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2008年8月 9日 (土)

アーノンクールの問題提起(2)歴史的な音楽の解釈のために

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引き続き、アーノンクール『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』第1章を読んでいきます。

第1節は「音楽と人生」でした。

第2節は前節の、とくに最初の文を受けて、
「歴史的な音楽の解釈のために」(樋口隆一氏訳)
と題され、とくに19世紀後半から20世紀にかけて変貌したコンサートの「演目」と「演奏」について<まとめ>を試みています。アーノンクールがこれを執筆したのは26年前ですが、その時点から変わったことも多々ある一方で、変わっていないことも多くあり(こちらは事例を最後にお聴き頂こうと思っております)、アーノンクールのこの節は訳書では8頁でしかないにも関わらず、読解が難しくなっています。



「歴史的な音楽に関しては二つのまったく異なった立場があり、それに応じて演奏に関しても二つのまったく異なったあり方がある。」(訳書14頁2〜3行)

1)一方の立場は、歴史的な音楽を現代に引き移すもの(いわゆる「モダン演奏」)
2)他方は、その音楽が生まれた時代の目でそれを見ようと試みるもの(いわゆる「古楽演奏」)

アーノンクールは、2つ目の方にどちらかというと焦点を当てながら、両方を混然とさせたまま記述を進めており、それが「読解」の難しさを助長しています。とはいえ、混然状態で述べざるを得なかったほど、26年前にも事情は整理されきれておらず、いまもまだ明確な分離は困難な状況にある、と見ておいていいのだと思います。



「第1の見解は、その時代の音楽が本当の意味で生きていた時代には自然であり、一般的なものである」(訳書14頁7行目)

と述べているアーノンクール自身が、第1の見解が主流(かつ正当)であったいちばん最後の時期に、その時代の残照を浴びながら青春時代を送っていました。この時代には
「古い音楽はその時代の音楽への前段階としてのみ見られるか、最上の場合でも学習用の素材として参考に供され」たのだということを、アーノンクールは体でじかに経験したのであり、その認識は、それゆえ正しいものであると感じられます。
このことに関連して、1)と2)についての相違が、混然としたままで、少し後に述べられます。
「今日もし、演奏会場から歴史的な音楽を追放し、現代作品ばかり上演したとしたら、演奏会場からはやがて人影がなくなるだろう----しかしモーツァルトの時代には、もし同時代の音楽が聴衆から遠ざけられ、古い音楽(例えばバロック音楽)のみが優先されたとしたら、まったく同様なことが起きたかもしれないのである。」(訳書16頁3〜6行)

これはアーノンクールの青春時代には前者への偏りが根を下ろし始めていたものの、まだ新作上演も重要視されるという「混乱状態」にあったという経験がそのまま反映された言い方であって、アーノンクールには他に表現のしようがなかったと思われます。アーノンクールが生まれる少し前、シェーンベルクが展開した無調音楽のみによる演奏会シリーズがことごとく「演奏会場から人影」をなくしてしまったのが、一つの転機ではありました。それでもなお、調性音楽であるリヒャルト・シュトラウスはまだ君臨しており、彼の新作オペラは戦後アメリカのミュージカル並みに、少なくともドイツ圏では大ヒット、ロングセラーを続けていました。さらに(これは私もドイツのケースしか知らないので、フランスやイギリスでは少し事情が異なるはずだとは思っているのですが)ナチスの阻止さえなければ、シェーンベルクほど「論」に走らなかったヒンデミットの作品などは、それなりに大きな意味を持って、同時代作品として大切に演奏されていました。フルトヴェングラーもなお自らが交響曲作家であり続けようとしたことなど、やはり有名な事例でしょう。
それがなぜ、2)の方向が今日のように、徐々にでも「演奏」の重要な位置を占めるようになったのか、について、アーノンクールは注目すべき記述をしています。

「音楽的に生気に満ち創造的であった最後の時代は、後期ロマン派であった。(中略)しかしすべての音楽は、そこで止まってしまったのである。これらの音楽は今日なお最もしばしば聴かれ、しかも最も愛されている。また音楽院での音楽家の養成も、今なお当時の原則に従っている。それから何十年も経っていることを、人々は認めたくないかのようだ。」(訳書16頁17〜17頁3行)



