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2008年9月24日 (水)

音楽美の認知(2)「音楽」は定義し得るか(脳神経的に!)

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・Ave verum corps



音楽がどのように「認知」されるか、について考える目的を確認しておきますが、非常にバカバカしい理由から、ではあります。

・はたして、<ビジネス>として成り立つ「音楽」とはどんな特徴をもつのか

・では、<ビジネス>として成り立たない音楽というものもあるのか

・上記2つのそれぞれの(陳腐に言ってみれば)資産価値とは何か?

・そもそも「音楽」とは価値あるものとして定義し得るのか

そうしたことを確認するほんの一端に過ぎません。そこを見失わないで、自分も考えていかなければならないことを常に肝に銘じながら、とりあえずゼキ博士『脳は美をいかに感じるか』の筋立てに沿って、その美術に対する脳神経システムからのアプローチが、どの程度音楽にも共通するのか、あるいは共通しないのかを、長々と見ていくわけです。・・・予想通りなのですが、前提を述べてみた初回から、あまり人様に読んでいただける代物になっておりません。(こんなマイナーブログにも関わらず、音符の初歩や曲の素人解析をした記事は、あいかわらず日に100件以上は読んで頂けているので、一般の人が『音楽」に何を求めているか、は傾向的には感じるものがありますし、今試みようとしていることが、一般的なことからいかに外れているかも了解は出来るつもりです。)

で、読んで下さる方、気が狂ったかとお思いになるかもしれませんが、しばらくお付き合い下さい。21回考えた後は、「音楽市場」とか「演奏者の道具と規模」の経済性(必ずしも流通に乗る、ということだけについてみていくつもりではありませんが)に話が戻っていきますし、そっちの方が身近で面白いはずですけれど、今の考察はそこに至る前提としてはやっておかなければなりません。



さて、ゼキの<第2章 本質的なものを求めて----美術からのアプローチ>に相当することを音楽に援用できるかどうか、が、今回のお題です。

ゼキは、本章を「美術家側は<美の本質>をどのように考えているか」を出発点に・・・すなわち、第1章の立場を反転させたときにどうなるかを見ています。従って、まだ序論の延長であり、ここにも臨床例は登場しません。
しかし、仔細に読んでみると、果たして、ゼキは本当に<脳科学者側ではなく美術家側から>という、第1章と逆のアプローチで言葉を選んでいるのか、には疑問の余地があります。
彼は最初から、
「美術は視覚脳の延長」(34頁)
である、との価値観に、言葉を悪くして言えば、「固執」しています。
彼によれば、包括的な<美術の定義>とは、
「物体、表面、顔、状況などの不変かつ永続的、本質的かつ恒久的な特徴を表現し、カンバス上に表現された特定の物体、表面、顔、状況についての知識を与えるだけではなく、そこからその他の多くのものに一般化できる知識、すなわち広い範囲に及ぶカテゴリーの物体や顔についての知識を与えること」(37頁)
であり、これは
「脳の機能と極めてよく似た定義になる」(37頁)
としています。
ここまでゼキが胸を張って「美術の定義=脳の機能」と主張する背景には、次章以降彼がまとめている豊富な臨床例・データがあるのであって、主張はすでにゼキの心の中では<仮説>ではありません。
世の中の優れた書物と言えど避け得ない例が豊富にありますが、<仮説>からではなく<帰納された結論>から本論に話を進めていく、という点では、ゼキの著書も同様だ、ということが分かります。

ただし、体裁としてこれが美術家・・・実際には美術評論家・・・の次の言葉
「真実の関係を表すには、無数の見かけの真実を犠牲にしなくてはならない」(37-38頁、ある美術評論家のクールベ論からの引用である模様)
を最も中心的な支持意見として採用することで、ゼキは自身の「結論」を補強するものだと見なしているのだ、という筋立てにしています。とはいえ、これは非良心的な恣意ではないことは、次章以下を見ていけば確信できるとは思っております。



脳の行なっていることは、アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズが
「絶望的にはかない瞬間の中から永遠を引っつかむ」
と述べていることに符合する、この言葉がまさに、第1章でゼキが強調した「脳の<恒常性の追求>」の働きに一致する、というのです。
また、カントが「美とは完全なものの表象である」とすることも同様だ、としています。

常に変わり続けている世界の中で完全なものを抽象化する、ということが「恒常性の追求」だというわけですが、ではさて、音楽においても同様のことは言えるのでしょうか?

