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2008年8月13日 (水)

アーノンクールの問題提起(6)テンポ

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第1節は「音楽と人生」
第2節は「歴史的な音楽の解釈のために」
第3節は「音楽の理解と音楽教育」
第4節は「記譜法の問題」
第5節は「アーティキュレーション」でした。
第6節は「テンポ」です。 この節は、アーノンクールが「古い音楽」の研究を重ねてきた成果を縦横に駆使して記述しており、かつ、その原典を私はほとんど目に出来ておりませんので、果たして彼の主張がすべて正しいのかどうかを裏打ちし尽くせません。 ただ、18世紀までの音楽が「言語」と密接に関わっていたことを盛んに強調する彼の姿勢は、この節を見ると、そもそも古代ギリシャの韻文の規則がそのまま古代ギリシャの音楽に結びついてたとの認識(これはプラトンの『国家』やアリストテレスの『詩学』をざっと読んでも、たしかにアーノンクールの認識通りらしい、ということはおおむね分かります)に根差していることを窺わせます。古典言語における類似した音韻論は、サンスクリット語にもありますから、一見すると妥当なように感じられます。

「ギリシャには三つの異なったリズムと基本テンポがあった。」(訳書81頁)

として、彼は次の3つを挙げています。
1)短い音のみからなるリズムは速く、戦いの踊りや、情熱的できっぱりとした音楽に適している。
2)短い音と長い音からなるリズムは、輪舞を連想させるのにふさわしい。おそらくそこで問題になるのは、ジーグ風のリズムである。
3)長い音のみからなるリズムはゆっくりであった。このリズムは讃歌のなかに見出される。

・・・ところが、アーノンクールのこの記述には、彼ならではの「主観」が入り込んでいます。
即ち、各項目の後半部は、古代ギリシャ音楽そのものがそうだった、というのではありません。古代ギリシャの楽譜が解読され、可能な限り素直な復元演奏も試みられているこんにち、たとえば讃歌のリズムが常に3)のルールに当てはまるのではないことが明らかです。アーノンクールの記述それぞれを一命題と見なすと、それぞれ「逆は真ならず」であることに気をつけなければなりません。
アーノンクールが古代ギリシャのリズムの類型をまとめたそれぞれの命題の後半部は、1)ではからずもアーノンクールが例示してしまっているように(このリズムパターンは<タンクレディとクロリンダの戦い>のなかの戦いの音楽に使われていることを挙げています。)、<文字の上で読んだ古代ギリシャの理念>を音楽に応用したモンテヴェルディのころ、すなわち1600年代以降の音楽について述べたものなのです。

「タンクレディとクロリンダの戦い」〜馬がだんだん早足になるところ

したがって、アーノンクールのこの節で問題にしている「テンポ」問題は、17世紀以降については当てはまるものの、それ以前についてはアーノンクールの述べている通りかどうかは、読み手が確認しなおす必要があります。

なるほど、定量音符についての彼の記述(訳書83頁以降)は正しいものであるようです(表面的な知識しかないので、ただ納得しています)。多声音楽が「記譜」されるようになってリズムの問題が複雑になり始めた(訳書82頁)、という論も、「そうなのか」とまでしか私には言えません。
ですが、彼が
「例えばモンテヴェルディ、バッハ、モーツァルトのテンポよりも、1500年頃の曲のテンポの方がずっと厳密に再現することが可能なのである。」(訳書84頁10〜11行)
という時、「厳密」と言い切るのは、私としては「行き過ぎ」だと言いたいところです。というのも、アーノンクール自身が、この点については矛盾を犯しているからです。すなわち、古代まで遡るまでもなく、14世紀の音楽を当時の音符から解読することの困難さをアーノンクールは先に述べていますし、かつ、そのころまで継承された「テンポ」は<絶対にこの速さ>というのではなく、相対的だった、という点について認めてさえいるからです。

要するに、アーノンクールにとっては、そこまで遡る必要は、本来なかったと思うのです。早くとも16世紀以降を問題にする程度ですませておけばよかった。・・・しかしながら、あえてそこを踏み外してしまったところに、かえって、アーノンクールの問題意識の深さを読み取ってやるべきなのかもしれません。



