色、運動」に関係してくること、それが知覚されるか、その知覚が疎外されるか、ということだけが問題として採り上げられ、したがって、音楽との対比も具体的に行なうことが出来てきました。

ところが、ゼキは、第10章を、フランスの外科医モローの驚くべき証言を引くことで締めにかかっています。
「外科手術により視覚を取り戻した患者が外界を見ることができると考えるのは間違いである。目は確かに見る力を獲得するが、その時点から、この力の使用法を・・・まったく最初から習得しなくてはならないのである。」(モローの言のゼキ引用、186頁)
・・・つまり、生まれてこのかた「もの」を見ることが出来なかった人は、仮に視覚能力を回復しても、「形、色、運動」が知覚できない。モローの発言の前に掲げられているある少年のケースでは、2つ3つのものの形を覚えるだけでも何ヶ月もの訓練を受けなければならず、しかも、二年後にはそうやって苦労して身につけたはずのことを、ほとんど忘れていたというのです。
同じように、先天性の白内障で視力を失った、といった類いの患者さんが手術で視力を獲得したとたん、たいへんな混乱に陥り(14歳の少女の例)、
「どうして前より幸せになれないの? 見るもの全てが私を不愉快にするの」
と叫んだそうです。(185頁)

ゼキは、実は第10章にこうしたエピソードを挟み込む前に、第5章でしっかり伏線を張っています。マグリットの「これはパイプではない」の絵をご記憶でしょうか? それについてゼキが記述する際、前提としてゼキが掲げていたのは、「人間の主観の中には経験を重ねる過程でさまざまな『像』蓄積が出来る」ということこそがプラトンの<イデア>の脳神経的な裏付けである、ということでした。
第10章は、ゼキが自らの<イデア>観、を脳神経生理の症例から、実に鮮やかに裏付けているのです。かつ、第6章以後で彼が述べて来たことも、第5章と第10章を繋ぐための周到な準備段階だったのです。
ゼキは、<プラトンのイデアとヘーゲルの概念の病理学>と題したこの章を、
「プラトンのイデアは、脳とは関連がなく、外界に理想形があるとしている点で神経生理学的に欠陥がある。」(181頁)
と、胸を張って述べることで始め、第6章では実作の上では必ずしも実らなかったキュビズムを主張した美術家の言をあらためて採り上げ、
「キュビストたちの発言は結局のところ直感的なものであり、過大評価に注意しなくてはならないが、彼らの発言のうちにみられる神経科学的正確さには驚嘆せざるをえない。たとえばグレーズとメッツァンジェは、絵画における線の関係について述べた文章で、ある状況においては、『私たちが認識するものと私達の中に先在するものとの間に知覚される類似性で、それ以上通分できないものの総和、すなわち質が具象化されている』と述べている。」(193頁)
このような引用をなすことで、6章以降見てきたことから、視覚脳の特定の領野に病巣をもつ人々が、視覚世界の他の属性を見る能力はそのままで、ひとつの属性を見る能力の味を喪失しうることを示してきたことが、プラトンが(ゼキの想定によれば)考えていたであろうような、総合的な対象としての<イデア>というものは成立し得ないのだ、と、控えめながら堅実な口調で重々しく語り、第一部を総括するのです。

「神経科学的に言えば、『美術はもうこれ以上対象なんていうものとは関わりたくないのである』というマレーヴィチの言葉は正しかったと言えるだろう。」(194頁、第10章の最後の言葉)



まったく音の聞こえなかった人が聴力を回復した時にどうであったのか、の症例をひとつも知らない私には、ゼキの「視覚におけるイデア論の欠陥」に付いての記述に反論できる余地は全くありません。
「光を取り戻した人が、取り戻した故に、かえって光によって盲目にされる」
ということが事実として存在する以上、ただそのことに驚嘆し、説き伏せられ、聴覚においても同等なのであろう、と、想定する他に術がありません。

かつ、聴覚を失っていない人でも、自分の<イデア>に存在しない「音楽」を受け入れられなかった例には、音楽史のカテゴリで戦国期の日本を扱った時に出会っています。当時日本に来たヨーロッパ人は
「(日本の音楽は)単音がきしきしと響くだけで、ぞっとする」
と言い、日本人の方は
「(協和音や調和は)かしましい、といって好まない」
というのでした。

