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2008年9月22日 (月)

音楽美の認知(1)知覚は何を「美」とするのか

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ゼキ『脳は美をいかに感じるか』との対比に、早速取り掛かってみたいと思います。
考える、ということを常に現在進行形で進めて行きますので、回によって前との不整合が生じる場合もあり得ますが、最終的には調整しますので、ご了承下さい。

まずは<第1章 本質的なものを求めて----脳からのアプローチ>に対応する、導入部分についてみていきます。

その前に、下の音楽をお聴きになっておいて下さい。

ショパン「チェロソナタ」作品65からのラルゴ楽章です。



ゼキ氏は、未成熟な学問である神経生理学からの、可能な限りの「美」のアプローチであり、過去に誰も試みたことは無い領域ではありながら、何らかの有益な考察をなし得るとの希望をもって『脳は美をいかに感じるか』を開始しています。そして、全般に、本書は目的を充分に達しているもの、と、敬意をもって接させて頂きたいと思っております。
ゼキ氏の「成功」は、焦点を「美術」に絞り、それを視覚に関連する脳の生理と病理のデータに対応させることに徹した、その方法にあります。
・・・というのが私の感想ですが、実際にどうかは、御興味があってお読みになる方はご自身の印象でお読みになるべきかも知れません。ゼキ氏のアプローチは「科学」が人間の感じ、考える「美」にどこまで接近できるかのアプローチであり、ある意味では、
「ここまで徹底しても、ここまでしかわからない」
ということを如実に示しているのであり、著者自身の結論も、それを強調しているからです。
ゼキ氏のこの態度は、しかし、非常に良心的ではないか、と私自身は思っていることを、くどくなりますが、付け加えておきます。


私はまったくの門外漢でありながら、ゼキ氏のアプローチを規範として、
「では、音楽の場合はどうなのか」
に迫ろうと思っているわけで、身の程知らずもいいところです。学生時代の経験から聴覚についての知識・実験的なアプローチについての知識はまったく無いわけではありませんが、それは既にもう相当古いものでもあり、自分が主体的に行なったものではなく(なんでこんなつまらんことをするのだろう、とばかり思っていました)、現在では専門文献に自由にあたることのできる環境下にありません。
それでも、ゼキ氏の記述から抽出しえると感じ取った有益な情報、あるいは逆に疑問をもたざるを得ない点の拾い出しを元に、出来る限り、音楽(クラシックが中心になるでしょう)について「体が」一般に理解しているであろうものの像を見出していきたいと思っております。


話は戻りますが、今回はゼキ著の第1章<本質的なものを求めて----脳からのアプローチ>が、音楽ならばどう言い換え得るか、あるいは、この章にはまだ臨床例が登場していませんから、ゼキは視覚とは何かの定義のしなおしから始めているのですけれど、それが妥当かどうか、を、ちょっと考えてみたいと思います。

ゼキは、従来の視覚の定義について、従来の研究者たちが下したものがいずれも狭すぎるとし、
「視覚は、この世界についての知識を得ることを可能にするために存在する」(27頁)
というところまで極論しています。
ところが一方で、・・・これは視覚の定義とは一見したところなんの関連もないように思われてしまうかもしれないのですが、
「画家が好きなように使える『素材』は、脳に見えているものだけである」(26頁)
と述べています。
これはゼキの視覚定義と矛盾をきたしまではしませんが、ゼキの視覚定義が「広すぎる」ことを、無自覚的に表明しているのではないかと思われます。すなわち、世界の知識は、視覚だけから得られるのではない!(ゼキの意図からすると、これは皮相な揚げ足取りなのにはお気づきになられるとは思いますが、あえてそう言っておきましょう。)

ゼキの論の優れているところは、彼の専門からして「脳」に特化して話を進めていくにも関わらず、「脳」がすべてか、ということに対して「他のアプローチも可能である」と見なす余地を読者に残しているところで、たとえば前著で採り上げていた音楽家の例から、次のようなワーグナーの言葉を引用しています。

「私の書いたリブレットを理解できるかどうか心配する必要はない。音楽がすべてを完全に明らかにしてくれるからである」(23頁・・・ただし、典拠については私は突き止めていません)



ゼキの限界なのか、はたまた人間が本当に「脳」にすべてを制約されているからなのかは「科学的」には」分かりませんが、ワーグナーのこの例やダ・ヴィンチの例(後者は主体色が背景色によりその知覚される色相に変化をきたす・・・あるいは補色の原理をダ・ヴィンチが1500年には実験的な証明無くして発見しているのに、それが科学によって確認されたのはつい40年前である、ということを強調するために引かれています)を挙げ、これらが、芸術家が神経学の知識無くして既に立派な神経学者であることを示している、と述べています。(23頁)

この記述の是非については、あらかじめこちら側としての見解や仮定を加えることは、無用な先入観を持たないためにも、避けておきましょう。

さて、では、ワーグナーは、先に引用した言葉、そしてそれを「優れた神経学者」としての音楽家と解釈したゼキの見解に値する仕事をしていたのでしょうか?
次の音楽から、私たちは、なにか具象的な情景を思い描くことが出来るでしょうか?(音が古くて恐縮です。クライバー盤を持っているのですが、保管が悪かったために素材として使えませんでした。)

