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2008年9月29日 (月)

音楽美の認知(4)音楽における「未完結」・「多義性」と美術との差異

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文字通りの屁理屈の中でも、いちばんわけのわからん屁理屈が、あと18回は登場する予定ですので、すみません(1回以上おきになるようには心がけております)。文も難しめなのは反省しておりますが、自分自身が考え考え進めているので、これ以上噛み砕けないのもご容赦いただきたく存じます。


Tenbinゼキ『脳は美をいかに感じるか』第4章は、<神経生物学から見たフェルメールとミケランジェロ>とのタイトルです。随時「脳は、脳は」と反復することを忘れてはいませんが、その実、前章に比べるとダイレクトな脳や神経の記述はありません。学際的なことよりも、むしろ、この章で図版例として呈示するフェルメールの絵やミケランジェロの彫刻が読者にとってゼキの考察どおりに目に映るかどうかを「確認してもらう」ためのプレゼンテーションを意図したのではないかと思われます。

フェルメールにおいては、その絵画全般にわたる「描かれた物 相互の関係性の(高度に意図的な)欠如」に重点を置いています。

「筆者や筆者と同じような他の多くの普通の鑑賞者の注意を最もひくのは、欠点一つない室内の描写でもなければ、光蜥蜴の微妙な交錯でもなく、鮮やかな彩色でもなければ、細部の完璧さでもなく、みごとな遠近感の描出でもない。筆者の考えでは、この絵画は、その卓越した技術があいまいさを生み出すために使用されているからこそ偉大なのである。」(68頁)
「哲学者ショーペンハウエルはかつて、絵画の仕事は『個々の事物としてではなく、プラトンのイデアとして対象を認識すること、すなわち、その種(類)の事物すべてが持つ不変の形として、対象を認識すること』であると述べている。/フェルメールの絵画は『その種(類)の状況すべてが持つ不変の形』であるという点でこの条件を満たしている。」(69頁)

Michelangeloミケランジェロについては、未完の作と完成作を数例対比させながら、未完であるが故に喚起される「想像力」について言及しています。

「ミケランジェロは作品をノン・フィニート(未完成)にしておくことによって鑑賞者の想像をかきたて、作品を見た鑑賞者が、それぞれの脳の中にある多くの概念、すなわち蓄積されている表象を当てはめることができるようにしたのである。簡単に言えば、これらの未完成の作品にも曖昧さ、したがって恒常性が認められるのである。」(85頁)

すなわち、これらの作品の持つ性質により、美術に対し「能動的に」鑑賞者がはたらきかける(これはとくに第1章で述べられた「脳による恒常性の追求」を裏打ちする目的があるのでしょう)ということが、まず誰でも直感的に知り得るのだ、と強調することで、次章以降で精密なデータ例を駆使しつつ「美術に対する眼」を検証していくために議論をスタートラインに戻し、かつ詳細にしておく効果を狙って配置されたのが、本章なのです。



さて、音楽においては、フェルメールのような「多義性」は、とくに具象的な標題を与えられない作品すべてに「みられる」ものではありますが、一方で
「あ、これは舞曲のリズムだ」
「おお、これはソナタ形式!」
等々、別の与件があるうえに、それが人の聴覚像にどのような作用をもたらすのかは一概に語りにくく、フェルメールの絵画ほど明確に語り得るものは希少だと言わなければなりません。
また、「未完成」の作品は美術と同次元で論じることは出来ません。私たちは、聴くという立場では厳密には音楽を「未完成のもの」として捉えることはありません(「未完成交響曲」は完成した2楽章の作品として聴かれ、「フーガの技法」の絶筆部分での中断は、未完による中断であるにも関わらず、「ここまでで完成しないで<終えた>のだ」という聴き方をしているはずです)。それは、美術作品の9割9分には不必要な与件である「時程」が、音楽では必須の条件であり、時間の到来がある種の<完結感>を私たちにもたらすためではなかろうか、と私には思われるのですが、「科学的に」裏付け得ることではありません。
ですから、形式を認識されやすい音楽をフェルメールと対比することは出来ませんし、「草稿が未完成だった」音楽作品をミケランジェロと対比することも出来ません。

それでも、音楽における「多義性」は、絵画に描かれた像の「視線や表情の曖昧さ」と同様のシステムでは生まれてはいないこと、「未完」を感じる場合には美術に対応する形態は「未完の楽譜」という書かれたものではないこと、が、明らかでしょう。

