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2008年9月17日 (水)

「クオリア」は感性の究極ではない、という疑問

さて、また「不毛な」との印象をお受けになるかも知れないことを綴ります。
・・・あまり長くは綴りません。
・・・ただ、少し長く、音楽をお聴きになってみて頂きたいと思っております。
・・・ですので、お時間は取らせてしまうことになります。



ラ・フォル・ジュルネが看板にした「クオリア」が・・・別にさほど世間に浸透しているとまでは思っていないのですが・・・どんな概念なのかは、先に「地平線のクオリア」の記事で触れました。

そこに3人のかたの著述に現れる「クオリア」の定義を列挙しておきました。

再度見ておきますと、
・『クオリア』とは、私たちの感覚を特徴づける独特の質感(茂木健一郎氏)
・クオリアとは、意識の質感のことだ(前野隆司氏)
・クオリアは脳の不自由な活動の結果(池谷裕二氏)
このうち、純粋に「脳の生理」からの「クオリア」のみに言及するにとどまっている池谷氏を除くお二人は、「クオリア(質感)」を哲学用語として捉える、という飛躍を一気にしてしまっています。

茂木氏は経験の累積による創造的なはたらきの源泉として、前野氏はたとえ錯覚であるとしても人間が人間を自覚する先験的な観念として・・・実験まで援用しながら述べています。
このように、一方では「哲学用語」だ、従ってそれがどのような立場で論じられ、とくに前野氏は「しかも形而上に属するものである以上、矛盾する見解があっても別におかしくはない」とまで言っていますし、かたや茂木氏は形而上というよりは経験主義的な観念としてクオリア論(論と言い得るのであれば、ですが)を展開している。

ところが、上記のように言っておきながら、「クオリア」の説明にあたって数々の実験を援用しているところに、私の素朴な疑問があるのです。

はたして、「クオリア」というのは、さほどまでに「重い」・「意義深い」・「観念あるいは哲学用語と呼ぶに値する」ことばなのでしょうか?
それは、「クオリア」という語を述べる人の自己満足にすぎず、仮に哲学用語に値する術語だとしても、哲学ほどまでに充分<抽象化>されること、論理で評価されることがが可能なことばなのでしょうか?

すなわち、そもそも「質感」をしか意味しなかった「クオリア」は、「質感」すなわち触れたり見えたり感じたりすること、を超える意味まで付与されるに足る<究極>だったり、<出発点>だったり、と言ってしまってよいのでしょうか? そうであれば、そのものだけで論じればいいことであって、実験を援用する必要はないはずです。



茂木氏がたとえ宣伝のために偽りに標榜したのであったとしても(そうではない、と信じますが)、音楽の「クオリア(質感)」というものが存在するのは、生理的には確かに事実でしょう。
ところが、それは、「音楽」というもの全てに共通する「音」というものに、完全に集約しきれるものではなさそうです。

これまで掲載した、さまざまな民族の音楽、あるいは西欧に限っても違う時代の音楽を、再度、数例お聴きになってみて下さい。(一度にお聴きになるにはかなりの時間を要しますので、ご留意下さい。)

・Dastgah segah(ペルシャ)4分
ペルシア
nonesuch WPCS-10725

・長慶子(日本雅楽:源博雅作)3分
長慶子(源博雅)

・サンワ・デュバ(チベット密教の教典)4分
チベット

・ラーガ・ムールタニとターラ・チャウタールによるドゥルバド抄(インド)5分

 JVC「世界音楽紀行:南アジアの旅」VICG-60575

・パレスチナの歌(ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルワイデ1170-1230)3分
フォーゲルワイデ

・ヨルバ族「たくさんの仮面」(西アフリカ)3分
many masuques
KING RECORDS KICC 5743

・「飾り歌(Plaque Song)」(中南米インディオ:ホピ族)3分
飾り歌

・モルダウ(フリッチャイ/ベルリンフィル)11分
Moldau-Fricsay.mp3
Deutsche Gramophone 463 650-2



「モルダウ」以外は時代に幅はあるものの、だいたい中世(10世紀前後)には存在したであろう響きです。地球上の場所が違えば、一口に「音楽」と呼んでいるものが、これほどまでにちがう。
それぞれについての「クオリア(質感)」は、受けとめる国によってかなり異なる(掲載していませんが、ヨーロッパ人が「明解」と信じていたモーツァルトの音楽を聴いたアフリカの人は「これはむずかしい」と言った、という有名なエピソードがあります)という点で、手に直接触れ得る固体や液体とは様相を異にします。たとえば、ロウは、どこの国の人にとっても、手触りはつるつるしたものでしょう。ですが、音楽についていえば、「モルダウ」を「滑らかな」、あるいは「激しい」質だと思うかどうかは、接する人の国、あるいは同じ国内でも育った環境などで大きく違うことが予測されます。(なお、川の流れを描いた名曲には・・・タイトルは川に関係しませんが、セーヌ川を描いている・・・ドビュッシーの「雲」もありますし、日本の三味線音楽にもありますが、どちらにしても「モルダウ」とは非常に趣きが違います。)

つまり、「クオリア」というものは「脳」の働きを考える上では、せいぜい池谷氏が現象面に注目して定義を述べている以上のものには発展しようがない。

意識=心=脳の働きの一現象

という等式が成り立つのかどうかは、分かりません。肯定する材料も否定する材料も、いまのところ、私は客観的には手元に持っていません。

ですから、仮に上の等式が成り立つものとして、まず手始めに音楽は脳にどう働きかけるか、を考えてみたいのですが(そして当面は、この話は<ビジネス>としての音楽へと話を戻しておかなければなりませんので、そこまでにとどめてもおきたいのですが)、聴覚脳と音楽の関連性を述べた書には巡り会っていません。

そこで、先に作曲家江村啓二氏が茂木氏との対談で述べていたことハンスリックの言を参考に、あるいは実作品を援用しながら、視覚脳と美術の関連を考察したセミール・ゼキ『脳は美をいかに感じるか』(日本経済新聞社2002年)をヒントに、少し観察して行きたいと思っております。(民族差にまでは踏み込めないのが遺憾ですが、自分が考察して行く上では、枠が広がりすぎては話が深まらないでしょうから、やむなしとします。)

視覚と聴覚を等価に考察することは出来ないかもしれませんが、ゼキ氏の著作は「質感」なるものを前提に据えず、視覚脳の原点から綴り始めており、「クオリア」を前提にした議論よりは事象を素直に観察していますから、その大きな「実り」のささやかな一部だけでも、なんとか私も手にしてみたい、と祈りつつ、本日はここまでと致します。


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