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2008年8月 7日 (木)

「アマチュア」であることの資格

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今日もちょっと過激かな・・・
たくさん読まれるわけではないから、いいや、と、この頃は少し開き直っていますが。

先日は「プロ」の一部が「アマチュア」を下位に見なしていること、そういう連中に限って、自分が「プロ」たる由縁をおろそかにしているのではないか、との疑念を綴りました。

しかしながら、それでは実は片手落ちなのではないか、ということも、常々思っております。
「アマチュア」本来の意義については、先日もリンクした記事に綴りました。
自分の仲間を何とか鼓舞したい、向けるべきところへ目を向けなおして欲しい、という、(ある種尊大なのではありますが)そんな願いを込めて綴ったものでした。(なかなか効果がいきわたりませんが・・・)

そもそも、下位に見られることに甘んじなければならないような質であることが根本にあり、それを当たり前と容認していたり、逆に、ちゃんと耳を澄ませば下位水準にとどまっていることが明らかなのにのに「自分たちはへたな本職より上手いんだ」と思い込んでいる(思い上がっている)ケースが往々にして存在することにも、「アマチュア」を斜め下に見る「えせプロ」がいることを許す大きな要因があるのですから。



「プロ」は、もちろん、視点をどう取ろうが、本来「アマチュア」を超える技量を持っていること、そうであってこそ自己の技芸で報酬を得る資格があることを宿命として持っていなければなりません。で、ホンモノの「プロ」が「プロ」でない人たちを唸らせるためには、「プロ」ならではの技量をさりげなく披露し、かつ、それが尋常では獲得出来る技術ではないことを観衆・聴衆に驚愕や感嘆と共に納得させ得なければなりません。
この点では、「プロ」の方が明解です。流行を過ぎました言葉ですが、その「品格」を人に見据えてもらえると言う意味では厳しい位置にも居ますけれど、業界の座標上に自分という点あるいは面の位置を確認出来るだけ、それが本職ではない者よりも恵まれた条件下にあるのですから。

いっしょくたに「アマチュア」と「見なされている」側は、ではどうなのか。
(聴き手に徹する愛好家、まだ楽器や歌を始めたばかりの人は除外しましょう。)
つけいれられる隙が、おおいにあるのではないか。

日本人の場合には、西欧の伝統音楽に手を染める際、それをかたちづくって来た過程で大事にされて来た「複数の音が生み出す響き」という事象に鈍感だったというのが、受容時に欠落していたということを見落とせません。
従って、日本人にとって、西欧音楽の素晴らしい演奏者とは、9割9分「独奏において超人的な技量を示す」ことであり続けましたし、いまでもその傾向は続いている。
オーケストラの団員も、しばしば「個人的な技量が優れている」ということが採用にあたっての最重要要素です。
・・・ヨーロッパのプロオーケストラのオーディションも、現代では「個人的な技量が優れている」ことを選考時に求めていますから、日本人だって同じ方法を取っているんだもの、間違っていないじゃないか、と思われるかもしれません。
忘れてならないのは、ヨーロッパ人は、職業音楽家ではなくても、石造りの教会・聖堂で鳴り響く「和声の響き、絡み合う旋律の豊かさ」に、とっくに耳が慣れている、という大前提があることです。



本来、ヨーロッパ音楽の持つ「豊か」な響きに感動したからこそ、日本人は単に「欧化政策」の延長で西欧音楽を主とし、中心に据えて音楽教育を考え始めたのではなかった、ということが、すっかり忘れ去られています。・・・もっとも、最初の段階で「西欧音楽と日本の伝統音楽を併行して学ぶべきである」という明治当初の音楽取調掛(伊沢修二ら)の献策が退けられ、それから百年以上も経ったこんにち、ようやく日本の伝統音楽も教育に取り入れなければ、と騒ぎだしているような「お笑い」があることもまた事実で、今度はあまりにいまさらすぎて、日本伝統音楽の初等教育を出来る人材が不足し過ぎであるとのお粗末な実態もあります。

「響き」に重点を置かずとも、「平均率」主体であるかぎりは、専門機関で和声聴音も充分勉強して来た、個人的技量(器用さ、という意味でのみこの言葉を使っていますが)の優れた演奏家を採用さえしていれば、プロのオーケストラは無難ではあります。

アマチュアは?