後者については、むしろ、いちばん単純な例で言うと、教科書で言うところの「カデンツ(終止形)」(最も知られているのは、小学校で全員が一致してお辞儀をするときに合図として鳴らされるピアノのミソド-レソシ-ミソド)、あるいはそれを類推させる響きで終わる(これは伝統音楽モノフォニーでも洋楽風の和音付けをすると同じ結果になることが圧倒的に多いのが面白いところですけれど、立ち入りません)のでなければ、<音楽が中に浮いたままになる>ような感じを私たちに与えるため、そういう作品との対比が有効であるかと考えます。
すなわち、属和音のまま曲を閉じる音楽に、私たちは、たとえば古代遺跡から発見された首の無いトルソと同じような「完結されていない」美を感じる。

・マーラー「大地の歌」終曲のエンディング

ジュセッペ・シノポリ/イリス・ヴェルミヨン(アルト)/シュターツカペレ・ドレスデン
Deutsche Grammophone UCCG-5056

前者については、無標題(「舞曲」の種類名を含む)のものであっても、慣習となっているリズムや節回しの影響を受けるために「多義性」が制約されるケースが意外に多いかも知れません。

ところが、仮に「舞曲の種類名」がついていても、「多義的」に感じることの出来る作品は、存在します。バロック期にとくに多作されることになる無伴奏(鍵盤楽器による和声付けなどが施されない、また当然歌詞を伴わないことにより特定の意味付けがされない、単独楽器による)器楽曲に、そうした例を見ることが出来るでしょう。
J.S.バッハの「無伴奏」作品群が、その中では最も有名、かつ現在でもよく聴かれる例でしょうか。
フルートやチェロにもありますが、ここではヴァイオリンのものを聴いて頂きましょう。

・無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番から、アルマンド(主部とドゥーブル)

スザンネ(スザーネ)・ラウテンバッハー(Vn.) UNIQUE SVBX 526

まず、この楽章には「アルマンド」という舞曲の標題が付いており、主部はその舞曲のリズムを採用しており、ヴァイオリンに可能な限りの和声付けもなされ、「多義性」は狭められています。注目したいのはドゥーブルの部分で、同じアルマンドの「続き」でありながら、リズム形も崩れ(規則正しい八分音符の列ではありますが、そうすることによって「アルマンド」としての性質を消し去っています)、和声もなくなり、単旋律となります。このドゥーブル部分がどう聞こえるかは、主部のリズムと和声による「残像」によってのみ規定されることになり、残像が持続しない「耳」にとっては、ドゥーブル部はもはや「アルマンド」としての意味は持たない、別個の楽曲となります。・・・そう聴いてはいけない、という制約は、(本来は)もちろん無いわけです。・・・さて、いかがでしょう、この「アルマンド」、主部とドゥーブル(和声もリズム特徴も廃棄された部分)は、一連の音楽として聞こえますか? 別々に聞こえますか? 一連のものとして聞こえるとすれば、なぜつながりを感じるのでしょう? 別個に聞こえるのなら、なにがこの二つの部分を分けるのでしょう?

答えは、私も見出していません。一端保留としておきましょう。



それでも、今回は美術と音楽の「差異」を検討する上で、ひとつ大きな条件の違いが明らかになりました。
よくよく考えれば、結局は前章で推測したことの延長なのですが、音楽(ないしは聴覚像全般)においては「時程」の支配を考慮しなければならず、それが(ゼキの立脚点にこだわるならば)ただ経過するものとしてしか認知されないのか、残存する記憶に影響される機構が存在するのか、というあたりに、ゼキが見出した以外の「脳のはたらき」が関与している可能性が高確率であると推測される、ということです。

聴覚像には聴覚像の、やはり別の個性があるのでしょうか?
視覚像と一体化することは、経験としてはあるように、誰しも感じていると信じますが、聴覚像が視覚像とは別のものとして捉えざるを得ないのでしたら、この二つはどう連繋し、あるいはどう分離しているのか、ということも、問うていかなければなりません。

私は「わからないことは何か」を呈示するばかりで、一向に「何か具体的な結論めいたもの」が出てこず、またもや半端に終わったかも知れませんが・・・この先もご一緒に考えて頂けるようでしたら幸いです。


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