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2008年8月25日 (月)

営みは生死を超えて:リパッティの演奏を聴きながら

家内の生きているあいだは、風景がどう変わろうと、変化を感じることはありませんでした。
家内の死後、身近な原っぱがいつの間にか消えてしまったこと、なじんでいたお店がことごとく閉じてしまったことに、急に敏感になった気がします。

我が家の近所に電車の新駅ができました。ずっと荒れ地だったその周辺が、貯水池を中心に整備され、来年までには、そのあたりに大きな住宅街が出来る「見込み」です。
その駅は決して便利なところにあるわけではありません。古くからこの町に住む人たちの中心街からもはずれていますし、乗換線があってより便利な駅はひとつ手前です。
ですのに、「来年できる見込み」の新興住宅街の顧客が付くことを当て込んで、旧市街や乗換駅にあった店舗の多くが、今の店舗を急ピッチで店じまいしています。

子供たちの小さい頃から行きつけていた旧市街のスーパーの中にあった、ある大手CDショップの支店も、移転を余儀なくされたとのことで、こないだ名残を惜しみに出掛けていきました。
在庫はほとんどなくなっていて・・・まあ、何でもいいから記念に、と探していたら、いい掘り出し物が残っていました。
いや、有名な録音なので、ほかの店舗にも必ずと言っていいほど置いてはあるのです。
ですが、50%引きでした。
・・・思わず、手が出ました。

ディヌ・リパッティの、ブザンソンでの最後のリサイタルです。(死の2ヶ月前に重い病状をおして敢行した歴史的ライヴ録音・・・TowerRecordsの紹介文から。実際、彼はコンサートの途中で一度力が尽きかけました。)



4988006855588この演奏会の顛末を巡っては、最近(と言っても出てから結構経ちますが)出版されている彼の伝記に詳しく書いてあります。ディスクの解説にも、概略が書いてあります。ご存知の方も多いことでしょう。(sergejOさんが本の概略をまとめていらっしゃいますから、リンクを貼っておきます。http://sergejo.seesaa.net/article/71083869.html)CDをお持ちの方も少なくないかもしれません。

ここでは、しかし、コンサートの顛末がどうであったか、私たちがそれを知っているか知らないか、ということは不問に付しましょう。

ただ、この音に耳を傾けてみて下さい。

シューベルト 即興曲第2番
「12_schbertd8993.mp3」をダウンロード
EMI TOCE-14051



私が今後しばらくブログの上で考えていきたいことは、究極は依然と変わらないと思ってはおります。
「音楽とは、いったい何であるか」
・・・でも、こんな難しい問題はありません。途中までは旧ブログで試みているのですが、試み始めたままのかたちで継続できるかどうかは、まだわかりません。

ですから、まずは設問を
「音楽とはいかなる営みか」
に代えておこうと思っております。

以下は、ひとつの「方法を考えるための事例」です。

ハンナ・アレントという哲学者のことは、ブログでご教示下さる方がいらして、初めて知りました。
やっと彼女の著作の訳書を1冊手にしたのですが、なかなか読み進めることが出来ません。
・・・というのも、彼女の著書が、西欧の伝統に「きちんと」沿っている、まともな「哲学書」だからです。
日本人はいったん<感性>だけで術語を作り出し、それをきちんと「公理」や「定理」として位置づけできないうちに、勝手に一人歩きさせるのが得意です。
稀に、「公理」・「定理」を明確に定義しつつ構築した著作が出ると、その批評は・・・よく読むと、結局はその著書の見事な完結性を認めざるを得ないでいるのが明白なのに・・・「認めた」と素直に表明するよりは、その「公理」・「定理」の扱う範疇ではないことに対して<触れられていない>と難癖を付け、著者に「続編」を求めるものが圧倒的に多い。
「論」を綴った著書は、小説ではないのです。
続編は、新鮮な「公理」・「定理」に啓示を受けた、別の人間がやるべきことです。批評と言うのは、本来、そのようにあるべきです(ワーグナーにさんざん敵視されたハンスリックの著作も、今は古書でしか読めませんが、訳書が出ています。きちんと目を通してみて下さい。ワーグナーに単純に同調していいのかどうか、検討の余地があることを、必ず見出すはずです)。そこを見失っていることへの危惧・・・別に、書物に関してだけでなく、日本人の営み全体について、私は危惧を覚えざるを得ません。
ましてや、「公理」・「定理」を確立せぬうちに、どんどん過去の事実だけを列挙し、それまでせっかく優れた観察をして来たのに、結局は混乱のうちに沈んでしまっているベテラン学者さんもいらしたりして・・・でも、そちらのほうが、先に感性でだけ確立した安易な術語をもって勝手に語り続け、人気も高かったりします。

立てるべきものを、感性ではなく、理性を持って構築していかなければならない。
私のような一庶民の手に負えることではないかもしれませんが、少なくとも、「音楽」を通じて、きちんとした定義がなされていないことによる「矛盾」は拾い上げていきたい。
それには、本当は、アレントをまず読了していなければならないのです。

アレントは難解ですから、いろいろな解説も斜め読みしてみましたが、結局は彼女自身の著作に還らないと、彼女の「大きさ」が見えて来ません。
彼女の『人間の条件』を読んでいて、私の抱いた感想は、<これは、預言の書だな>というものです。
<予言>ではなく、<預言>です。
20世紀中葉において、ファシズムをも、資本主義をも、そして解説書はおおむねこの点を落としているのですが、共産主義をも・・・20世紀に優勢だったあらゆる思考形態を客観的に批判し続け得た哲学者は、彼女だけではないか、という思いが、いま強くなっています。それは、彼女が、ヨーロッパを形作った、あるいはヨーロッパの形成過程で欠落していった、あらゆる思想の<根本>に通暁していたがゆえに可能だったことです。
『人間の条件』で、アレントが第1章冒頭に述べていることだけを若干引用しておきましょう。

「<活動的生活 vita activa という用語によって、私は、三つの基本的な人間の活動力、すなわち、労働、仕事、活動を意味したいと思う。」
・労働(labor):人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力。労働の人間的条件=生命それ自体
・仕事(work):人間存在の非自然性に対応する活動力。仕事の人間的条件=世界性
・活動(action):物あるいは事柄の介入なしに直接人と人の間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している。
(以上、志水速雄訳、ちくま学芸文庫19〜20頁から適宜抜粋)



今後、アレントそのものに触れることは、さほどないかもしれません。
しかし、このように「公理」をきちんと足場に据えたとき、私たちの前の<音楽の風景>は、どのようにヴェールを脱いでいってくれるか、ということに、・・・これまでのトピックも適宜継続しながら、それらをもいっそう深められるためにも・・・なんとか自分の照準を定めていけるようにして生きたいと思っております。
・・・そんなことをすればなおいっそう読者が減るでしょうに・・・
そんなブログに存在価値があるかどうか、も分かりませんが。


ともあれ、アレントをひとつの参考にしたとき、先にあげたリパッティの演奏は、さて、「労働」・「仕事」・「活動」のどれに該当するでしょうか?

少ない読者のかたに、是非、そのあたりを「聴き取って」頂きたく存じます。

屁理屈でした。



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