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2008年9月13日 (土)

ハンスリック「音楽美論」・・・受手にとってのクラシック音楽

標題には付しませんが、<「クラシック音楽」お仕事ヴィジョン>の延長であり、次の考察へ向けての素材です。
前回(4)の江村哲二氏の言葉だけでは補えないものを、ひとつには他の作曲家からも取り出す試みをしても良かったし、恰好の『西村朗対話集』という書籍もあるのですが、「視覚」との対比で<知覚される音楽>を捉えるには、受け手側にとってクラシック音楽とは何か、を考察したものに触れなければなりません。・・・それは、しかもCD鑑賞レポートや随想ではいけない。それらの中に「知覚される音楽」の本質に迫る何かを見出せるとしても、遺跡から土器や石器の断片を拾いだすような作業を経なければ無理です。
一方、現代の思想家のものは難解で、彼らが本質と考えているものは何か、を取り出すのは、場こそ遺跡ではないといえ、今度はピンセットと顕微鏡を使っての拾い出し作業が必要となる。

ならば、ここで、名前以外は忘れられたに等しいクセモノをご紹介し、回想して頂くようにお膳立てしておくのも良いかな、と思いつきました。



180pxhanslickワーグナーがその批判に作品中で皮肉ることでかたきを討った相手、ブラームスが誉めながらも内心では小うるさがっていた硬派の論者、ハンスリックその人の『音楽美論』は、現在では日本の翻訳者に恵まれません。彼の美論は、一見非常に保守的でありながら(そして実際、彼自身は「極めて保守的に」論を展開している、と信じきっていたことでしょう)、音楽の感情主義を廃し、ある意味ではワーグナーのトリスタン和音以上に「ヨーロッパ音楽の伝統を破壊した」無調音楽の発展に無自覚的な寄与をしたと考えても良い、極めつけの<問題作>です。
しかし、「感情主義」を排してなお見えてくる「音楽の風景」・・・そこに存在する感情そのものを否定はしておらず、「感情を過信し、感情に依存する音楽」こそが、ハンスリックの否定したものです・・・、「受手にとって音楽」(彼の指す音楽は、あくまでも今日の私たちが「クラシック音楽」と呼ぶカテゴリのものに限定されます)の条件を提示しているところに、「知覚」との関連を見て行く上では充分濾過された「素材」が並べられており、ハンスリックの『音楽美論』を見直しておくことは、これから考察を続けるにあたって、極めて重要な意義を持っているといえます。(ハンスリックについては名前のところにリンクしたWikipedia記事にもエピソードしか記載されておらず、その思想の根幹は日本人には意外なほど知られていないと思われます。)


この本はいまでは古本でしか手に入らないでしょうから、私の手にしている岩波文庫版(渡辺 護訳 1960年)によって、まず目次を紹介しておきましょう。

序言
第1章:感情美学について
第2章:「感情の表現」は音楽の内容ではない
第3章:音楽美
第4章:音楽の主観的印象の分析
第5章:音楽の美的享受と病的享受
第6章:音楽芸術の自然に対する関係
第7章:音楽における「内容」と「形式」の概念

以上から判明する通り、「受手にとっての音楽」を考える材料としては、第5章・第6章が重要です。
その前後は、ハンスリックが音楽を論じるための前提と、その結論となっています。特に、「知覚」されるものとしての音楽を再考するにあたっては、ハンスリックが第5章以下を述べるための前提として構築した「第3章 音楽美」の観念は、とりあえずは斜めに見る程度にしておく必要があるでしょう。
なお、第4章は音楽と脳神経系の関係や音楽の医療的効果の、当時(1854年初版。91年に第8版を出していますがなにも新しいことは付け加えていないとのことですから、19世紀中葉まで、と捉えてよいのでしょう)の知識、それに対するハンスリックの見解を述べていて、注目すべきです。
「生理学は我々の音としてうけとるものが神経物質における分子運動であること、また中枢機関においても聴神経同様分子運動であることを教えてくれる。聴覚神経の繊維は他の諸神経と関係があり、その刺戟を伝達すること、聴覚は主として小脳、大脳、喉頭、肺、心臓との連関のあることを生理学が明らかにしている。/しかしいかにして音楽がこれら神経に作用するかは明らかにされていないし、いかなる特定の音楽的要素たとえば和音、リズム、楽器等が種々の神経に作用するかはさらに不明である。」(訳書128頁13行〜129頁1行)



以下、第5章、第6章から、ハンスリックが「音楽とはいかなる事象か」を表わした記述を抜き出してみましょう。これは同時に、この2つの章の要約にもなるはずです(ハンスリック自身の「価値観」が入っている部分は極力省略します)。[]内は、そうした省略の必要上、私が途中の文を省略して別の単純な語に置き換えたりしたものです。

第5章
・音楽の場合でも神経組織にたいする浸透性は芸術的なモニュメントにあるのではなく、むしろ素材の中にある。(p.137)・・・ハンスリックが「素材」と総括しているのは、「ひびき」と「運動」です。
・音楽の要素的なものを受動的なうけ入れかたで自己の上に作用させて、一つの興奮状態に入る[ことは]まったく漠然たるもので、ただ作曲のまったく一般的な性格によってのみ規定された、超感覚的にしてしかも感覚的な興奮なのである(音を正確に聴いていないという点では超感覚的であるが、官能的な享受の仕方をしている点では感覚的である----訳注)。(p.138)
・安楽椅子に身をくねらせてなかば醒めるがごとく、これら熱中家たちは音の振動に体を乗せ揺り動かしていて、鋭い目なざしをもって眺めようとはしない。(中略)彼らはまったく無邪気でこのような状態を精神的なものだと思い込んでいる。(p.140)
・一つの音楽作品の非芸術的把握というものは本来の感覚的な部分、音列の豊かな多様性自体に関係するのでなく、その抽象的な、たんに感情として感ぜられた全体イデーのみに関係する(p.141)

