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2008年9月25日 (木)

ウィーンフィルから一週間・・・ニーノ・ロータ中毒!

もう、随分前だったような気になってしまっています。
でも、ウィーンフィルの稀有な「オールイタリアプロ」を見、聴いてから、まだ今日で1週間なのですね。



0000000000571281映画の製作段階最後での試写会は、監督さんの方針によってやり方が違うそうです。ただ、この試写会で映画は製作完了ではない。出来るだけ客観的に見てくれる人を選んで、(ストーリーのではなく)映像の繋ぎ方や効果面について、改良した方がいいものがないかどうかのチェックの役割を荷っているのだそうです。W.マーチ「映画の瞬き」によると、フィルム編集の立場からもっとも有益だったのは、見た直後の「熱狂の抜けない」状態で、ではなく、3日後くらいに電話アンケートを行なったときだとのことで、3日たっても残っている「よいイメージ」は採用してもよい、また対照的に、3日たっても「よくないイメージ」であったものは省く検討をする余地がある、とも。

このこととの対比からいくと日数は倍以上経ってしまっているのですが、心に残っている「よい」イメージを改めて思い出すと、当日・翌日にまとめたものでは落としていたことが、いくつかあることに気づかされます。

まずは、しかし、それはウィーンフィルやその奏でた音楽そのものの直接的な印象ではありません。

ふと思い出したのは、ホールに流れた
「補聴器をお使いの方は・・・」
云々、という、開演前のアナウンスです。
これは、初めて聞きました。
「ああ、ある程度の聴覚障害を持った人でも音楽を楽しめるようになったのだなあ」
ということです。
補聴器については殆ど知りませんが、とにかく、その小さな機器に結晶した技術が、聴覚障害者にも「特別な道具を使わずに・演出してもらうことを必要とせず」
一般のホールで音楽を楽しむことを可能にしたのですね。頭の下がる想いでした。
また、こういうことが当たり前になってきている、ということを、コンサートを催す団体は、どんな場所でも是非念頭に置いてアナウンスする必要があるのではないか、とも感じました。というのも、補聴器には独特の波長のなにかを発する機構があるらしく、装着者には(携帯電話同様)それに対する配慮をして頂かなければならないだろうからです。
同時に思いついたのは、
「聴覚障害の程度を問わず楽しめる<音楽>というのは、存在しないのかな? 作る余地は無いのかな?」
ということです。
他の障害を同時に持たない聴覚障害者は、「聞こえない」という障害があるだけで、他は正常な感覚器官をもっているわけですし、音楽がときに要求する、深い感情のリズムは、「普通に聞こえてしまう」人たちよりもむしろ豊かに持っているように思います。であれば、「音程」や「音量」についてだけ考えた<音楽>以外の<音楽>・・・たとえばリズムを感じるだけの音楽というものでコンサートが構成されるのも、一つの方法、可能性としてはあるのではなかろうか、と。

視覚障害者でも楽しめる美術、というものにも思いを致すことがあるのですが、その話は措きます。

ヘレン・ケラーが来日したとき、講演会の聴衆に向かって質問したそうです。
「皆さんなら、もし見えない、聞こえないという障害を得なければならないとしたら、見えないことと、聞こえないことと、どちらを選択しますか?」
・・・聞こえないことをえらんだ方がいいのではないか、と思った受講者が多かったようです。ヘレンの解答は、まったく逆でした。
「見えないことを!」
つまり、「聞こえ」さえすれば、そこに自分とコミュニケーションをとってくれる親しい存在がいる事を確信することが、見えない場合よりはるかに簡単だ、だから孤独に陥りにくいのだそうです。
これは、聴覚障害のかたの臨床例からも明らかになっています。
(ついでながら、聴覚障害者に対する教育機関はいまだに口話を重視しているそうですが、コミュニケーションと言う意味では彼らには手話の方が容易であって、かつ詳細なコミュニケーション能力が身につくことが明らかになっています。私は手話は出来ないのですが、手話の様子を翻字したものを拝読して、4歳にして既にすばらしく繊細な手話会話がなされていることに驚嘆しました。驚嘆すること自体、いかに自分が「障害」ということについて「特別視」していたか、の現われで、ある意味、非常にお恥ずかしい話です・・・門外漢による蛇足で恐縮ですが。)

だからこそ、「聞こえなくても」感じる音楽を!



