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2008年9月27日 (土)

音楽美の認知(3)「音楽」は耳のみでは聴かれていない

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ゼキ『脳は美をいかに感じるか』第3章「眼で見ると言う神話」を音、音楽に対応させるのは、非常に困難な問題です。
ゼキの本章での焦点は、視覚像はそれを網膜から受け取る脳の領野(一次視覚野、彼はこれを仮にV1と呼んでいます)によってのみ決定づけられていない、ということに当てられています。
V1の欠損により、直接的な網膜像は、まず全体として(ただし「そのときに注意を向けているものを中心とした歪曲された像」として)脳により把握される。V1の欠損が大きければ大きいほど、視覚像が知覚されなくなる範囲も大きくなる。
ところが一方で、V1が欠損していない「視覚障害者」でも、V1によって捉えられた視覚像が全体としては知覚できても、それがなんであるかが分からない(質感が欠損している)という症例もある。
これは、全体像が存在しなくても、知覚される限りにおいて、視覚は「見たものの形状・色彩・質感・・・等々」を把握可能であるし、逆に全体像が存在しても形状・色彩・質感・・・等々が把握できないこともあり得る。
すなわち、人間はV1に直結する「眼」によってのみモノを見ているのではない。
「脳は視覚世界の知識を探求する過程で、捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較することにより、脳の中に視覚像を生み出す。」(58頁)
この過程は芸術家の行なっていることと非常ににているのだ、とゼキはいうのです。
以降の章で、ゼキはさまざまな症例を駆使して、脳のこのような働きを私たちの前に「見せて」くれることになります。


4988065034252ゼキの論は、(脳が全てである、との立場に仮に立っておけば)聴覚についてもそのまま援用できそうです。すなわち、脳は聴覚世界の知識を探求する過程で、捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較することによって、脳の中に音像=聴覚像を生み出している
音像=聴覚像とはすなわち、音の高さであり、強弱であり、質(言語か・ノイズか・有機的な音か・無機的な音か、など)であり、時程(持続する長さや、捉え得る間隔)であろうかと思います。
一方で、聴覚障害においては、その一部欠損、というかたちでは症例や実験データが揃えられているわけではないように思います。難聴は音の強弱(音圧レベル)によって区分されているだけであり、特殊な「伝説例」を除き、聴覚像の欠損はこの一面以外から観察されていることはありません。
「伝説例」というのは、ベートーヴェンは<ピアノの音だけは聞こえた>なる話が代表的なもので(鉄の棒をくわえなくても、です)、
「確かに、そういう型の<難聴>もあり得る」
という見解が、聴覚障害の書物に記されているのを垣間見はしました。これは、聴覚像においても「質感」は保持されている欠損、というものがあり得ることを示しています。ところが、聴覚障害における臨床は、諸外国は分かりませんが、日本国内においては次のようである、という実態があります。
すなわち、聴覚障害者は「言語を受容し・発する」機能を持たないことにより擬似的に精神病と類似した行動をとりがちであり、手話による自由なコミュニケーションを獲得すれば、彼らの心理的な障害が取り払われることが多くのケースで明らかである。つまり、聴覚障害者が、聴覚に障害を持つということ以外には全くの健常者であるということがもっと明確にならなければならない、というところに、いまのところ主要な臨床報告が留まっている段階です・・・確かに、まずこのことは社会的に急務でもあり、臨床例が心理ケアに重点を置かれていることは現時点ではやむを得ない、いや、最も大事にされなければならないことでしょうから、これ以上先に進むためには、まずこうした聴覚障害者の臨床例がより多くの人に知られ、常識となって行くことが急がれるのです(村瀬嘉代子 編『聴覚障害者の心理臨床』日本評論社 1999年 など)。
したがって、聴覚に関しては、まだまだゼキがまとめ得たほどの体系で脳の詳細を論じるには、客観的な材料が揃えにくい、というのが現状であろうかと思われます。

ただ、少なくとも、ベートーヴェンのような「症例」が<伝説で>ではなく実際に存在するのかどうか、等の解明も進められれば、聴覚障害に対するフォローも視覚障害と同様のきめ細やかさが得られるようになって行くものと思われ、社会的環境が聴覚像の詳細にもより詳しく客観的な把握が進められる日が来ることを待ち望む思いです。



とはいえ、ベートーヴェン同様の例(質感の判別は可能)があるのではないか、ということのほかに、音高に対応する脳の聴覚野は周波数帯ごとにきれいに別れていることは判明していますから、その一部欠損の症例は、おそらく専門家の中にはご存知の方もいらっしゃるはずで、そうした情報も是非知りたいところです。コミュニケーション手段を獲得しさえすれば、聴覚障害者は「聴覚像の一部ないし全部欠損」がある以外には健常者であることも、臨床報告をまとめたかたがたの努力で判明しているわけですから、彼らの巧みな手話のリズミカルで美しいのを見ていますと、時程(リズム)に対応する知覚領域は聴覚脳との連携はとってはいても、本来独立して存在するであろうことは、素人なりに推測することが出来ます。
つまり、聴覚においても、聴覚像の要素となされている音高、音圧、質感、時程感は、ゼキのまとめた視覚像の諸要素と相似しているのは、現段階でも明らかである、と断言しても良いのでしょう。