以上は音楽の本質ではない、というところから、ハンスリックの再整理が始まります。

・抽象されたる感情の漠然たる全体印象にあるのではない。内容だと考えられている感情に対立するものだとされた単なる形(音形像)がまさに音楽の真の内容であり、音楽それ自体である。(p.142)
・表現されたものと考えられていた感情作用はかえって音の素材の中に内在するものであり、少なくとも半分は生理学の法則に従うものである。(同頁)
・一つの音楽作品に随伴し、これを享受となす心的過程のもっとも重要な要素がもっともしばしば看過されている。その要素とは聴者が作曲者の意志に絶えず従い、あるいはまた先んじて聴者自身の推察をあるところでは確認し、また別のところでは意表に出られたことを知る、という過程における聴者の精神的な満足感である。(p.150)

とはいえ、ハンスリックは(無自覚的にかもしれませんが)、煩悶していたようでもあります。ここのみ、ハンスリックの「価値観」の表明を呈示しておきましょう。

・さて一つの音楽作品に対する美的な好悪はその芸術的な価値に従って定められるとはいっても、このことは、単純な角笛の叫び声や、山間に聞こえるヨーデルがもっともすぐれた交響曲よりも我々の大きな魅了感をよび起こすことができるということを妨げるものではない。しかしこのような場合には音楽は自然美の列に加わる。(中略)ただ美学は芸術美の学として音楽を単に芸術的な側面から捉えなければならない。(p.153〜154)

第6章
・自然が音楽のためにどの範囲まで素材を提供するかにつき探求して見ると、それは単になまの素材の意味ばかりであることがわかる。これを人間が楽音としてひびかせるのである。つまり、音楽にとって固有の建築素材である純粋音をつくりだすために、我々の前に見出すものは山中の黙せる鉱石、森林の樹木、獣の毛皮や臓腑であるにすぎない。(中略)直接の材料は純粋な、高さと深さとに従って決定された、すなわち測定できる音なのである。(p.159)
・自然それ自身はあらゆる現象の壮大なるハルモニーであるにかかわらず、決定性をもつ音が同時にひびく現象としての、音楽的意味における和声を、旋律と同様知っていない。何びとか自然の中に三和音を、六度和音を、或は七度和音を聴いたことがあろうか。旋律と同様、和声もまた(ずっと緩慢な進歩の速度ではあるが)人間精神の所産である。(p.159)

(ハンスリックは、モノフォニーをホモフォニーやポリフォニーより「劣る」もの、との価値観を持っていました。また、次のリズムの記述においても、当時のヨーロッパ中心主義を反映して、南洋の「自然的音楽」を低く見なしています。それらを記述した部分は省略します。)

・このように和声と旋律は自然には欠けているが、ひとり音楽における第三の要素、すなわち先の二つがそれによって担われているところのものは人間以前、人間以外に存在している。リズムがこれである。(中略)すべてではないが、多くの自然の音の表出がリズミカルである。そしてそれには二分リズムの法則、揚と抑、入と出が支配している。(p.160)
・人間は彼を囲繞する自然から音楽することを習ったのではない(後略。p.161)
・自然の音生活におけるもっとも純粋な現象である鳥の歌でさえも人間の音楽にはなんらの関係がない。鳥の歌は我々の音階に合わないからである。(p.165・・・これは「価値観」であるかもしれませんが、いちおう「音楽の本質」としてハンスリックが捉えたものに含めておきます。)
・和声的進行は一つの自然法則に基礎を置いている。しかしこの現象そのものは自然のどこにも作り出されはしない。楽器によって一定の測定しうる基本音が鳴らされない限り、共鳴する陪音も現れはしない、したがってなんらの和声進行もない。つまり人間がまず問を発しなければならず、それによって自然が答を与えるのである。(同頁)
・いわゆる自然の「音楽」と人間の音楽芸術とは二つの異なった領域である。第一から第二への移行は数学を通して行なわれる。(p.166)
・音楽においてはすべてが測定しうるものであるのに、自然のひびきにおいてはなにも測定できないということはこの二つの音の世界を殆ど仲介のない併存的存在たらしめている。(同頁・・・上文とこの文は20世紀後半の「音環境」、すなわちヒーリングとかサウンドスケープと呼ばれるものに注目されだした現状と如何に対比されるべきかについて、問題を提起する言葉となるでしょう。)
・音にとって木材や鉱石がただ「素材」であったのと同様、音は音楽にとってただ「素材」である。なおこのほかに第三の、より高い意味の「素材」がある。それは取扱われている対象、表現されるイデー、題材(Subject)の意味での素材である。作曲家はこの素材をどこからもってくるのか?(p.167)
・音楽には自然美がない(p.168)
・作曲家は彼の内奥で歌が始まり、音楽が奏せられる佳き時を待ち、これを暖めねばならない。この時が来れば彼は内心の中に没入し、自然の中には類のないもの、したがって他の諸芸術と異りこの世から由来したのではないものを創り出す。(p.170)

以上の記述に基づき、ハンスリックは音楽の「標題性」を否定する見解を展開しますが、これもその「妥当性」をあらためて検証すべき課題となるでしょう。同じ課題の延長線上に、ハンスリックの第7章の見解があるのですが、それは検証し得る局面まで至ってから検討することにし、これ以降のハンスリックの記述は省略します。

長い引用になりました。



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