« ピッチ粗考:日本人の「古楽」理解は正しいのか? | トップページ | 古楽のピッチ問題は(やっぱり)難しい・・・ »

2008年10月25日 (土)

ひとつの音から生まれる----雑感----

「音楽は、音そのものでしかない」
ということは、書籍『絶対音感』に引用されたバーンスタインの言葉の究極でもありますし、立読みしたアルド・チッコリーニ(フランスの名ピアニスト)も述べていることです。

音楽が、本当に音そのものであることを明確に示してくれるのは、「ひとつの音」が広がって行くことによって生まれる、というかたちで作られたさまざまな曲です。

今日、グロッケンの1音から始まる2つの欧米作品(一方は厳密にはずっと低い方で別の音が鳴っていますが)を耳にしつつ、ふと
「音そのものでしかない」
音楽に、あらためて思いを馳せてみました。
お付き合い下さるかたは、いずれでも、お好みの方をお聴きになりながら、駄文をお読み下さい。

(掲載にあたっては、いずれも9分程度ですので、容量の関係でモノラルにしてあります。)

・ショスタコーヴィチ「交響曲第15番」第1楽章
交響曲第15番
バルシャイ/WDR  Brilliant Classics BRL6324

・ライヒ「ドラミング:パートIV」
交響曲第15番
ライヒ&ミュージシャンズ  Warner Classics WPCS21250



まだ家内が生きていた頃、ちょうど<うつ>になってしまい、自分の回復のために何をしたらいいか、ということが当座の課題となり、アマチュアとしてクラシック音楽のオーケストラ活動を続けていたことから、「音楽」を出来るだけ突き詰めて考えてみよう、そのことに熱中すれば先が見えるかもしれない、ということから、折よく始めていたブログで好き勝手を綴り始めたのが、そもそもの始まりでした。
折しも、モーツァルトの生誕250年でもあり、「モーツァルト療法」なる言葉が妙にはやり始めていたこともあって、なぜモーツァルトの音楽が「療法」という言葉に結びつかなければならないのか、その不自然さをどうやったら明らかにできるか、ということが手はじめに胸の底にありました。ですから、当初はとにかく、モーツァルトを軸に音楽を「読む」ことからやってみることにしたのでした。

ですが、まずモーツァルト一人の作品をとってみても、全作品で真作と「確定」しているものは600曲もあり、バッハやハイドンに取り組むのに比べれば曲の数は少ない反面資料は入手しやすい、というメリットはあったものの、いざ始めてみると、始めて3年経った今になって、ようやく7分の3程度を「辻褄合わせで」読むのがやっと、というていたらくです。そのうち、「モーツァルト療法」なんて言葉はあっという間に古び、きちんとした意味での音楽療法には使われる曲はモーツァルトに限定されなくてもいい、あるいは、クラシックである必要もない、という認識もきちんと広まってしまっています。

3年経ったのです。
そのうち、家内に背中を見守ってもらえながら綴れた期間は、もう3分の1にも充たないものになってしまいました。



モーツァルト一人の音楽を「読む」にも、モーツァルトだけを追いかけていてはダメでして、考える対象は自然と別の音楽にも広がって行きました。
家内が死んだ後になると、夫婦で、こんなの、ちゃんちゃらおかしな話だよねえ、と笑い者にしていた「モーツァルト療法」に代わって、<音楽のクオリア>だとか、どうしても「音そのもの」とはかけ離れているとしか思えない、「音楽の外側」からの受容に対する<おまじない>の言葉が目に付きだしました。・・・いま、脳神経系のデータをきちんと示しながら「美術」と対峙しているゼキ氏の著書を類推の材料に使いながら、<クオリア>という事後的な事象で捉えられる「音楽」などというものは、決して「音楽そのもの」ではない、ということを、どうしても明らかにしたいと思っています。で、このことは進行中ですから(「心と体」のカテゴリでまとめ読み頂けます)、これ以上詳しくは触れません。
最初は「これはいい根拠を与えてくれるのではないか」と取り組み始めたゼキ著からの類推ですが、彼が第5章で<イデア>という用語を持ち出しはじめたことから・・・最初は浅い共感からそれとなく読み流していたのですが、詳しく読んで行くと<イデア>に対するゼキの理解は誤謬を孕んでいることに気づいた瞬間から・・・、話は振出に戻さざるを得なくなった、との思いを強くしています。