・「トリスタンとイゾルデ」第2幕第1場

フルトヴェングラー/フィルハーモニア管、イゾルデ=フラグスタート
EMI 7243 5 67626 2 6

私は、台本が無くても、舞台や映像で見なくても、この部分は(そして楽劇「トリスタンとイゾルデ」全体が)優れて「私たちの前で具象化する」と感じています。・・・ここにはなお、視覚と聴覚の連動という興味深い問題提起も孕まれているのですが、チャンスがあるまでこの問題には立ち入りません。
ところで、「音楽だけで具象化されたイメージを受容できる」ことには前提がありまして、ヨーロッパでの狩の習慣や、ワーグナーの仮想した中世の貴族階級の居館像をあらかじめ知識(出来れば経験)としてもっていなければなりません。
すなわち、ホルンは「狩」の合図の楽器であり、貴族の居館は立地が丘陵のそばにあり、内部は光に乏しい。
そうした知識があって初めて、ワーグナーの言うことは真になる。
すなわち、この3つだけが了解できていれば、次のような情景が見えてきます。
場面はおそらく夜であって、居館に程近いながら少し距離をおいた森で、松明を灯した貴族や騎士達が狩をしている。そのホルンの遠鳴りが居館に聞こえてくると、歌っている女性は、その旋律からして、狩の一群の中に、おそらくは彼女が強く意識せざるを得ない異性がひとり存在している・・・

すなわち、まったくの前提なくしては、ワーグナーの自信も裏打ちはされない。・・・とはいえ、ワーグナーの念頭にあった聴衆(楽劇の観衆)はヨーロッパ人ですから、そこまで言ってしまうと元も子もないのです。。つまり、ゼキの議論に付き合っていくには、こうした民族固有の習慣は不問に付さなければならない。
そのうえで、ゼキの発言は、ワーグナーの場合とは違って対象の入れ替えは自由に効くわけですから、極めて汎用的な命題となっていることが、ようやく確認できます。
脳と神経、知覚ということに限定すれば、芸術家は理論の考究無くして、既に優れた神経学者である、との見解は、まったく正しいことでしょう。・・・もっとも、ゼキはその前に、彼らは
「本人それを意識することなしに、心について」理解していた、と、「脳・神経」に限定しなくても素直に読み取れる、そしてゼキ自身まず最初に素直に感じたであろうことを、彼のアプローチ上
「<心>ついての理解=脳についての理解」
という等式をあくまで貫く姿勢を崩さないように言葉を補ってではありますけれど、述べています。(23頁)



この命題を置いた上で、ゼキはさらに、なぜそのような優れた「神経学者」が生み出されたのか、を知覚する脳の機能に帰結させています。その機能とは、
「物体の真実の姿を表現することであり、(中略)瞬間瞬間に見える姿を表現することではない」(40 頁)

すなわち、脳は(ゼキの採り上げている美術の範疇では)「恒常性の探求」、すなわち、
「脳に届く常に変化している情報の中から、視覚世界の本質的かつ不変の側面についての情報を抽出するという困難な問題を乗り越えなくてはならない」(41頁)
ことを使命として働き続けている、というのがゼキの最初に呈示し、本書を貫かせている主張です。

では、音楽・・・聴覚は、どうなのでしょうか?

ここで、最初に「聴いておいて下さい」と述べておいた音楽を思い出して下さい。

あの曲は、間違いなく、ショパンの「チェロソナタ」であって、ほかの楽器のためのものではありません。

しかし、実は、上の例では、コントラバスで演奏されています(Hans Roelofsen BRILIANT 92413)。

たとえお聴きになって、
「なんだ、標題が<チェロソナタ>だから、チェロで演奏されているとばかり思っていた」
としても、それはつまらない錯覚の実験の結果に過ぎず、「チェロの曲だからチェロで弾かれている」という固定観念そのものがあっても、それ自体は「恒常性の追求」の問題の表層に過ぎません。

ただ、この例の場合には錯覚していただいていたほうが都合がいいのです(サンプルの性質上、実際にはそんな錯覚をしなかった方のほうが圧倒的に多いのかも知れませんが)。
「チェロはチェロの色合いで」
というのは、まず、生理的にみた脳の働きとしては「恒常性の追求」の最初の一歩であり、
「なあんだ、コントラバスじゃあないか!」
と初めから分かってしまったのでしたら、それはまた「美」・・・といっても、ここではまだ音色の問題にしか限られていないのですが・・・をどう評価することへの入り口に過ぎないのであって、どちらにしても、

「音楽にもまた、ゼキの前提として設けた<脳による恒常性の追求>のはたらきによる「美」の受容の原則は当てはまるとみなして観察をして行くことができる」

と言い得る。

追認に過ぎませんが、これでとりあえず、私はゼキとほぼ同じラインから出発できることが分かったことで、充分な価値があった、と自己満足しておきます。



この章は、受容者側の立場からの「本質」の入り口を示したものでしたが、次章は「創作者」の立場からの「本質」を考察しているものです。そちらでは、美術(絵画)と音楽に何らかの差があるものでしょうか?

またあらためて考えてみましょう。


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