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2008年9月 4日 (木)

「クラシック音楽」お仕事ヴィジョン(1) 初めの疑問と設問

都度うかんだ雑感ばかり綴っても、結局のところ実りは少ない、と、最近、なににつけ思っています。

ここのブログ(旧ブログを含む)では、いちおう「モーツァルト作品の楽譜を読む」ことはほぼ初めの頃からの課題にしていますし、途中からは「西洋だけじゃない音楽史」も追いかけられるだけ追いかけてみる試みもしています。最近は作品そのものではないですが、「バッハのカンタータが演奏された日のもつ意味」のフォローも始めました。その他、とりあえず上の3つの<課題>が一つでも片付いたら、入れ替わりに、「ありとあらゆる」は到底無理ですから、特定の人物や曲種に絞って「観察」してみたいなあ、なんていう「夢」も持ってはおります。
自分の所属するアマチュアオーケストラが演奏する曲が決まれば、専門のかたのような視点はとても持てませんが、それなりの解析をしたりしています。

ですが、記事の大部分を占めるのは、スポット的に興味が湧いたテーマやニュースでして、それはそれで構わないのですけれど、なにか、「クラシック音楽」なる<範疇>に留まっていると、自分自身が閉塞感を抱き始めざるを得ないのです。

「なんでかなー」

ということに、ここ数週間、思いを巡らしておりました。



・・・他の音楽ジャンルもフォローしたい? いや、そういうことではなさそうです。
ただ、研究対象としてはともかく、マーケットとしての「クラシック音楽(実はそうとは意識されていませんが民族音楽を含む)」は、<赤字事業>だと言われている。それなのに何故継続しているのか?

まずは、そういう素朴な疑問。

もう一つは上の疑問から派生することなのですけれど、(少し範囲を広げた言葉を用いれば)「(クラシック音楽を含む)古典音楽・芸能」というのは、やはり「宝物」であると信じているのですが、それが維持されつづけているのは、単純に「<赤字事業>でも守っていかなければならないから」という暗黙の了解のようなものが世間にある故なのか、そうであれば、維持の具体策とはどんなものなのか、という謎。
で、このことについては、理念を謳ったり述懐した書物などは山のようにあるくせに、ではどういう「具体策」で維持しているのか、に言及したものになると、非常に見つけにくい。



タイトルとしてはちょっとよろしくないのですが、<「クラシック音楽」お仕事ヴィジョン>という以上のようなことを、少しは系統立ててフォローしてみたい・・・そのことによって、自分の、あるいは一緒に楽しんでいる人の、または全然知らない何処かで愛好している人たちの「クラシック音楽」はどんな将来を持っているのだろうか、という像を、輪郭だけでもつかめないだろうか、と考えはじめたところです。


考えていく途上で何が見えてくるかにより、途中で路線変更をしなければならない場合もありえるのですが、取り掛かるにあたって、では、どんな疑問・設問をしておくべきなのかを仮に決めておきましょう。

1)ポップ系は「赤字」じゃない(と思う)・・・音楽のつくりは、だいたいが「有節歌曲」(同じメロディが繰り返される)で、歌であるためにメッセージ性が具体的である。新しい作品も、この定型に乗っていればヒット競争路線に乗れる。・・・「クラシック」系の新曲には、定型が無い上に、「有節歌曲」は基本的に存在しない。そうした新作は、演奏需要もCD化需要も少ない。従って、50年前から数百年前(多いのは100年〜250年前くらいの作品)を主とした演奏会やCD発売が主たる「お仕事」になっている。・・・しかしながら、そうした作品は一方では既にファン層が気に入ってしまっている旧録音が多数存在し、飽和状態になっているとも考えられる。
・・・「クラシック」に新作を大々的に売り出せる可能性はあるのか? それには「構造改革」が、果たして必要なのか不必要なのか?
・・・新作旧作を問わず、「演奏家」の収益状況は現状どうであり、改善されていく余地や策はあるのか?
・・・古い作品でも<新しい演奏>で「売れる」ノウハウがあるから新録音が続々出るのだと思うが、具体的にそのノウハウとはどういうものなのか?

2)そもそも、「クラシック音楽」あるいは「古典」とは、本当に「宝物」と見なし得るとするのであれば、その根拠はどこにあるのか? 「宝物」が(言葉は不適切なのかも知れないが)私たちにしかるべき<収益=得になるもの>を与えてくれないのなら、その存在価値自体が認められることが奇妙ではないのか?
・・・仮に「無形文化財」的価値が人間(享受者)にとって重要なのが自明であり、「クラシック音楽」などもそうしたものの一種なのだという前提を真だとしておく事にする。ではこのとき、なぜそれが「重要である」と断言できるのか?

まだ深まっているわけではありませんけれど、そういあたあたりから具体的な小テーマを見出し、あるていどまとめながらフォローしていきたいと言う、本日は単純にその表明に留めます。



ただ、まず根本には、私の胸に非常につっかえた、即ち、どうしても単純には受け入れられなかったタイトルを持つ本を目にしたとき、強い不快感を覚えたことが、こんなことを考え始めてみようか、と思ったきっかけであることは、申し添えておきます。

「すべては音楽から生まれる」

というのが、その書名です。

その上、不快感は、書名からだけもたらされたものであり、自分が何故不快だったか、の検証からスタートしないと、この先が始まりません。
だって、これだけ「クラシック馬鹿」な自分は、本来ならこの書名には、むしろ踊り狂うくらい喜んだってよさそうなものです。
ところが、自分の反応は、極端なほどに正反対でした。
(私のこの本への評価は、AMAZONで星2つの人たちのコメントと共通しています。)
ですので、入り口は、私がなぜ「すべては音楽から生まれる」というタイトルに対して不快でなければならなかったのか、の究明から始めてみようと思っております。

・・・今日は、それ以上は突っ込みません。
・・・というのも、この本を書いた同じ著者の本への評価は、私の中では「好ましい」ものと「いやなもの」とが混在することを、ようやく確認したばかりですから、それをまずきちんとまとめなければなりません。
そこまで今回綴ってしまうと、そうでなくてもいつも重たい記事が、いっそう重たくて、
「メタボ愛好家」
としての自分ばかりが、なおいっそう前面に出てしまいますから!




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