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2008年9月11日 (木)

「クラシック音楽」お仕事ヴィジョン(4)「地平線のクオリア」:作曲家の視座

結局は広告誌ではないか(3)、それ以上は何も考えられていないじゃないか(2)、とケチョンケチョンにばかり扱った『すべては音楽から生まれる』でしたが、著者、茂木健一郎氏はこの本以前に作曲家の江村哲二氏(2007年6月逝去)と対談をしています。
51bwpz91v2l_sl160_aa115_「クオリア」を云々する前に、この対談を覗いておきましょう(「音楽を『考える』」ちくまプリマー新書、2007年5月)。この対談では茂木氏は前に見た著書とは違い、本心から活き活きと語っており、ラ・フォルネ・ジャパンについてはまだ客観的な印象を述べ、より詳しい話をこの対談でおそらく初めて江村氏から聞いているのです。それが1年後に、前回まで低い評価をした『すべては音楽から生まれる』の執筆を「依頼」されることに繋がったのだろう、と推測することもしないことも、まあ自由でして、本質ではありません。参考までに触れておきます。
こちらの対談では、茂木氏の言葉は、江村氏という正面から向き合える相手に恵まれて、初期著作の<純真さ>を保ってもいるようです。
茂木氏の語ったことの中で考察すべきことについては、江村氏を簡単に紹介した後で触れます。



江村哲二氏のことを、少し述べておきます。(Wikipediaに記事もあり、公式サイトやブログへのリンクもあります。)
568物理学を専攻する傍ら独学で作曲を学んだ江村氏は、2006年1月に、『地平線のクオリア』という作品を発表なさっています。それは彼が茂木氏の著書『脳とクオリア』に触発されてから10年目のことだったそうで、以上はこの対談集の前書きに江村氏が記していることです。この作品はCDが出ており、それにはもう少し詳しく作曲の経緯が語られています。彼が独学で作曲を学ぶ決心をしたのは武満徹という存在の影響があったこと(武満氏も作曲を独学したかたでしたね)、その武満氏の作品「テクスチュアズ」から、この大先輩が<作曲過程にある自身の脳内に存在する「仮想としての響き」を聴き取ることこそが作曲であるといち早く気がついたひとであったように>思ったこと、それを茂木氏の『脳とクオリア』という著書によって気づかされたことが綴られてます。
なおかつ、氏は2007年5月26日の『可能無限への頌詩』という、茂木氏作の英詩の朗読をオーケストラをバックにして行なうという作品を創作中であることを、同じ前書きの最後に楽しげに綴っています。
作品は予定通りに完成したものの、江村氏はそれから間もない6月に膵臓がんで逝去なさったことを思うと、この前書きの、いのちの光を明るく素直に発している淡々とした語り口に、惜しくも道半ばに消えてしまった「希望」の大きさを思います。

「いま存在しないものを新たに生み出す『創造』ということ、と書きましたが、私たちの創造性はそんな神様みたいなことではなく、自分自身が現実の世界にあるものを見たり聞いたりしたことによる経験の積み重ねによって培われた資源が、脳内に長期記憶として蓄えられ、それが何かの外部刺激によって想起され、そのときにその複数が組み合わさることで元のかたちが変貌して意識の中に創発されているらしいということも分かってきました。すると、作曲するということはそれを『聴く』ということにほかならないことになります。」(「音楽を『考える』」p.10、江村氏による前書から)



さて、視覚の方では美を脳が如何に感じ取るかを論じた一般書が高価ながらあるのですが、聴覚は(じつは私も大学の専攻でその心理学実験の手伝いをずっとやっていたのですが)視覚よりも把握の難しい「知覚」であるため、聴覚の感じる美についての類書はありません。(もしくは、私の目には入ったことがありません。音楽の本を売っている店でも音響に関する本はありますが、私の知る限りでは、聴覚についてはもっぱら音の高さと広がりを数字で述べるのみで、それが心理学や生理学と関連して記されてはいません。)
で、江村氏と茂木氏の対談が、少なくともいま日本語で読める唯一の「聴覚と美」を探るヒントを与えてくれる本ではないか、と感じている次第です。

