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2008年8月14日 (木)

アーノンクールの問題提起(7)音組織と音程法

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第1節は「音楽と人生」
第2節は「歴史的な音楽の解釈のために」
第3節は「音楽の理解と音楽教育」
第4節は「記譜法の問題」
第5節は「アーティキュレーション」
第6節は「テンポ」
でした。
第7節の「音組織と音程法」は、第4節以下で細目に入った記述の中で、もっとも根本的なものです。私が目にし得た限りの、日本語訳が出ている古代の音楽論(アリストクセノスとプトレマイオス、京都大学学術出版会)は、もっぱらこの「音組織と音程法」をめぐって展開されています。・・・これらの古典については、あらためて「読んで」いくつもりでおります。

古代の音楽論が結構読み解きにくいシロモノでしたし、いまここで「読み」を続けているアーノンクールの著書を初めて手にした頃は、私は<数字の羅列>になりがちなこの手の議論には非常な苦手意識がありました。相当難しいのではないか,という抵抗感が(昨日まで)あったのです。

ですが、あらためて読みなおして見ると、アーノンクールの記述は、この類いの議論のなかでは最も読みやすいし、理解しやすいものでした。
・・・ただし、そう感じるためには、あらかじめ、たとえば読みやすいものでは小方厚『音律と音階の科学』(講談社ブルーバックス)あたりを読んでおくことが必要かもしれません。さらに、これは高価ですので最寄の図書館にあれば、ですが、キルンベルガー(J.S.バッハの弟子)『純正作曲の方法』第2章の図にある音の数比の表などをイメージ出来るようにしておくとよいとも思います。



本節にはさまざまな専門用語が出て来ますが、アーノンクールは節の終わりの方で、比較的単純明解に述べていることをあらかじめ<結論>として持った上で記述しています。

「特に大事なことは、音楽家がその人の音組織のなかで純正に弾くことなのである。」(訳書108頁2〜3行)
アーノンクールが言いたいことは、これに尽きます。

具体例のひとつとして、すぐあとにはこうしたことを述べています。
「歌手もしくは弦楽器奏者と<のみ>仕事をする場合(注:すなわち、鍵盤楽器を一切用いない場合)、われわれは中全音律の特徴のすべてを用いるべきではない。それはまさに鍵盤楽器のための調律法だからである。」(訳書同頁6〜8行)

「中全音律」という用語は先のキルンベルガーが平均率(現代ではアーノンクールのいう<十二等分平均率>と一緒くたにされてしまいますので、キルンベルガーの著書の訳者である東川清一先生は<均一的【平均的】調性率>と呼ぶようにしています)の著書には登場しませんが、キルンベルガーが平均率を擁護する理由として、とくに長三度(ドとミの関係)を純正に調律することの難しさを強調していることから逆に推定されるように、平均率とは違って「純正な三度」を重視する(その結果として五度が狭められることを犠牲とする)調律法でした。これについてのアーノンクールの説明は、他書に比べかなり単純明快です。(「中全音律」じたい、五度が狭まる欠点を克服するために、数百年の間に何人もの人によって何通りもの音比が工夫された、決して一様ではない調律法ですので、そのどれもに共通する「三度の純正さを重んじている」点につき、きちんとまとめられた記述がありません。たとえば橋本英二「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」【音楽之友社】に数例例示された「中全音律」および混合的な調律法----これも「中全音律」の延長線上にあると考えることが妥当でしょう----の三度の数値がすべて異なっているため、眺めていると気が狂いそうになります。一方でキルンベルガーの前掲書の音比の表に戻ると、3度(音比4/5)が平均率(均一的調性率)でも極力近似の範囲に調律されようとされていることがより明確であり、橋本著よりはキルンベルガーを参照すべきであることは自明となります。)
一方で、アーノンクールは今日一般に「平均率」と呼び習わされているものを、先に触れたとおり<十二等分平均率>として本来の平均率と一緒くたにはしていません。すなわち、キルンベルガー訳書の<均一的調性率>が、アーノンクールの述べている「平均率」です。この調律法によってもたらされる三度は「純正」ではなく、音組織(いまは「音階」だと思って下さい)を「五度」の積み重ねによって構築する過程で生じる「ピュタゴラス三度」(これについては前掲『音律と音階の科学』2〜3章で平易に説明されています)となるため、「平均率」という呼び名によるイメージとは裏腹に、たとえば長調でもヘ長調とホ長調では異なる響きになることを理解させてくれようと努めています。
・・・以上の話は、しかし、アーノンクールがあらかじめ持っていた結論を前提とし、世間の些末な論議を私たちが賢明に避けることができるように(?)との配慮から生まれた補説に過ぎないと見ておいてよいのではないかと思います。

繰り返しになりますが、アーノンクールは中全音律がいいのだとも、平均率がいいのだとも言っていません。彼がいいたいことは、ただ一つなのです。

「特に大事なことは、音楽家がその人の音組織のなかで純正に弾くことなのである。」



さて、しかし、彼は事前に、三つの、相互に関連した面白い指摘をしています。

ひとつめは民族音楽に関する他書籍でも見かけますから珍しい記述ではありませんが、

・ヨーロッパの多くの地方の民族音楽は自然倍音だけで演奏されている(これはアジアやアラブ、アフリカとて同様なのですが)

ふたつめとみっつめは「なるほど、そうだったのか」と唸らされたのですが、他の史料で目にしたことは無いとはいえ、おそらくアーノンクールのいう通りだと感じられます。

・自然倍音の4、5、6番目は(基音がドであれば)、倍音としての登場順で協和音「ドミソ」を生み出す。それゆえにこの和音は「神によって作られた秩序」を表わし、倫理的な意味合いを付与され、曲はこの和音をもって閉じられる以外許されなくなった(・・・いつの時期から完全にそうなったか、については言及も無いし、すくなくともゴシック期も、またモーツァルトの時代も、宗教音楽は5番目の倍音すなわち「ミ」は省略された終止が通常でしたから、これは短調の曲がなぜ長調の主和音であるはずの「ドミソ」に解決されて曲を閉じなければならなかったかの説明としてのほうが妥当性が高まるのですが)。

・(一例として)トランペットは自然音のみが演奏可能であったため、神ないしは最も身分の高い王侯貴族に関係する場合にのみ使用が許された。(エステルハージ時代のハイドンの交響曲でトランペットを含むものは、確かに「高貴な」目的を持った作品であるようです。代表例は「マリア・テレジア」でしょうか。いずれにせよ、面白い指摘です。)



第8節は「音楽と響き」と題されていますが、極めて短い節です。本第7節の補強としての記述だと捉えてよかろうかと思っておりますが・・・いちおう、次回、ちゃんと独立で「読む」ことにしましょう。

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