要するに、
「音楽は、音そのものでしかない」
ということを、そのまま素直に認識するためには、科学用語なんかを導入しては絶対にいけないのです。

家内が急に倒れたとき(翌日早朝に家内は死んだのですが)、運ばれた救急病院で家内の症状の適切な診断が出来なかった医師を、私はずっと恨んできました。けれども、それは「症状の適切な診断」という「科学に裏打ちされた」ものを根拠にしか人間がものの価値や状態を判断できなくなった世の中である以上、虚しいことなのだ、ということを、ゼキが<イデア>を誤って捉えている、ということに気がついた瞬間、強烈に思い知らされました(このことはまた機会をあらためて述べます)。

・・・私は、いったい、何を追いかけて来たのでしょう?



音楽を無理やり「科学」で説明しようとする試みを、もし家内が今も私の背中のところにいてくれるなら、一緒に笑っていることでしょう。
なぜ、私は、家内と一緒に笑えないのでしょう?
私には、いま、涙を流すことしか出来ません。
家内は、でも、それを望んでいないはずです。
端的に言えば、肉体としての伴侶には「また別の人」を求めることもできます(子供たちにとっては違います)。もしかしたら、ちゃんとそういう人にいてもらいなさい、というのが、家内が私に対して今、背中の後ろから言ってくれているひとことなのではないかと思います。
肉体は代わっても、一緒に笑ってあげるから、と、言ってくれているかも知れません。

そう、肉体がどうであっても、こころはずっとひとつながりで繋がって行く。

私たちが共通して愛して来た「音楽」には、本質として、そういう、切れ目のない時間が、何の説明をも必要とせずに、私たちの肉体の生をも死をも乗り越えて「存在」する。

ですのに、なぜ、私は涙を流すことしか出来ないのか。
それは、ひとえに、私が「音楽」というものを、いまだに、そしてもしかしたら肉体の死を迎えるまでに、本質から捉えられないままの未熟者であり続けるからにほかなりません。

ああ、科学ではいけないんだ。
かといって、宗教でも思想でも、信条でも、ダメなのです。

哲学を、しなければならない、と思いました。



本当の「哲学」は、役に立たないものではありません。
ただし、入門書では往々にして「思想」と混同されがちでもありますし、哲学の非常な天才でも、ふとしたひとつの踏み外しで、その追求すべき「純粋に抽象的な」知恵の世界の「正しい境界」には、完全にはたどりつくことが出来ないでいる、とても厄介な代物なのだ、ということも、50歳を前にした今になって、ようやく知りました。

「音楽は、音そのものでしかない」

このことには、これ以上、何も求めようがありません。では、なぜ求めようがないのか、については、哲学でも永遠に突き詰められることではないかも知れません。

それでも、「科学」、たとえば物理学が、いくら素粒子のおおもとの、さらにおおもとを見つけた、と言って人間を喜ばせようとも、あるいはビッグバンこそが宇宙を誕生させた、それ以前は問わない、と胸を張ってみせても(これらは微細な素粒子と広大な宇宙という、外観上は極端な差異を示していながら、発生論的には「大きなエネルギーを持った、原初的ななにものか」が存在することを大前提としていることで、実は同じ<点>から出発し、それに対する帰結を求めるもので、物理学が確立した学として存在してしまっている現状では、本来は全く違うものであるかもしれない他の<発生の可能性>へと視点を移すことが出来ないという限界があります)、「哲学」のもたらすだろう、もっと多様な<追求不可能の意味>の発見に比べれば、はるかに狭いものでしかありえない、と、私には思えてならなくなりました。