・・・いや、この例を<イデア>(この用語を用い続けることが、そもそも妥当性を欠くことになるのかも知れませんが、それでも<クオリア>という時系列的には終点に位置する現象で知覚を理解するよりはより人間、あるいは生命の本質により近く接していること、また、いまのところ代替出来る用語を知らないこと・・・少し面倒くさく言えば「定義域を持つ<名>」こそが論理学上では<イデア>に代わった記号と見なしてもいいのでしょうが【恐縮ですが、この件についてはいったん忘れて頂いてもいいかと思いますので、今は詳述しません】、では「名」とは何か、というところ突き詰めなければならず、それについては私はまだ何の手も加えていません)を「持たない」ものは「受容され得ない」ひとつの証拠としてあげてよいのかどうか。

知覚のひとつの局面・・・視覚なら視覚のみ、聴覚なら聴覚のみ・・・だけに注目するならば、<イデア>は(ゼキの理解によれば)プラトンの考えたような総体的なものとしては人間の前には存在しない、ということは、真理なのかも知れません。

ですが、省みてみると、まず第5章で私は「ゼキの前提には、対象に対する<枠>がはずれているのではないか」という意味合いの疑問を持ちましたし(その時の文そのものでそういういい方はしていません、今読みなおすと、そういうことだったんだなあ、という話です)、第6章、第7章、第8章ではゼキにおける知覚把握の<枠>概念の不在についてさらに突っ込んでみて来たわけですし(とはいえ、浅いものではあったでしょう)、第9章では「視覚」と「聴覚」が捉えるものの相違点と、それがあってもなお存在する「共通項」が知覚として連動し得る可能性をイメージするところまでたどりつきました。

<クオリア>=<心にあるもの>という等式が成り立たないことは、既にゼキの実証したところです。
第一部については、このことが確認出来たことで満足しておけば充分かも知れません。

ただ、<クオリア>という用語を一度も用いることは無かったものの、ゼキはそれを否定する材料としてプラトンの<イデア>を、プラトンの表現したまま・・・すなわち、報告し、自己の裏付けをとる材料としては最新のものを上げながら、総括するべき概念としては<否定されるべき総体的イデア>とでも言うべきものを持って来ている、さらに言えば、古代人が考えるにはギリギリであったろう概念を、現代のものに完全に補正・置換する過程を経ることなく、古代人と同列なままで「知覚の科学」に援用している点には、さらに検討すべき大きな課題が残っているのではないか、と、まだ漠然とではありながら、それでも強く感じざるをえません。



ゼキの症例に相当するものを、当然、音のサンプルとして掲げることは出来ませんが、最後にチャールズ・アイヴズの最も有名で最も分かりやすいと思われる7分ほどの作品をお聴き頂きながら、拙文をお読み頂いたかたにもご考察頂き、もしアドヴァイス頂けることがあればご指導を乞うことで、今日は終えておこうと思います。

この作品について簡単に言い添えておくならば、誰にでも「音楽」であると認識(認知、ではなく)されるであろうものは、弦楽が最初に奏で始める原初的な音階です。そのあいだに、トランペット、フルートの「句」が、それぞれ決して重複することなく挟み込まれるのですが、これもまた「音楽」として認識し得るかどうか・・・そのあたりにご傾注頂ければよろしいのではないかなあ、と思います。

・「答のない質問」

M.Gould(cond.)/Chikago Symphony Orchestra, 1966 RCA TWCL-4004

はてさて、何で、こんなことを考え続けるのが「音楽ビジネス」と直結するのでしょうね?

今時点でひとつだけ言えることは、
「音楽そのもの、がきちんと<売り>になっているマーケットは、日本にはまだ存在しない・・・いや、世界の中でもどうだろうか?」
ということを、歴史と科学の、少なくとも二つの面から可能な限り確かめてみることによって、「音楽」の価値とは何であるか、を見直すいい契機になる可能性はあるのではないか、と、そんなバカな妄想を、私は抱いている、ということくらいでしょうか・・・



なお、下にいつもリンクしているsergejOさんが、タイムリーに(って、私にとってたまたまそうだったということで、先を越されちゃってたのですがアイヴズの特集を記事になさっています。音楽という意味では、そちらをご覧頂いた方がよろしいかと思います。

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sergjOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。


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