問題は、それら聴覚像を脳がどのように捨て、選択し、選択した情報を蓄積されている記憶と比較するのか、その機構については、繊細な症例が分からない以上、ゼキのように整斉と論を進めるのは困難ではないか、と思われるところにあります。

音楽の認知ということに関しては、とりあえず健聴者(補聴器で聞こえる軽度な聴覚障害者も含む)だけを前提におかなければ、もはや語れないのだろうか、ということには、この先、不安を覚えております。・・・本来は、「質感だけは分かる」・「時程だけは把握できる」等々の症例を考慮しなければ、ゼキにはその著書の最初で既に述べることの出来た「美術の定義」にあたるものが、最終的には得られないままに終わるであろうからです。
そのあたりは、引き続き資料を探すなどの努力をしていきたいと思っております。

どうも、この考察は歯切れの悪い進行をしていますので、読んで下さるかたには、ただ申し訳ない限りです。

くどくなりますが、健聴者だけを対象に聴覚像の例を掲げるしかないので・・・
日本の作曲家に、コンピュータを駆使して、かのジョン・ケージの世界からはずっと先を行っている面白い方がいらっしゃいます。全編を掲げると長くなり過ぎますし、容量の問題もあるので、冒頭からこの人の作品をモノラル化して抜粋しますが・・・これが果たしてどのような「音楽」に聞こえるか、それはお聴きになるあなたの中に蓄積されたどんな経験をもって「音楽」たりえるのか、あるいは音楽足り得ないのか、を、最後にお考え頂ければ(なおかつ、できましたらお感じになり、お考えになったことの一片だけでも構いません、私にもお教え頂ければ)大変ありがたく存じます。

・三輪眞弘:2台のピアノと1人のピアニストのための「東の唄」冒頭部から

 1人のピアニスト、とは高橋アキさんを指します。彼女の委嘱作品です。fontec FOCD3425
・・・このCDの最後で、三輪氏自身の曲についての解説が「語られている」のが非常に面白く、そちらも興味深く聞きました。


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コメント

お久しぶりです! 随分前から、もっとちゃんと読み込んでからコメントを……と思い続け、ウッカリと今日までだんまりを決め込んでしまいました。^^; Kenさんは本当に真摯に文章を書かれていて、適当な感想を残してなるか~という妙な意地を張ってしまいまして。
認知のお話に関しては、やっぱり私の中でもうちょっとはっきりするまでダンマリ読み専させていただきます……
でも、最後に紹介されているCD抜粋、すごく面白いですね。私は今、カルナティック音楽に足を突っ込みかけているところなのですが(知れば知るほどハマっていきます)、なんとなく似たものを感じました。
というのは、カルナティックは、根本的には共有する音楽なんだなと思うようになってきていて。たとえば只のBGMには向かない、というか、それでは大事なものを取り落としてしまう、というような。歌い手と聴き手がラーガやターラム、それから神の名等を共有し、歌い手とたとえばバイオリン奏者が即興の対話をする、その臨場感に自らもカルナティック識者である観客がターラム(大雑把にいえばリズムとりシステム)などを媒介に、精神的には主体的に参加するという。
そういう競演のような、共有感、聴く側の曲への精神的な参加を促しているような。(そしてそれは、ポップス歌手のライブでの観客の参加とは、それを否定するわけではなくて、質的に違うものの気がしているのですが)
ひょっとしたら、とんでもなくズレたことを言っているのかもしれませんが、そんなことを感じました。
11月から日本に一時帰国するので、その時にCDを探してみようと思います。

投稿: ふね | 2008年10月 5日 (日) 21時33分

ごぶさたでございます! お変わりなくご健康第一でお過ごしですか?

拝読していて、
「うーん、やっぱり、日本の音楽の源流は(近世に中国・朝鮮とは絶えたも同然でしたから、必然的にもっと古い時代の影響だけが表に出ていて、これが非常にインドっぽいんですよね、ですから)インドなのかなあ」
と、しばし考え込みました。
が、なにせ、インド音楽はCDが豊富なわりに、目の付けどころがヘタで、「アタリ」クジを引けた確率がとても低いんです。。。

リズムに対する、単なる感性ではなくて、「筋の通しかた」っていうのが、変に情緒的ではない・・・これって、幾つも例を聴いても、得られる結論は、おおもとはやっぱりインドやアラブ系なんですよね。
・・・ホントはそういう、西洋との違いっていうのも浮き彫りになるといいのですが、20世紀になると、今回引いた三輪さんの作例も、ですけれど、もっと前の世代のクセナキスあたりにも非常に近いものがあって(ギリシャの人だからかな?)・・・洋の東西が問いにくくはなっています。

とりあえず、「認知」に関しては、洋の東西問題は不問に付して考えていってみようと思いますが・・・不毛に終わったらゴメンナサイ。そのときはいっぱいお叱りを受ける覚悟で続けていきたいと思います。

カルナティックの「これぞ」というCDが見つかったら、是非教えて下さいね。
いや、それ以前に、そうした非再現的な物を含む音楽は、実演を見るのが最もいいことなのですが。・・・そしてそこに、ポップスの場合のライヴとの違いの意味もきちんと見出せるはずなのですが(ポップスはライヴでの即興であっても再現性が高いですから)。

・・・さーて、不真面目は、ますます出来なくなってしまったぞ!
・・・アタマ悪いのに、大丈夫かなあ・・・???

投稿: ken | 2008年10月 5日 (日) 22時06分

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