« モーツァルト:「ああ、私の思った通り--どこかへ消えておしまい」K.272 | トップページ | Test »

2008年9月 1日 (月)

曲解音楽史42)トルコの脅威とは何だったのか

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米 39)15-16世紀イタリア 40)英仏戦争の頃 41)15-16世紀中欧



民族としてのトルコは、紀元前3世紀の匈奴の構成員だったとして、その起源が推定されています。その後も長く、東は北モンゴル高原からバイカル湖周辺、アラル海を経て、西は東ローマ帝国領にまで食い込む広大な地域に散居していたことが、『隋書』に記されているとのことです。
この民族は、突厥、ウィグルなど、中欧アジアの東部寄りに国歌を形成してはまた雲散霧消を繰り返していました。西方では、今日のブルガリアの基礎を作ったブルガール族もトルコ系の民族でしたが、彼らは9世紀までにはスラヴ化しましたし、トルコ系かどうかは明らかではありませんが、フン族に縁深い成立をした国家、ハンガリーも、ブルガリアと似た歴史をたどっています。
トルコ民族そのものの最初の大国として有名なのはセルジュク朝です。イラン(ペルシア)文化を継承したこの王朝は、1070年にはエルサレムを占拠、翌年遠征して来た東ローマ(ビザンチン)軍を撃破して気焔を上げましたが、まもなく襲来したモンゴルの打撃により衰退します。

その間隙を縫うようにして誕生したのが、20世紀初頭まで命脈を保つことになるオスマン=トルコでした。

オスマン朝は初期から優れた統治者を輩出し、すばやくバルカン方面を傘下におさめて行き、国王直属軍として強力な団結を示すイェニチェリの確立にも成功して一層力を付け、1453年には名君メフメト2世のもと、ビザンチンの首都コンスタンチノープルを陥落させ、ローマの継承者と主張し始めます。
オスマン=トルコのヨーロッパへの脅威は、このときに始まったと言えるでしょう。(メフメト2世は、ロッシーニのオペラの題材にされています。)

ドナウヨーロッパ史上の認識では、その後オスマン軍によって国王を失ったハンガリーの後継は、かの神聖ローマ皇帝カール5世の甥、フェルディナントということになっていますが、私の手元史料は錯綜しておりまして、トルコ側からみた本ではカール5世の弟でフェルディナンとの兄である、オーストリア国王マクシミリアンということになっています。

メフメト2世のビザンチン撃破後、一層大きな力を付けた、スレイマン1世(メフメト2世の曾孫)治下のオスマン=トルコは、ハンガリーを撃破した勢いで、オーストリアの首都ウィーンを包囲します。1529年のことでした。このとき、オーストリア側はおそらく知る由もなかったでしょうが、スレイマンの軍は、ぬかるみにはまったり雪に悩まされ、強力な武器であった大砲を捨てて進み続けたものの、実質上ははかばかしい攻撃も出来ないままウィーンから離れて行きました。ですが、おそらくその時のトルコ軍の大音響は、恐怖感と共にウィーン市民の耳の底に残り続けたことでしょう。

トルコの脅威は、とくにスペインとオーストリアに分散していたハプスブルク家に対し、軍事力を背景としてイタリアに圧力をかけ(当初はフィレンツェを厚遇してヴェネチアを軽んじ、ヴェネチアの抵抗を受けますが、結局はヴェネチアもトルコの勢いに屈します)、フランスとも駆け引きを繰り返し、カール五世の後にスペインを継いだフェリペ2世の元からネーデルランドを独立させるのに力を貸したり、と、巧みな外交戦略でヨーロッパに揺さぶりをかけることによっても発揮されました。ハプスブルク家領だけではない、イタリアの諸都市国家も、フランスも、所詮はオスマン朝の手玉に取られていた、ということでしょう。・・・この脅威は1676年、皇帝に代わって実権を握っていた時の宰相カラ・ムスタファによる第二次ウィーン包囲での大敗まで続くことになります。



トルコ音楽がヨーロッパ音楽にも直接影響を与え始めるのは、実際には、トルコがもはやヨーロッパにとって脅威ではなくなった、この17世紀に始まったようです。
トルコは、第二次ウィーン包囲の前から、ヨーロッパやロシアに、自国の軍楽隊を派遣して平和外交も図るようになっていました。
1720年代の初めにはポーランド国王に、1725年にはロシアの宮廷に、トルコは自国の音楽隊を「贈呈」しています。1741年にはウィーンでも、オーストリア人たちがオスマン=トルコの軍楽隊を模倣しています。

トルコの軍楽隊の特徴は、大小のオーボエ属の笛であるズルナ、「ボル」と呼ばれたトランペット、ティンパニの先祖である鍋太鼓他、円筒形の太鼓や大型シンバル(これはシンバルのみならず、銅鑼の先祖ともなったのでしょうか)だったそうで、たしかにモーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」やハイドンの交響曲「軍隊」などは、とくにシンバルなどの打楽器を生かすことでトルコ風の異国情緒を出しています。(ハイドンの交響曲では「ロクサラーヌ」なども同傾向を示していますし、オペラ『薬剤師』や『思いがけない巡り会い』でもトルコ的な楽器法を活用しているとのことです・・・音源は所有していますが、まだ聴く暇がありませんので、検証しないでおりますが。)先駆的な例は、グルックによるオペラ『思いがけない巡り会い、またはメッカの巡礼』(1764年)だそうです。

