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2008年8月19日 (火)

「モルダウ」二態(アーノンクールの実践1)

昨日まで、アーノンクールの『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』(邦題「古楽とは何か(言語としての音楽)」)第1章を読んできました。
アーノンクールからの引用だけでも、あるいは充分「硬い」感じだったかもしれませんが、そこへ私がまた<ピントのずれた>コメントを加えたりしたものだから、お読みになるのにお困りになったかもしれません。

全11節にわたってアーノンクールが述べたことのうち、主要な点は、次のとおりかと思います。

1)異なった意見も、根底が同じ精神ならば、再現の説得性という点で相互に寛大になれる(第11節)

2)音楽のひとつの面を改良するためには、別の面の改悪という犠牲を払わねばならない(第8節)

3)正しいテンポには、硬直した規則などは当然あったこともないし今もない。(第6節)

もちろん、アーティキュレーションなど、より重く取り扱わなければならない問題はもっとたくさん呈示されて来たのですが、「実践面」での検証を私たちの耳で行ないやすいのは、上記の3点です。


で、今日は、1)の「再現の説得性」の求めかたについて、一度聴いただけでは全く違うようでありながら、蓋を開けてみると非常に類似性が高い例を、聴いて頂きましょう。

アーノンクールの「実践例」としては、お聴きになって、あるいは拍子抜けなさるかもしれません。

曲は、「モルダウ(ブルタヴァ)」です。

フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリンフィル(1960年)の演奏と、アーノンクールが2001年にウィーン・フィルと録音したものを、お聴き頂きます。


「モルダウ」については、2006年の9月に、フリッチャイが南ドイツ放送響(当時)と練習している風景を文字に起こしておきました。それを参照しながらお聴き頂ければ、フリッチャイの表現したいものについては「確かにそのとおりだ」と理解して頂けるかと思います。

いのちの「モルダウ」〜フリッチャイ

細かい点はそちらをお読み頂くとして、「モルダウ」そのものにスメタナが書き記しているストーリーは次のとおりです。(上記フリッチャイの記事にも掲載しています。)

1)この河は二つの水源から発し(Fl、Cl):チェコ南西部に水源があるそうです。
2)次第にその幅を増してゆく。(モルダウのテーマ)
3)両岸には狩の角笛と(ホルンを中心とした部分):以下、5まで展開部に相当
4)田舎の踊りの音楽がこだまする。(2拍子)
5)・・・月の光、妖精の踊り・・・(4拍子の静かな部分)
6)やがて流れは(モルダウのテーマの再現):この部分のみ再現部に相当
7)聖ヨハネの急流にさしかかり、波しぶきをあげて飛び散る。(荒れ狂う部分)
  :ここは「再展開部」とでも言うべきかも知れません。
8)ここから河はプラハ市に流れ込み(長調に転じたモルダウのテーマ):以下、コーダ
9)ここで河は、古く尊いヴィシェフラト(高い城)に敬意を表する。(終結部)

以上をもとに、二人の指揮者がどれくらい異なった「演出」を試みているか・・・にもかかわらず、表現の中心とするものは何かについて、どれほど驚くべき一致を示しているか。

そのあたりをお聞き取り頂けるようでしたら嬉しいのですが。。。

フリッチャイ
Moldau-Fricsay.mp3
Deutsche Gramophone 463 650-2

アーノンクール
metana__ma_vlast_vltava_the_moldau.mp3
RCA BVCC-37616-17

・・・お忙しいでしょうから、どうしても流してお聴き頂く、というのが精一杯かもしれません。
ですが、是非、いちど腰を据えて、出来ればそれぞれを3度ずつはお聴きになってみて頂ければと存じます。(ただし、フリッチャイの方で11分、アーノンクールの方で13分という演奏時間ですから、1回だけでも24分かかってしまいますが・・・)

同様の比較(といいましても対比の目的は違うのですが)を後2回続ける心づもりでおります。
そのそれぞれについて、同じお願いをしておきたいと存じます。
ちなみに、明日掲載しようと思っているものは時間が半分になります!

