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2008年9月16日 (火)

曲解音楽史44)明、近代中国への架橋

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧
    42)オスマントルコ 43)アフリカ



アフリカについては、16世紀あたりまでの世相を追いかけるのに精一杯で、その音楽の特徴まで見極め得ませんでした。反省しておりますが、とにかく、まだまだ「分からない」というのが正直な印象です。はっきりしているのは、アフリカ大陸に存在した、いまも存在する音楽が、決して全て「ジャズ」の先祖ではないということ、イスラム音楽から影響を受けるよりもイスラム音楽に影響を与えた面も大きいように感じられる点を見つめなおさなければならないこと、と、大きくは2点です。そのことを、先に申し上げておきます。


で、そのアフリカ東海岸に到達した艦船を派遣した、中国の明(みん)王朝時代の音楽をみていこう、というわけですが、その前にもう一言しておきます。
私の娘の師匠(楽器の)と雑談していて、ヨーロッパ以外では何故音楽史がはっきり分からないことが多いのでしょうね、と問いかけさせていただいたところ、それはヨーロッパが文字文化地域だったからだという説があります、と教えて下さいました。
一時の立ち話(とは言っても、この先生と2週間に一度話をするのは、私が音楽に触れる上でいちばん楽しい時間です)でもあり、これで全てが尽くせるわけではありません。
「文字文化圏」ならば音楽史が明確になるのか、といえばそうでもありませんで、歴史という数直線的な世界管を持たないインドなどは文字文化圏でも<さっぱりわからない>一つの典型ですし、アラブ音楽については地の利や政治がからむこともあってこちらに知識が及びきれない面もあるでしょうが、秘伝としての性格が強い音楽が主流で、これも<時系列>で捉えることは出来ません。いや、文字文化圏・非文字文化圏双方を通じ、音楽を「歴史」として捉える視点は世界の9割以上がおそらくは本来持っていなかったのではないか、と思います。むしろ、とくに言葉として歌われるものは「歴史=音楽」、すなわち音楽は「歴史を語る手段」としての性格の方が強かった、というのが、いろいろな民族音楽(まだ掲載していないものをも含めて)について私が感じているところです。


さて、<29)宋・元時代の「中国」>では「中世という括りは中国は元代までで、明朝・清朝は近世に属するもの、と考えた方が良さそう」と述べておいたのですが、実際には歴史と言うものは「この先、近世」などと立て札があるわけではなく、「明」王朝には「元」王朝の政治体制を受け継いだ面を多く持っていました。モンゴル人による中国征服王朝として、その前後の漢民族王朝である「宋」と「明」の間を切り裂いているかに見える、そして確かにそういう面を色濃く持つ元ですが、明王朝は決して「宋」の後継者ではなかった、すなわち、征服された中華の地を漢人に取り戻した革命的王朝だった、ということは出来ないようです。
「宋」では大いに奨励されながら「元」においては否定されたに等しい「科挙」の精度も、明の時代に積極的な復活を見ていませんし、その土地支配も税制も元のやり方を踏襲していたのが、明王朝の実態でした。元が他民族を幅広く包括した王朝であった、ということに比較すれば、明は三代目である永楽帝(鄭和に西航を命じた・・・その分隊がアフリカ東岸に至っているのです)の死後一歩後退していますが、それでも、15世紀から16世紀の西欧の進出の時期と王朝の経営時期が重なるため、海外を含め異民族の文化を取り入れる面では元代よりも一歩前進した観があります。

・十二ムカーム(ウィグル族による組曲、15世紀成立)
ムカーム
「中国古典音楽鑑賞<明>」(1998、輸入元:株式会社ジェイピーシー)

こうした異民族情緒の曲が、市井で普通に演じられるようになったのが、明の時代です。

器楽で注目すべきは、古来の伝統を守った譜が盛んに編纂されていることで、だいたいこの時代のものを演奏した録音あたりからは、演奏の姿も15-6世紀当時の痕がきちんと残っている、と信頼してもいいのかも知れないなあ、と思っております。

・鳥夜啼(古琴譜「神奇秘譜」収録、編纂者、朱権)
ムカーム
同上音源

そして、もっとも注目すべきは、元の雑劇が発展した歌舞劇「崑曲」の隆盛で、これは明の時代に、元代でも盛んに読まれることとなる「三国志演義」や「西遊記」のような<大衆小説>の流行と連動していることを見落としては、次代の清(しん)を語ることは出来ないでしょう。

・玉簪記・琴桃(崑曲、高廉【明代の戯曲作家】作)
ムカーム
同上音源



異民族音楽の浸透はともかく、一般に器楽は貴族階級のものだったと思ってよいでしょうし、大衆小説や大衆歌舞劇といっても、ここでいう大衆は「都市民」もしくは「商人」であって、明の時代は銀の流通が活発化し、都市の貨幣経済が進展はしたものの、その富の取得には政権からの重税だけでなく、商人との取引で蓄財した地主階級の、農民に対する搾取(これがなぜ起こったか・・・税制はもともと農作物での現物納付だったのですが、現物納付は流通に不便で、交易が盛んになると貨幣での納付の方がラクになりましたし、貨幣はまた純度が高いほど異文化圏と商取引する上で便利でしたから、こうした小道具が出来ると、現物を農民からどれだけ安く巻き上げて商人に高く売りつけることができるかが富を蓄える上での勝負となったからでしょう)があったこと、したがって、大衆の音楽とはいっても、それが「万民の音楽」たり得なかったことは、承知しておかなければなりません。
それを裏付けるかのように、搾取され抜かれた農民は、明王朝のほぼ全期間を通じ、大小数多くの反乱を起こしています。

地主層はともかく、明の帝室は、永楽帝までの初期の輝かしさがだんだんに失せた頃、上記のような農民の反乱に疲弊させられていました。
そんな明帝室の財政(そして明を頼っていた朝鮮の沃土)を破滅に導く最も大きな最初のきっかけとなったのが、日本の豊臣秀吉による朝鮮侵略の試みであったことは、実に皮肉です。この侵略は7年間続きましたが、日本も得るものがあったわけではありません。しかしながら、この侵略戦争がとくに朝鮮半島の沃野をそれまでの二割弱にまで減らしたことを、明治期以降の大東亜主義による日韓併合と共に(これがあったからこそむしろなお、なのですが)朝鮮半島の人々が敵視し続けることを、日本人である私たちは一方的に過小評価するわけにはいかないのだろうな、と、歴史書を読むと、つくづく感じます。

明時代について読みやすい本は、
愛宕松男、寺田隆信「モンゴルと大明帝国」(講談社学術文庫1997、原著は1974年)
貝塚茂樹「中国の歴史 下」(岩波新書1970年 青版744)
あたりでしょうか。

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