混迷のうちから、アーノンクールは、自身が選択すべき道をどうしたか、について、彼は自分の意思でそうしたのだ、ということについては明示しないまま(伝記を参照すれば経緯が分かりますが省きます)、それでもしっかりした口調で述べています。
「もし今日われわれが歴史的な音楽を保護育成するならば、偉大な時代にわれわれの先輩たち(注:すなわち、フルトヴェングラーらの時代と世代まで)がしたのと同じようにはできないだろう。われわれは、現代に規範を見るような無邪気さは失ってしまった(注:このことについては彼は次の第3節で重点的に取り上げることになります)。作曲者の意志こそが最高の権威なのである。われわれは古い音楽を当時の姿で見、それゆえにその作品を忠実に表現するように努めねばならない。それは博物館的な理由からではなく、それが今日、古い音楽を生き生きと、しかもその価値にふさわしいかたちで再現するための唯一の正しい道であると思われるからである。」(訳書17頁4〜9行)

最初に私がアーノンクールの区分する二つの演奏のあり方のうち、彼が選択をここで表明している2)のほうについて「いわゆる古楽演奏」とくっつけてしまいましたけれど、アーノンクール自身は、「古楽」という言葉は慎重に用いています。日本でいま認識されている「古楽」(early musicの訳語)と、アーノンクールがここで言っている「古い音楽」には違いがあります。日本語での「古楽」が、なにか特別な範疇をあらわす傾向があるのに対し、アーノンクールは前にあげた「そこで止まってしまった」音楽を起点にして、そこから音楽を「生き返らせなければならない」との感情と感覚から・・・しかし慎重に言葉を選んで(原語は分かりませんが)「古い音楽」、と、訳語においてわざわざ一名詞化出来ないような言い方をしているもの、と、私は捉えております。

この後の部分に貴重な記述があるのですが、これは本書の第1章全体を通じてより詳しく述べられていくことになりますので、とばします。



アーノンクールが2)の方法を選択した当時はまだ、演奏習慣の変遷がほとんど注目されていなかったこと、それは、アーノンクールの言葉通りではありませんが、ヨーロッパの20世紀前半までの「進化論的歴史観」に支配された誤った認識に基づくものであることを、アーノンクールはかいつまんで述べています。具体例でより私たちに理解しやすく述べている部分を採り上げないで、まとめの部分だけを引用するのは心残りではありますが、彼の結論は、こうです。

「演奏法----つまり演奏技術----の変遷においてさえ、<上昇的発展>を語ることは出来ない。演奏技術は楽器そのものと同様、その時代の要求に常に密接に適応している。演奏技術の要求が常に大きくなり続けたという考えには異議を唱えるべきであろう。(中略)17世紀のヴァイオリン奏者で、例えばブラームスの協奏曲を弾けた者はいないだろう。しかし同様に、ブラームスが弾けるヴァイオリン奏者で、17世紀のヴァイオリン音楽の難しい作品を申し分なく演奏できる者もまたいないのである。両者にはそれぞれまったく異なった技術が必要なのであり、どちらの技術もそれぞれ同様に難しく、ただ基本的に全く異なったものなのである。」(訳書20頁4〜7行)

・・・この具体例としてタルティーニの協奏曲を聴いて頂こうか、と最初は考えておりましたが、アーノンクールの訴えたいことをより明確に体感するには、同じ作品を「古いスタイルを研究し、オリジナル楽器を用いた演奏」と、「20世紀の感性で、いわゆるモダン楽器を用いた演奏」を聴き比べて頂いた方がいいかと思いましたので、選曲を変えました。

・バッハ「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」BWV1060 第1楽章

オリジナル楽器(1993年)

CAMERATA KOELN deutsche harmonia mundi 88697 281822/2

モダン楽器(2005年〜21世紀です!)

諏訪内晶子、フランソワ・ルルー、ヨーロッパ室内管弦楽団 PHILIPS UCCP-1114

二つの演奏の、とくにアーティキュレーションの違いについてどう考えるべきかは、バドゥラ=スコダの『バッハ 演奏法と解釈』(頁左下の、おすすめ書籍をご覧下さい)をお読み頂ければ幸いです。

アーノンクール自身が、しかし、選択はしたとはいえ、自らも世の中の状況も困難に面していることを強く認識し続けていることが、節の末尾に綴られていることを、最後に言い添えておきます。

第3節は「音楽の理解と音楽教育」となっています。

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コメント

大変勉強になります。面白いです!
全然関係ない話ですが、落語や落語的芸術の「近代化」だとか議論などにも参考になるかも、と思いました。

投稿: shakti | 2008年8月26日 (火) 07時02分

shaktiさん、ありがとうございます。

落語そのものも、志ん生・志ん朝親子の「品川心中」のアタマ(マクラ)を聴き比べて頂ける記事を過去に綴っていますので、よろしかったらどうぞ! (^^)

http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_89e7.html

投稿: ken | 2008年8月26日 (火) 07時24分

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