イタリアは19世紀に入ってやっとトルコへの恐怖感が拭い去られたのか、ロッシーニがトルコ人を皮肉ったオペラ数作作り上げています(『アルジェのイタリア女』)。
イタリア人とトルコ人の関係で面白いのは、イタリアオペラ界でロッシーニの後を担って高い人気を誇ったドニゼッティ(ガエターノ)の実兄(ジュセッペ)が、オスマン=トルコの軍楽隊を西洋化するための教師として招かれ、当地で新軍楽の作曲を続け、死をも迎えたということでしょうか。



実際にヨーロッパ人に脅威を与えた、あるいは平和外交での演奏で文化的衝撃を与えた、当時のオリジナルのトルコ音楽は私は耳にすることが出来ませんでしたが、ずっと以前、テレビドラマ『阿修羅のごとく』で印象的に使われて有名になった、トルコ軍楽の代表的な行進曲を、ここではお聴き頂きましょう。

・ジェッディン・デデン(祖先も祖父も)
「01_old_army_march__ceddin_deden__your_forefathers.mp3」をダウンロード
KING RECORDS KICW 1001


この作品自体は19世紀末のもので、アリ・ルザ・ベイ(1881-1934)という人の作曲です。



今回のタネ本は、もっぱら新井政美「オスマンVS.ヨーロッパ」(講談社選書メチエ237)でした。


L4WBanner20080616a.jpg

クラシックCD検索に便利!バナーをクリックして下さい!

|

« モーツァルト:「ああ、私の思った通り--どこかへ消えておしまい」K.272 | トップページ | Test »

コメント

こういう文章を読んでふと思うのは、たとえばモンテヴェルディの「タンクレディとクロリンダの闘い Combattimento di Tancredi e Clorinda」のような作品です。たしか十字軍の戦士の決闘で、殺した相手は愛すべきムスリムの女だったというものだったでしょうか。(たしかジョルディ・サバールのCDで聴きました)。考えてみれば、17世紀前半の作品なのですから、非常にリアルなイメージだったのでしょう。しかも、男と女の関係で捉えるとは! でも考えてみれば、同時代の作家セルバンテスの『ドンキホーテ』のなかの小説内小説にも、キリスト教になったムスリム女性との恋愛話とかありますか。

話は飛びますが、今ちょっと読み返しているのは、チェコの小説家クンデラの『カーテン』というエッセイ。ここで中央ヨーロッパとはなにかと論じています。たとえば、西の大国フランスは19世紀の小説。だが、中央ヨーロッパは「比類のない力はその音楽にあった」「ハイドンからシェーンベルクまで、リストからバルトークまでの2世紀」。。。(話が飛んで、大変申し訳ないのですが、もとはといえば、このクンデラの本にモンテヴェルディやラッススの話があったのですよ)。

投稿: shakti | 2008年9月 2日 (火) 00時00分

shaktiさん、コメントありがとうございました。
私はあまり事情通ではないので、モンテヴェルディの「タンクレディとクロリンダの闘い」については、CDでは何度も聴いていたものの理解していたとは言い難く、今日慌てて調べましたら、昭和音楽大学舞台芸術センター オペラ研究所の第14回講義録で、パリ・オペラ座の総裁モルティエ氏が適切なまとめをお話なさっている講義録を見つけました。よろしかったらご覧になってみて下さい。・・・タンクレディは西の、クロリンダは東の象徴である旨も明記されていますし、クロリンダの最後の印象的な言葉「泣かないで。天国の門が私たちの目の前で開かれようとしているではないですか」がなぜそのような台詞となったのかに付いても理解できます(ただし、多分通訳した録音かなにかを整理せぬまままとめた講義録らしく、文脈が読み取りにくいところが散見されます)。

クンデラという方の、言及なさっているエッセイも、是非読んでみたいです。

なお、「タンクレディとクロリンダ」は、「救われたイェルサレム」(だれの叙事詩でしたっけ?)の中のエピソードのひとつで、この叙事詩からは他にも「リナルド」とか「狂乱のオルランド」といった題材がオペラに提供されていることも・・・おそらくshaktiさんがご存知の通りです。

投稿: ken | 2008年9月 3日 (水) 00時18分

こんにちは。
Jordi Savallは「東洋と西洋」というCDを出しているのですが、Youtubeでも次の曲がみつかりました。トルコ風の音楽を演奏しています。

NBE & Jordi Savall Kavaklar
http://jp.youtube.com/watch?v=YgNwN-PK-D0

投稿: shakti | 2008年9月 9日 (火) 22時08分

shaktiさん

おお、これは、有り難い情報です!

使っている楽器も、ヨーロッパ化したものではありますがトルコを含むイスラム圏から(多分スペイン経由で)イタリアに定着したものですね。ということは、音楽も、レコンキスタ時代に少し先立った頃の系譜に含まれるようですね。演奏している姿が見られるのが嬉しいです!

34)の記事もご参照頂き、ご意見お聴かせ頂ければ幸いです。

深謝!

投稿: ken | 2008年9月 9日 (火) 23時13分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 曲解音楽史42)トルコの脅威とは何だったのか:

« モーツァルト:「ああ、私の思った通り--どこかへ消えておしまい」K.272 | トップページ | Test »