臨床例・実験観察データ無しには語れないことですが、「視覚脳」というものと・・・もし存在するのなら・・・「音楽脳」というものの働きには、完全に一致しないところがあるのではなかろうか、というのが、目下の私の疑問です。
そもそも、「音楽」について、「美術」と似たような定義を行なうことが出来るのか、となると、難しい。
視覚像は、人間の場合には受容器官が「眼球」に限られるので、あるいは少しは「音楽」よりも考察が行ないやすいのではないか? そのことが、症例やデータを通じただけでもゼキに「確信を抱かせるに足る>情報足りえたのではないか?

音楽の受容器官、いえ、まだ「音の受容器官」と、幅を広めにとっておきましょう。
音の最も鋭敏な受容器官は耳であり、内耳からの情報が、少なくとも音の高さにおいては脳のどの領域で認知されているかは判明しているようです。言語と言語以外(研究の素材になっているのは「音楽(どのような定義におけるものかはわかりませんが)」が正反対の領野で認知されている、ということも分かっています(主に失語症の研究から)。
しかし、「音楽」と呼ばれているものには、現代では実に多様なものが含まれていますから、その多様さの中から素材を選択して脳信号を観察しない限り、「音楽脳」なるものが存在するかどうかは証明できないはずですが、おそらく、そうした実験は、まだ一つもなされていないでしょう。

音の受容、あるいは耳に入る音の種類ということに戻りますと、まず、聴覚障害者でも、骨(などの肉体)を通じて音を聴くことが出来ます。ベートーヴェンが耳の聴力を失ってから、ピアノにつけた鉄の棒を口にくわえ、その振動で音を聴きながら作曲した、というエピソードは有名ですし、私自身、聴覚障害者の人たちのためのコンサートに参加して風船を抱いて、その振動で音を聴く経験をしたことは、だいぶ以前に記事にしたことがあります。音の種類は、と言いますと、純音、楽器音のように<濾過>されたものは特異な部類に属しまして、人が出す声(言葉、言葉になっていないもの)、生物が発する音(鳴き声、そうではない音)、その他さまざまな物体が発する音、と雑多であり、これが「光学像」と同様に扱えるのかどうかは、いまのところ明快であるとは言い難いかと思っております(→「色聴」の話)。

後に持ってきてしまいましたが、ゼキは視覚がいかに発達しているかを表現するために、章の始めのほうで、このように述べています。
「私たちはしばしば、絵画の美しさやその表現力を説明する適切な言葉を見つけられない」(35頁)
それゆえ、視覚は言語表現よりも広い範囲をカヴァーできる知覚なのである、と強調しています。
・・・絵画を初めとする美術には、(極端な例を除いて)「言語」そのものが含まれていないことには留意して、その上でこう述べられているのだと言うことを銘記しておきましょう。


音楽」は、しかし、先に述べましたように「言葉をも包含する」ものでありながら、美術と同様に
「美しさやその表現力を説明する適切な言葉を見つけられない」
のです。受容器官も「耳」に限られない。
したがって、ゼキの表現が何故「音楽」にも当てはまるように見えるのかについては、ゼキの立脚点では不足しているか、あるいはまったくズレているか、私たちはよくよく考慮しなければいけないでしょう。

再度。

・Ave verum corps


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コメント

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自分であらためて見て、浅い内容に呆れ返っております・・・

投稿: sergejO | 2008年9月25日 (木) 01時46分

sergejOさん

コピペで一発ですみません。
今度、きちんとご紹介しなければ・・・
よく頑張っていらっしゃることに頭が下がります。

投稿: | 2008年9月25日 (木) 21時48分

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