1600年以降についてのテンポに関する記述は、もともと一般の人たちも目にするチャンスが多いですし、それらを眺めながら読めば、正しいものであると納得がいきます。
それでもなお、たとえば、

・今日なお用いられているレント、ラルゴ、アンダンテ、アレグロ、プレスト(一部略)などのテンポ表示は、17世紀の音楽ではテンポと音楽表現とを規定していた

この点については17世紀と時間的に区切ることには賛同しかねます(例えば19世紀でもロッシーニのオペラではテンポ表示と音楽表現はなお共同して表現されていますし、シューマンがドイツ語で表記したテンポ表示も、何故あえてドイツ語にしたか、の背景には、ともすれば「速度」面しか注目されなくなりがちになって来たイタリア語では音楽に求めたいニュアンスが軽んじられるのではないか、との危惧があったのですから)。歴史的なことはともかく、音楽用語としてのイタリア語の「テンポと表現」の連携の伝統がいまなお脈々と受け継がれていることについては、関/マリアンジェラ共著『これで納得!よくわかる音楽用語のはなし』(全音楽譜出版社)をお読み頂ければよろしいかと思います。

この節を書く際、アーノンクールは確信犯だったかもしれません。いろいろ調べていけば上のような錯誤があるにも関わらず、彼が最も訴えたかった論点については、彼が節の最後のほうで集中的に述べている言い分は、どれも「当たり」だからです。・・・それらを「当たり」だと納得させるためには、そこに至るまでに、彼は読者を煙に巻いておかなければならない。

「音楽家の言によれば、ゆっくりとした動きが求められているか速い動きが求められているかは、その作品から推測しなければならないのである(レオポルト・モーツァルト)。」(訳書90頁11〜12行)

「正しいテンポとは、合唱やオーケストラの演奏の大きさ、その空間の音響等を考え合わせながら決定されるものだから、硬直した規則などは当然あったこともないし今もない。大オーケストラは小さなオーケストラよりもゆっくり弾かなければならないとか、よく響く空間では、<乾いた>空間よりもゆっくりと演奏しなければならないといったことも、もちろんかつてはよく知られていたし、教えられていた。」(訳書91頁2〜6行、なお、この部分ではアーノンクールはその前に自分が矛盾したことを綴っていたことにつき等閑視していますが、彼が訴えたいのは、それほどまでに現代では「音響」のこと、また省略しましたがアーティキュレーションのことを度外視した勝手きわまりない演奏が横行していること・・・それが個性だ、として、本来あるべき音楽のある種の普遍性を粗末にしていることへの危惧なのです。彼が記述の矛盾を確信犯的に行なったのではないか、と私が感じる理由は、このあたりにあります。)

「一般的に資料から分かることは、昔の人々は、今日の人が考えるよりも、特に緩徐楽章においてかなり速いテンポをとったということである。しかし速い楽章もまた、非常に名技的かつ勢いよく演奏されていたことは明らかである。」(訳書91頁10〜12行。アーノンクールが引き合いに出しているのは、有名な、フォルケルの『バッハ伝(バッハ小伝)』の記述ですが、文章資料だけでなく、私たちが音楽を聴く自然な感覚からでも、現在では、たとえばモーツァルトのの後期交響曲の第2楽章【通常はアンダンテ】のテンポが、後期ロマン派の衣鉢を継いだ演奏の「遅い」ものよりも、・・・別段<古楽演奏>によらずとも、早い時期ではスウィトナー指揮ドレスデンシュターツカペレのように・・・軽やかである方が耳に心地よい、という事実から、この部分の記述の妥当性を認め得ます。)

アーノンクールはこの節を「装飾」すなわち主にバロック音楽における即興のセンスの問題を語ることで締めていますが、まずは、そこまで触れずともよいでしょう。

第7節は、現代人にとっていまだに難しい、忘れ去られやすい問題について扱っています。すなわち、「音組織と音程法」、というテーマです。・・・さて、どれだけ読み取れるかなあ。。。

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