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2008年8月11日 (月)

アーノンクールの問題提起(4)記譜法の問題

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第1節は「音楽と人生」
第2節は「歴史的な音楽の解釈のために」
第3節は「音楽の理解と音楽教育」 でした。
第4節は「記譜法の問題」(樋口隆一氏訳)とのタイトルですが、第5節「アーティキュレーション」の前段に当たるものと見なしてよいかと思われますので、気に留めておいてよいトピックだけを採り上げておきましょう。といいますのも、「記譜法」について、古いものから新しいものまで満遍なく目を通した経験がないと、この節を「理解して」読むのは難しそうですし、「理解出来ない」ことに拘泥してしまうと、次節以降を読む時に、頭の中に「?」が点滅したままになる恐れがあるからです。・・・少なくとも、私にとっては、そうした危険度が高い節です。(本来、「記譜法」についての議論を理解するにあたっては、オケゲムの「ミサ・プロラツィオーヌム」の読譜法【キリエの、原典の状態を現代譜に翻訳して「読み方」を教えてくれるのはショパン社の『ミサ曲 ラテン語・教会音楽ハンドブック』40頁、現代譜への翻訳を載せていてくれるのは皆川達夫『合唱音楽の歴史』101頁】などについて、あらかじめ知っておく必要があり、せめて上っ面だけでもそういうサンプルの<発想法>について納得していなければ、アーノンクールの言いたいことは本当には分からずじまいになります。)
この節、最初の部分が私にはよくわかりません。原文の意味を訳者が取り違えていないのだとすれば、最初の2頁のアーノンクールの記述には混乱を感じます。最初の段落と2番目の段落を、どう言う整合性の上で読み取ればいいのか、理解出来ません(後段の訳が、前段を考慮していないところに、理解しにくい理由がひそんでいるのではないかと推測します。あるいは、読み手である私がこの2段を連続して読むことが出来ない低知能者であるのかもしれません)。ただ、アーノンクールが伝えたい主旨は、辛うじて窺えます。 つまるところ、アーノンクールがこの節のスタートに置きたいのは、3段目にやっと現れる具体的な記述なのでしょう。

「例えばモンテヴェルディのオペラの一場面ないしはグスタフ・マーラーのある交響曲のある交響曲のように、本質においても様式においてもまったく異なった音楽が、<同一の>音符で書かれているということは、まことに驚くべきことではなかろうか。」(訳書39頁14〜16行)

・・・こだわるようですが、この訳も私にはしっくりきません。ここは
「例えばモンテヴェルディのオペラの一場面と、グスタフ・マーラーの交響曲のどれかのように、質も様式も全然違う音楽が・・・云々」としたほうが、素直ではないでしょうか? 御権威のある方に対して失礼な申し上げようだとは重々承知の上ですが、この節の最大の読みにくさは、こうした訳の錯綜によってもたらされている気がします。
まあしかし、焦点とすべき記述については、素直に訳書に従って引用しましょう。ドイツ語をろくに読めない人間が文句を言えた筋合いではないでしょうから。



17世紀からこんにちに至るまで記号の形状に変化のない「記譜法」について、アーノンクールは
「図形上の記号はこのように同様であるにもかかわらず、その応用には基本的に二つの異なった原理がある」(訳書40頁冒頭)として、次のようにまとめています。

1.<作品>、すなわち作曲されたものそれ自体が書かれている----したがってその<再現>の詳細に関しては記譜法から知ることは出来ない
2.<実施法>が書かれている。その場合、記譜法は同時に<演奏の指示>である(後略)

・・・さて、アーノンクールの述べたい本筋からは離れますが、先にあげたオケゲムの「ミサ・プロラツィオーヌム」のキリエの原譜は、この1、2いずれにもあてはまりません。
このキリエ、ソプラノとアルト、テノールとバスが、それぞれ同じ楽譜を歌うのですが、アルトはソプラノの、バスはテノールの1.5倍の長さで歌わなければなりません。かつ、テノールはアルトと等価の長さで歌わなければならないため、結果的にバスはソプラノの2.25倍の長さで歌われることになります。それでいて見事にハーモニーを形成する、という、実に不思議な音楽です。もちろん、そのような音楽だと読み解くヒントがあるからこそ今日でも演奏が可能になっているのではありますが、ということは同時に、オケゲムの書法は1でもあり2でもあって、アーノンクールのいう二つの原理が融合している例だ、と見なすべきであることを示してもいると考えられます。
そこをあえて「二つに」分離してみせたのは、明らかに恣意的なことです。

「ミサ・プロラツィオーヌム」のキリエ

ヒリヤード・アンサンブル

このような例があることから、やはり、アーノンクールが、どうやら議論を意図的に「単純化」しようと試みているらしい、と疑ってかかってよさそうです。・・・したがって、本文に現れる「正書法」などの言葉に目くらましされないように気をつけなければなりません。
とはいえ、アーノンクールが導きだそうとしているのは、引き続き、決して「捻曲がった音楽像」ではなく、逆に「捻曲げられてしまった音楽をどう是正すべきか」という原点回帰論です。



興味深い実例として、
第1にアーノンクールはウィーンの人々が現在でもなおヨハン・シュトラウスの正統を、記譜されようのないニュアンスについて受け継ぎ得ていることを
第2にバロック(から古典派にかけての)イタリアオペラのレシタティーヴォが4拍子の記号で書かれているにもかかわらず、拍子通り、あるいは割り振られた音符の音価通りに歌うのではなくて、言葉そのもののリズムにそって「語られ」なければならないこと----一方でフランスのバロックオペラのレシタティーヴォは拍子と音価通りに歌われなければならないことを
第3に通奏低音とは演奏家に和声進行を示すための速記的な書法とでもいうべきものであることを
あげています。

その他、微に入り細にわたるアーティキュレーション記号の話は、楽譜の上の「点」や「曲線(スラー)」に実際に悩んだことのある演奏者でなければ、意味が汲み取りにくいと思われます。実例を伴った記述とはなっていないからです。実例を記さないことが、アーノンクールは本節を次節のための「前書き」として意識しつつ綴ったのではないかと私たちに推測させます(先に述べた通り、次節のタイトルは、そのものずばり「アーティキュレーション」ですから)。

ただ、アーノンクールが訳書で実に21頁をも本節のために割いていること----その量にこそ、アーノンクールのいちばん訴えたいことが現れているのだと受けとめるべきでしょう。

すなわち、本節のキーとしている次の言葉の意味の重さを読者に知って欲しいがために、アーノンクールはひたすら多弁を弄し、ある意味では賢明にも「実例」は最少限に押えて、「記譜法」にひそむ問題の複雑さ・重さを訴えることに必死になっているのです。

「つまるところ楽譜というものは、われわれに個々の音と同様に、音楽作品の流れをも教えてくれるべきものなのである(はずなのに・・・中略)、極めて不正確であり、まさにわれわれに伝えるべきことに限って<厳密>に指示していない(ほどに、作品が違えば違っており、統一された約束事の上に成立しているものなどではない・・・括弧内は私が私の解釈で言葉を補ったものです)」(訳書39頁5〜8行)



本節については、私はいままでよりかなり私の勝手な読みを致しましたことをお詫び致します。
アーノンクールが細々と述べていることは音楽の史料上や、他の人たちの解釈論議にも必ず登場することですから、それらを可能な限り参照した上で読むべきものです。かつ、そこまでの手間ひまを掛けて読む価値がある記述だとも思っております。・・・私自身が手間ひまを少ししか掛けていませんので、敢て、細部に突っ込まないですむような読みですませたことを白状しておきます。

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