・・・実は、今日の比較はアーノンクールとは「全く違う」解釈(というより、深い解釈を・・・おそらくわざと・・・していない)演奏例を挙げようかともくろんだのですが、明日・明後日の対比はイヤが応にもそのような様相を呈することになりましたので、避けました。


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コメント

>そこへ私がまた<ピントのずれた>コメントを加えたりしたものだから

こちらこそ、適当に読み流したところが多々発見されて、大変啓発されました。自分がちゃんと聴けているのか、一層疑念が深まります。。。

投稿: sergejO | 2008年8月20日 (水) 00時05分

「読む」というのは、実に大変な作業ですね。
sergejOさんは、それでも精力的に「読む」ことを怠らないから、もう私からすれば尊敬の眼差し、ですヨ。
今回の演奏例、比べると面白いでしょう?
楽しみで、あるいは「くつろぐために」というときには、こんな比較は考えもしないでしょうが・・・で、物好きでこんな記事綴ると、読者数は<激減>するのです!
(なりゆきでアーノンクール特集みたいになってますけど、べつに演奏家やディレクター【日本語の<指揮者>は誤解を孕みやすい表現なので、本来あまり使いたくありませんが、ここではいわゆる指揮者とイコールだと思って頂いて結構です】を決め打ちしようとは思っておりません。面白い比較があれば、どんどんやってみたいんですけど。

投稿: ken | 2008年8月20日 (水) 10時52分

>こんな記事綴ると、読者数は<激減>するのです!
kenさんの記事はいつも面白く拝見しておりますが、今回の連載はいろいろ思うところがありました。

>今回の演奏例、比べると面白いでしょう?
まだフリッチャイのDVDの記憶が新しいので、アーノンクールから聴き始めましたが、びっくりでした。2)のぼわ〜と音が膨らむところ、3)のホルンから集結部に至るまで、フリチャイの指示が幾つも思い出されました。
アーノンクールの方が序盤控えめかもしれませんが、際立って違うと言えば、4)の田舎の踊りでフリッチャイがアクセントをもっと際立たせていることと、最後の二音くらいなもの。5)なんてどっちがどっちだか判らないです。

もしよろしければ、べートーヴェンの8番で比較を。少なくとも8番のアーノンクールは、思うに、フルトヴェングラーやカラヤンと根本は一緒かなと。この曲を面白いと思わせる“解釈”は共通と感じています。

投稿: sergejO | 2008年8月21日 (木) 01時41分

>べートーヴェンの8番で比較を。少なくとも8番のアーノンクールは、思うに、フルトヴェングラーやカラヤンと根本は一緒かなと。

・・・むむむ!
アーノンクールで初めてベートーヴェンを聴いた頃(エロイカでしたが)って、なんだかむちゃくちゃその演奏が気に入らなくて(彼のモーツァルトの交響曲演奏も気に入りませんでした)、確か人に上げちゃって・・・それから買ってないんですよ。単純に、これは嗜好の問題でしたが。
カラヤンのベートーヴェンも、1枚も持っていない。好き嫌い以前に、フルトヴェングラーで聴いても他の指揮者で聴いても(こっちは7番での比較でしたが)、演出が違うだけで「結局、年代が近いベルリンフィル、という<器>が同じだと、響きは同じなんだな」と、むしろその発見をしてしまったので、それまでに聴いた以上のものは入手をしないでしまったんです。

ただ、今回、実はいろんな疑問(「古楽奏法を取り入れた」といって憚らないベルリンフィルの広報【ラトル自身にはそこまで大袈裟な意図はなかったと思っています】に安直に倣った日本のオーケストラの激増、無反省に「古楽奏法も勉強しなくちゃ」と口にして憚らないベテランプロへの不満・・・古楽、というものへの本質的な問いが無い・・・や、最近自分の中にわいたさまざまな反省から、「自己点検」の思いも込めて著述としては前から敬意を持っていたアーノンクールのこの本を選んだのでして、いまこのように仰られると、胸がワクワクするのを抑えられません。

話はズレますが、カラヤンについても、百周年云々以前に、後年彼がいろいろ非難されるようになった中に「音を表面だけツヤツヤにして中身が無い」という悪口が随分あったのですが、でもカラヤンは(中身の件は措くとして)精神性だけを標榜する従来の指揮者に飽き飽きした聴衆から熱狂的に受け入れられたからこそ華々しい第1歩を築いたのだ、ということについては忘れられているんですよね。そういう、派生的な話題もある。さらに枝分かれすると、百周年で殆ど思い出されていない素晴らしいディレクターがいた。アンチェルなんですけどね。・・・いま、手持ちが1枚もない。でも、この人なんかにも触れたいし。

・・・いけません! あんまり挑発しないで!

投稿: ken | 2008年8月21日 (木) 10時47分

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