ただし、これはまだ「感じた」段階の話に過ぎず、私の勉強は不足しており、分かり易く噛み砕く知恵もありませんから、これ以上を語ることは、まだ控えておきましょう。



音ひとつから音楽が生まれて行く、広がっていく有様は、上掲の2作だけでなく、ゼキの記述との関連で引いた「ラインの黄金」の前奏曲、ベルクの「ヴォツェック」冒頭・・・ベートーヴェンの第4交響曲の開始部、等々、クラシック作品にもいくらでも見出せますし、世界に目を広げれば、民族音楽の大半は、音ひとつに唱和する音がだんだん重なっていく事例はあまねく存在します。本日あげたライヒの作品などは、ニューギニアの響きを連想させたくらいです。日本ならば、雅楽の「音取り」は必ずこの形態を取っているのでして・・・それでもヨーロッパ式オーケストラのチューニング(オーボエのA一音で始める・・・雅楽と違って様式化されていない、とお思いかも知れませんが、そうだとは言えないなあ・・・)のに比べてヴァリエーションに富んでいます。


以下は、饒舌になりますが、自分の気分転換も兼ねての「おまけ」です。

オーケストラのチューニングで最近体験した笑い話をひとつご披露しますと、前回の演奏会のアンケートに
「コンサートマスターのチューニングが合っていません」
という厳しいお叱りがありました。
このあいだ、娘のお師匠さんと二人でこの話をして、大笑いをしました。

「エンターテイメントのつもりだったんですけど、真面目なお客様には通用しないんですね」
「そりゃそうですよ。クラシックのお客さんは、寄席に来てるんじゃないんだもの」

・・・この時の件は、直後に、わざとやったことを見破ったあるかたからすぐ質問を受けまして、
「企業秘密なのでバラさないで下さいね、さもないと・・・」
と、脅しをかけて口封じしてあったのですが、今日は面白くも何ともないことを綴りましたから、最後のおまけで、仕掛けをお披露目してしまいます。

アマチュアのオーケストラは、大抵は無理してステージの上で一生懸命チューニングするのですけれど、舞台に乗ってしまうと時間制限がありますので、ステージ上でのチューニングに頼ると、合わないままで演奏を始めなければなりません(私もそういう場面を沢山目撃して来ました)。で、どのくらいの割合でなされているのかは知りませんが、ステージに出る前に、あらかじめ袖でチューニングを済ませ、ステージ上では形式的に確認を取るだけで済ませるのがラクです。
ただ、気温が高くて湿度も高い日、というのが、最も苦労します。
袖とステージ上で、温度・湿度条件が大きくずれているからです。
で、管はどうしても高くなりますし、弦は低くなって行きます。

プロオケのチューニングなら、場数を踏んだ人ばかりですから、対処方法は知っていて、上手いこと処理していますけれど、年に1回か2回程度しか本番をしないアマチュアでは、そんな対処方法を身につけている人は稀です。
・・・それでも、普通は無理して、ステージ上で最初のチューニングがピッタリ聞こえれば良し、ということになっています。・・・すると、高音高湿度の日のコンサートでは、演奏の途中から、弦楽器はどんどん音が下がり、管楽器はどんどん音が上がります。で、お客さんは不満に思うかというと、まず、思わないでしょう。
「ま、アマチュアだから音はずれていたけれど、気合いのこもった演奏だったからよかったね」
そのように、親切に仰って下さいます。

私はひねくれ者ですから、この夏の、気温もそこそこ高く、雨なので当然湿度の高い演奏会で、袖でのチューニングが合ってもステージに行けば容積が急に広がるので楽器に加わる条件が変わりますから、端から袖での正確なチューングは意図していませんでした。

かつ。

ステージ上では、管は低めに合わせておいてもらいました。
そのうえで、自分は、お客様が聴いたら「ありゃりゃ!」と驚いてくれるかな、と、ワクワクしながら、弦楽器はオーボエより高めに合わせました。
管と弦の落差は、私の頭の中の計算では3Hz程度にしておきました。
冒頭の曲は音楽が泥臭ければ泥臭いほど良いものでしたから、ずれていても構わない、という、こずるい腹づもりです。
で、休憩をおかずに、長丁場のチャイコフスキー「悲愴」を演奏する、というところが、事前の3Hzの「ズラし」のミソです。とくに金管楽器の強奏は音程が低くなります。「悲愴」には冒頭楽章からそうした箇所があります。
ですので、最初に「笑い」をとっていて、「悲愴」でピッタンコいってお客さんに泣いてもらおう、という目論見だったのですが・・・こないだ娘のお師匠さんが仰って下さった通り、場所はたしかに「寄席」ではありませんで、かつ、私は志ん生や志ん朝のような落語の名人でもなかった、という次第です。・・・いちばんビックリしてくれたのは、身内の団員サンたちだったかも知れません。