もうひとつは、「クオリア」という言葉の定義についてですが、これは茂木氏とある意味で対極的な捉え方をしている前野隆司氏は、
「クオリアとは、意識の質感のことだ」『錯覚する脳』筑摩書房 2007年、p.24)
と、単純な記述に留め、補足として、
「つるつる、みずみずしさ、キュンとした感じ、と言葉で書くと情報だが、そうではなく、言葉という情報では述べられないような、この豊かな感じを意識のクオリアというのだ」(同所同頁)
と述べています。そうしたクオリアとは具体的にどのようなものかを、前野氏は五感それぞれについて検証しているのですが、その内容には、ひとまず触れません。
また、池谷裕二氏『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックスB1538、2007年。もとは2004年発刊の単行本でしたが、ブルーバックスには新たに付け加えられた部分があります)の中でも、クオリアの語の定義はほとんど同じです。
このお二人の、クオリアに対する見方(そして生理学上はこちらが常識)は、共通しています。意識=心を生み出すのは「クオリア」なのですが、池谷氏の方の言葉で代表させておくと、
「(注:例示として)『見る』という行為は、おそらく人間の意識ではコントロールできなくなってしまった。無意識の現象だ。僕たちは脳の解釈から逃げることが出来ない。『見える』というクオリアは脳の不自由な活動の結果なんだ。」(p.318)
これは、前野氏によれば、デカルトの「我思う、故に我あり」という命題は脳の錯覚である、ということになります。(これだけでは前野氏の考えへの誤解を避け得ませんが、茂木氏の考え、そこから江村氏が受けたという啓示との対象上はこのことが重要なピンポイントとなりますので、ここではデカルトの見方への否定が前野氏、そして池谷氏に見解上では否定されていることだけを採り上げておきます。)

「クオリア」の定義自体は、これが哲学の術語であるため、茂木氏においても表面上は違いのあるものではありません。ただし、茂木氏の定義の方は基本的に前野氏や池谷氏とは違い、単文ではありません。
「『クオリア』とは、『赤い色の感じ』や、『ヴァイオリンの音色』など、私たちの感覚を特徴づける独特の質感である。」(茂木健一郎『クオリア入門』・・・原題『心が脳を感じるとき』1999年 講談社、現在は先の標題でちくま学術文庫に収録、文庫のp.16)
・・・池谷氏が載せている実験例からは、クオリアは生理学的に見ると「脳の錯覚」であり、どちらかというと受動的なものであることの方をはっきり示唆しているのですが(そのことにはまた触れる機会があるかも知れませんし、無いかもしれません)、茂木氏はそうは考えない。『クオリア入門』のほうではまとめにくいのですが、江村氏との対談の中では、仮に受動的な現象であったとしても、それは創造的な受け身なのだ、ということを主張したいと考えているように見えます。
すなわち、ある「クオリア」がより豊かに形成されるには、それなりの経験が必要なはずだ、そこには主体的、デカルト的な「我」が存在しているはずだ、ということを大前提としていて、この前提を裏打ちするための材料を、江村氏との対談の中から探ろうとしている。
こんな質問をしています。
「茂木:その際、音楽家の間での共通了解というものは、どういう形でなされていたのでしょうか。」
「江村:構造の基礎となっているのは和声学と対位法です。(中略)作曲家が曲を書くときは、構造的にどういうふうに音がつながっているかを理解していることが前提です。(後略)」(対談p.24)



江村氏は、茂木氏の「経験の累積による創造的なクオリア」とでもいうべき見方を実践面から支持する発言を、いろいろな側面からしています。

・何の技術もない人が音楽をやりたいと言っても当然出来ない(p.12)

・教えることができるのは構造的な部分だけ。「美そのものをどう創るか」は教えることが出来ない(p.30、要約)

・何か新しい発想が生まれるときというのは、人から与えられるものではなく自分の中に何かをつかむということ。それが聴く、耳を澄ますということだと思う。(p.34、要約。なお、ここで「聴く」とは音楽のみを指しているのではなく、物理や数学をも含めている)

・聴衆という立場であっても、音楽と対峙するという意味では作曲家や演奏家といっしょであって、自分の音楽を探そう、創ろうとしている。(p.43)

・自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいか、なのだ。(p.48)

・×:創造=未来に進むこと  ○:創造=起源にさかのぼること(p.52)

江村氏は、さらに楽譜と演奏の関係、ポピュラーとクラシックの違いなどにも言及し、音楽と社会(音楽が奏でられる場としての)にまで話を広げていくのですが、基礎となる彼の視野は以上の発言で推し量り得るかと思います。楽譜、ジャンル、社会それぞれと音楽については、それぞれのテーマを考察する際に改めて触れようと思います。
ただひとつ、最後に、創作という行為の本質について、江村氏が体感したことを痛切な言葉で表現している箇所を引用しておきましょう。

「作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。(中略)なんていうか、見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。」(p.20)

美を視覚脳が如何に感じ取るかを論じた本があることは、前回にも、今回の最初の方にも述べましたが、この本は「クオリア」という<新>術語・・・すなわち、伝統的に規定された術語以外のものを極力用いずに、脳と「美術」の関係を追跡しています。
「クオリア」で音楽を捉えることに、果たして妥当性があるのかどうか、を、その本の記述と、主に江村氏が視野に置いていたものとの対比で検討していくことを、このテーマの次回の課題としたいと思います。



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