そもそも、「器用さ」という意味での個人的技量が飛び抜けている人物となると、ずいぶん限られるでしょう。それでも、皆無ではない。
では、そんな「器用」な連中をオーディションで見定めて採用して、果たしていいオーケストラが出来るのか?
「出来ない!」
と、確言してよろしいかと思います。
勉強しようと思えば、対位法の本だって和声学の本だってたくさん出ているけれど、ほとんどが専門課程を勉強する人のためのものであって、難しすぎます。
そんななかにも、分かりやすかったり、専門にしないのであれば不必要なことは省いた優れた入門書もありますが、和声の入門書は幼稚園や学校で即興の伴奏をしなければならない、といった必要に迫られない人はまず読むことはありませんし、対位法に至っては、最近は日本人が書いた教科書を見かけなくなりました。必要だったら翻訳に頼れ、ということなのでしょう。でも、日本人が自ら対位法を消化する努力を継続していない現れのように思えて、ちょっと情けなくなりさえします。・・・もちろん和声に比べていっそう、「アマチュア」の需要がないから、こういった事態になっているのだと思います。

「響き」が平均率一種類だけではないことが、いまほど日本で認識されたことも過去にはなかったのに、あいもかわらず、私たちは平均率以外の「響き」とはどんなものかに、いえ、平均率とは何かにさえ、興味がない。
「平均率」は、鍵盤楽器のための便法に過ぎないという事実についても、「アマチュア」演奏家は全く念頭に無い。・・・そういう意味では「中全律」であろうが「純正調」だろうが、大差はないのです。
要は、呼び名ではなく、アンサンブルをしていて
「美しく鳴り響くこと」
に対する興味が、きちんともたれていない。

日本のプロオーケストラは、プロだけに本場の情報も速い。ですから、80年代いっぱい特にひどかった「平均率的」演奏は、さすがになくなりました。ですが、音律をきちんと使い分けながら演奏するところまで体得出来ている団体の数は、どれくらいでしょう? さほど多いとは思えません。・・・その他の問題も見据えつつ、また、今日綴ったことも踏まえつつ、あとで取り上げる本の、とくに前半部の「読解」を、自分の夏休み中の課題にしようと思っています。



「アマチュア」だからこそ、もっと「響き」に敏感になることから始めなければ、私たちは、「こんな連中は本当は<プロ>なんて呼ぶのもおこがましい」と悪態はつくことが出来ないのかもしれません。

ホンモノの「プロ」とは何か、その人たちの素晴らしい「オーラ」を受けとめるには何が必要か・・・このことを考えない自称「アマチュア」は、本来は「アマチュア」を称する資格はないのではないか、というのが、今回の話でした。

前回の「えせプロ」批判、今回の「えせアマチュア」批判・・・とくに後者は自分自身にもかかってくる問題であることは充分踏まえつつ・・・をスタートラインにして、最近再読してあらためてその内容に深い反省を迫られた「古楽とは何か」(アーノンクール)をご一緒に読んでいってみませんか?
(ただし、この「古楽とは何か」というのはオリジナルのタイトルの忠実な訳でないことは、訳者が後記で明示している通りです。オリジナルのタイトルを直訳すれば、「音話としての音楽----新しい音楽理解への道」であって、日本で古楽、古楽と呼んでいる音楽やその演奏法について述べた本ではありません。マーケティング上やむを得なかったことはお察ししますが、タイトルをオリジナルから遠いものにしなければ売れない日本の現状が顔をのぞかせているのは悲しいことですね。)

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