おしゃべりが過ぎました。

ですが、こんなおしゃべりを、ついしたくなるほど、音楽の世界は「ひとつから始まり」、そのくせ「無限の多様さをみせてくれる」のです。


L4WBanner20080616a.jpg


クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!


sergjOさんの記事の便利なインデックスも是非ご活用下さい。

|

« ピッチ粗考:日本人の「古楽」理解は正しいのか? | トップページ | 古楽のピッチ問題は(やっぱり)難しい・・・ »

コメント

「音楽は、音そのものでしかない」

は、バーンスタインの言葉でしたっけ!

カラヤンも同じようなことを言っていますよね。出典を忘れましたが、

「音楽は音の流れの美しさ以外の何物でもない」

とか。単純なことばへのKenさんの深い考察にはいつも脱帽です。


チューニングに関しては、真面目なことを書いてしまうと、

Kenさんのイタズラに怒った人も、その奥のイタズラを見破ったお客さんも相当、耳がいい人ですね。

>管と弦の落差は、私の頭の中の計算では3Hz程度にしておきました。

素人の大部分は3Hzの差でも、分からないと思います。

(多くの歌謡曲の歌手のすさまじい音程の悪さを、Kenさんはあまりご存じないかも知れませんが、

あれでも聴きに行く人が大勢いるのですから)。

それにしても、弦楽器の調弦は(耳があることを前提にしても)難しいですよね。

私もちょこっとヴァイオリンを習ったときに、弾きながら、左手でピッチを調整することの

あまりの難しさに驚きました。プロは子供の頃からずっとやっているし、仕事で毎日やっているから、

当たり前にやっていますが、見ているだけでは絶対に分からない難しさですね。

今までのコンサートで一番驚いたのは、高校生の頃N響の「青少年のためのプロムナードコンサート」

という企画がありまして、安く聴けたのでよく行ったんです。ある日(他のプログラム、わすれましたが)、

ドヴォルザークのチェロ・コンチェルトを演りました。ソリストは当時のN響首席の堀了さんでした。

ソリストのチューニングなんて、それこそ、袖で合わせてあって、ステージでは通常、

ちょっと確かめる程度ですよね。ところが、堀さんは何がどう気に入らなかったのか、

「一から」チューニングをやり直し始めたのです。別に慌てているフシはありませんでした。

弦楽器奏者の基本中の基本を淡々と実行している、という様子でしたが、あーでもない、こーでもない、

と、結局オーケストラと聴衆は(正確に測った訳じゃないですけど)5分ぐらい待ちました。

指揮は若かりし頃の尾高忠明さんで、最初は平然としていましたが、途中からやや焦っているのが、

見て取れました。また、千葉馨さんが、「どうした?」みたいな様子で、堀さんを見るために、

やや中腰になって身を乗り出すほどでした。

私は、全然、堀さんを批判するつもりはなくて、ただ、「ああいうこともあるのだな」と思ったのと、

「いくらお客さんとオケを待たせても、中途半端なチューニングでソロを弾くわけにはいかん」

という堀さんの誠実さ(と考えて良いでしょう?)に感心しました。

あんなことは、後にも先にも無いことで、今でもはっきりと覚えています。

長くなって失礼しました。

投稿: JIRO | 2008年10月26日 (日) 11時20分

こんにちは。
お久しぶりです。
こういうお話、僕は大好きですよ。

>音ひとつから音楽が生まれて行く、広がっていく…
こういう感覚の最たるものはフーガなのかもしれない、とふと思いました。
多くの作曲家が年を重ねていくにつれてフーガや対位法に傾倒していくのは偶然ではなく、
遠くを見つめるような、何か果てしないものに対する感覚に
気づきはじめるからなのかも知れませんね。
「音楽は、音そのものでしかない」とはそういうことかな、とも思ってみたり。