「風で、こういう音楽のメロディーを感じることはできないだろうか」
ニーノ・ロータ<山猫>を聴いて、いま回想して、そう感じたことが、上のことを私に考えさせた大きな要因だったかもしれません。

ウィーンフィルが20世紀後半以降の作品をどれだけ取り上げているかはショスタコーヴィチの例以外に知りませんし、とりあえず調べるゆとりもありませんけれど、普通の感覚(?)では、ウィーンフィルで<現代作品・同時代作品>を聴きたい、とは、ファンは考えていないのではないかと思います。
プログラムの内容だけで言えば、先週のレヴューでも綴ったとおり、「オールイタリアプロ」だった、というだけでも大変に珍しい演奏会でした。それがチケット完売だったのは、ウィーンフィルのネームバリューによるものだ、というのは、このプログラムの公演だけ、最も後まで空席が残っていたことからも伺われます。だから、
「この日しか聴けなかった」
お客さんの中には、来場するまでは「やむをえず」の感が強くあったかもしれません。
その上でニーノ・ロータという存在を見直して見ますと、紛れもなく20世紀後半に活躍した作曲家です。しかも、本人は自分をクラシックの音楽家だと考えて疑わなかった。それでも、彼の名前がこんにち廃れないのは、彼自身が正統だと考えていたクラシック的ジャンルではなく、「映画音楽」なのです。

トロンボーン協奏曲を初めて耳にして、そんなニーノ・ロータの「現代性」に驚いたかたもいらしたのではないでしょうか? 協奏曲の方は、別に十二音技法だとかセリーだとかを取り入れているわけではありませんが、性格的には対照的であるものの、ショスタコーヴィチに近い、調性音楽と無調音楽の中間的性格を持ったもので、通常の「古典ファン」にとっては、決して「理解しやすい」作品だとはいえません。まずは、ウィーンフィルでそういう作品が聴けた、ということの希少性に聴衆がどれだけの価値を見出したか、あるいは演奏した彼ら自身はどう感じていたのか、確かめようはないものの、非常に興味のあるところです。

908その次に採り上げられた「山猫」も、もとはといえば「映画音楽」であり、これも普通の感覚では「クラシック」には属さないものです。
「ムーティのやつ、好き勝手な選曲をしやがって!」
そう、腹を立てたお客さんは、果たして、いらっしゃらなかったでしょうか?
かつ、「山猫」の音楽は、交響的組曲なるものに仕立て上げられても、やはり「純正クラシック」とは聞こえ難い側面があります。イタリアの通りを歩いていれば自然と耳に入るような、世俗的な音響が、随所に聞かれるからです。

「映画音楽」のダイジェスト、という先入観を除いてみますと、しかしながら、「山猫」は、まさしく風の音楽でした。映画そのものは3時間の超大作だとのことで、見ている時間もなく、映像入手を諦めましたが、ほぼ区切り無しに続く組曲は、激しい砂嵐で始まり、ときに静かに収まっては人の心に、幸福への回想を物悲しく沸きあがらせる余地を与えつつ、再び砂塵を舞い上げて、世界のすべてを覆い尽します。以上は私の個人的なイメージに過ぎませんが、映画という存在を切り離しても、音楽のみでこれだけの風景を個人の内部に描いてみせる。・・・音楽の力のみでそれを成し遂げているからには、無用なジャンル分けは、作品自体が強く拒絶しているのです。

前半のヴェルディ作品も有名オーケストラの一般的なコンサートでは、おそらく殆ど聴くことの出来ないものでしょう(「ジャンヌ・ダルク」序曲、「シチリア島の夕べの祈り」四季のバレエ音楽)。



ホールの中に風を生み出すことで、あるいは光の動きの中で(ノーノにこれに近いタイトルの作品がありますが)、・・・出来ればここの楽器の音色からではなく、オーケストラが引き起こすそのような気と輝きのみによって、初めてで会う音楽と「新鮮に」出会っているんだ、という感動を大きく出来たら、どんなにいいでしょう。

休憩時間のときに、ロビーで伴侶に向かい
「ああ、まるでCDみたいだった!」
と感慨を述べた若い女性がいましたが・・・そんなつまらない聴き方しかしない人が大金を払ってこれだけ素晴らしい演奏会にきているのか、と思うと、非常な失望感におそわれました。
「おめーみたいなやつは1,000円のCD30枚買えるから、ちゃんと<感動>出来る人に席を譲れよ!」
と言いたい気分でした。

私の娘が、ロータの協奏曲を除き、初めて聴いたばかりの作品でそれなりに感激してくれたことに、若い世代への希望の一端を見出せたことを、とりあえず救いと感じるしかないのだろうな、というのが、1週間たって、コンサートの日そのものについては頭が冷めた私の率直な思いです。

ただ、ロータの「山猫」にはすっかり取り付かれ、ムーティがミラノフィルと録音したCD(これもなかなかいい演奏です)を毎朝毎晩iPodで聴かないと気が済まない、という中毒状態に陥っているのが、同時に大きな悩みのタネでもあります。感動の記憶は、聞きながら体が思い出してくれるのですけれど。

・交響的組曲「山猫」終曲(ムーティ/ミラノフィル)
「山猫」終曲
SONY SRCR2683


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受信: 2008年10月13日 (月) 16時19分

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