「おまけ」の話も面白いです。
ハイドンの交響曲第60番「うつけ者」のフィナーレで聴衆の反応を実験してみたいですねえ。
なんちゃって(笑)

投稿: Bunchou | 2008年10月26日 (日) 15時32分

JIROさん、Bunchouさん、有り難いコメントを頂戴でき、幸せです。

JIROさんのご体験に出てくる堀さんのお話、ずれているかも知れませんが、堀さんのお気持ちはよく分かる気がします。
まず、チェロという楽器はとくに、一旦合った、と思ってステージに上がってもチューニングがずれていた、となると、仕組上、たいへんに音の修正が難しい。糸巻きの造りがヴァイオリンやヴィオラと同じままだということが、まず大きさからしてチェロには根本的に不利でして、アジャスタを使わないと調弦に大変時間がかかります。で、いい音で弾きたければ当然アジャスタのような余計な付属物はない方がいいですから、堀さんはアジャスタはご使用ではなかったのではないかと思います。すると、ますAを合わせなおしても、ほかの弦まで合わせるのに、そうですねえ、軽く1分強から2分近くかかります。で、ほかの弦を合わせているうちに、最初に合わせたはずのAが、また音程が変わってしまいます(指板の枕【糸枕】と駒にかかる張力バランスが変化するためです)。ですから、もう一度か二度、確認しなおす必要に迫られます。
次に、堀さんの素晴らしい「良心」を感じます。普段ソリストではない人がソロを弾くというのは、どんな短い作品でも非常に神経を使います。小心な私なんかは、本番では(前はソロがある曲は積極的にお断りしていましたので)20戦20敗くらいの記録保持者です(最長では「シェラザード」を<弾かされ>ましたが、録音は二度と聴きたくない出来で、どっかへやっちゃいました)。いや、ミケランジェリやリヒテル(何故かピアニストの話しか知らない)でも本番前はすごい緊張だったという証言がありますよね。・・・たとえ聴衆が「素人」でも、大事なお客様である、ということを骨身に感じているソリストは、ご自身のチューニングを大切にします。根がオケマンである堀さんは、ソリストをやることになって、オーケストラの一員としてやるチューニングとソリストとしてやるチューニングの違いを、おそらく敏感に察知なさったのだと思います。・・・それは、仲間たちからしたら、「え? あの優秀な堀君が、なんで?」だったのも当然ですが、「場の違い」にいちばん怖い思いをするのはソリストですものね。・・・とにかく、このエピソードは大変貴重な「良心的場面」で、じかに目撃されたことを大変うらやましく思います。
ついでながら、3Hz程度の違いでも、チューニングの場面では、ごく普通の音感(といういい方がいいのかどうか分かりませんが)があれば、ズレているのは結構はっきり分かりますヨ。

Bunchouさん、「フーガ」のこと、そうかもしれませんね。バロックから初期古典派までの感覚ですと、それでもまだ「フーガ」には軽いものも多く見受けます(重い「バッハ」は目立ちがちですが、バッハは特例に属すると思います)。「フーガ」に重みが加わるのは古典派からロマン派で、モーツァルトの「ジュピター」終楽章、ベートーヴェンのいわゆる「大フーガ」、シューマンの「ライン」のなかでのフーガなどは、時代が後に下がるほど、音に付加される「思想・観念」に高まりがあるように思います。それはブルックナーでは破綻しませんでしたけれど、マーラーの方では破綻を示し、フーガとして完結していません。そちらの流れの方が、「調性の破壊・線の破壊」という20世紀的なものへのつながりを生んで行っているように思います。・・・脱線でした。

ハイドン、実は、暮れに60番ではなく「めんどり」のほうをやるんですけどね、60番も候補だったんです。ハイドンはどうせ私が選曲候補のリストを作らされるので・・・60番1曲にしときゃよかったかな・・・

投稿: ken | 2008年10月26日 (日) 21時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ひとつの音から生まれる----雑感----:

« ピッチ粗考:日本人の「古楽」理解は正しいのか? | トップページ | 古楽のピッチ問題は(やっぱり)難しい・・・ »