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2008年8月16日 (土)

アーノンクールの問題提起(9)古楽器は是か非か

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第1節は「音楽と人生」
第2節は「歴史的な音楽の解釈のために」
第3節は「音楽の理解と音楽教育」
第4節は「記譜法の問題」
第5節は「アーティキュレーション」
第6節は「テンポ」
第7節は「音組織と音程法」
第8節は「音楽と響き」
でした。
『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』(邦題「古楽とは何か(言語としての音楽)」)の音楽に対する全体論は、本第9節から山場を迎えます。 故マンロウや、今では現代音楽にまで活躍の場を広げているホグウッド、一方でモーツァルト以前(モンテヴェルディ以降)にとどまり続けて奮闘しているコープマンらとは見解に相違はあるかもしれませんが、ガーディナーやノリントンならば、あるいはアーノンクールに近い視点を持っているかもしれません(あるいはホグウッドもアーノンクールの思考に近いものの延長線上に位置しているかもしれません)。そんな類推からも、第9節以降が重要なキーになる、と心して読まなければならないかな、と思っております。
これは、たった三十年程度前の実情だったことです(本節でのアーノンクールの表明)。
「いわゆる古楽器を手にとるやいなや、その人はそれだけで<純正主義者>とか<歴史主義者>、様式的禁欲者、あるいはまた、どの音符の前でも----直感力の不足から----絶え間なく考え続ける人間、などと言われるのである。「作品に忠実に」のような無邪気な言葉は、否定的な調子を内に秘めており(注:ここの言い方は原文のせいなのか訳のためなのか、誰が誰に対して「否定的」なのかが不明確ですけれど、もちろん「作品に忠実」主義者が彼らの立場から見た時に「不忠実主義」にみえる相手に対して否定的だったということです)、そうした考えを代表する人たちは、心を込めた演奏や、またしばしば巧みな演奏さえも、はなから認めてくれないのだ。」(訳書114頁7〜11行)

私が当時、その演奏が好きだったカール・ベームも、とくに直接的にアーノンクールを否定したひとりでした。そのこと自体は私は知りませんでしたが、私もアーノンクールという名前を聞くだけで拒絶反応を示していました。私的な感慨を綴っても仕方ないのですが、ここでアーノンクールが言っていることが私という個人レベルでもひとつの傍証となるので、記しておきます。(アーノンクールという名前への抵抗感を払拭したのは、33年前に聴いた、彼の「マタイ受難曲」の最初の録音の<美しさ>でしたから、少しは早めでしたかね。)

アーノンクール的な演奏観・価値観が上記のような反発に会った原因を、彼は妥当にも、第1次大戦後のドイツのユーゲント運動に見出しています(ドイツ近・現代史には必ず出て来ます・・・これが一方でナチ運動がドイツ社会に普及する温床ともなったこともまた皮肉なのですが。かつ、ユーゲント運動の影響の名残が、日本の音楽教育からいまだにリコーダーを用いて「唱歌」を吹くことが排除出来ないところに見られる、と言ったら、意外に思われるでしょうか?)。要するに、ユーゲント運動のなかで<素人>がリコーダーすなわちブロックフレーテ、ガンバ、チェンバロなどを再発見したことが「専門家」の軽侮を招いたわけです(この段、本文に素直ではなくて、私の主観が入っています。妥当性を欠いていれば私に責任があります。ただ、このことに関連しての記述が、このあと本文では延々と続きますし、そこにいちいち触れることは出来ませんから、それを私の「読み」の言葉に置き換えてみた次第です。正しい理解のためには書籍そのものをお読み下さい)。



「近年においては、たしかにかつての偏見は排され、差別的待遇を受けることへの心配や、商売心のような音楽以外の理由が、この選択に影響を与えることはもはやないだろう。(中略)しかしながらそのような興味を持続させて自分の職業にまでするような音楽家はいない。そうした人を私はむしろ歴史学者と呼びたい(注:「学者」との提携に夢中になりがちな、「学者」の言い分を鵜呑みにする<演奏家>への痛烈な皮肉ですね)。(中略)われわれは今日、いまだかつてなかったほどの規模のレパートリーに恵まれている。(中略)音楽家は、あらゆる作品を、それに最もふさわしいと思われる楽器で演奏したり、理想的と思われる響きの組み合わせを選択したりする権利を有している。(中略)(補:それにより選択される楽器について、演奏家は)あらゆる楽器、さらにはその発展のあらゆる段階は、それぞれ長所と短所を有しており、音楽家と楽器製造者はそのことを完全に自覚していたということを、確認するに違いない。」(訳書118頁9行〜119頁13行)

「このことによって、本章のタイトルとして掲げた二つの方向を持った問いに対して、確定的に答えることができる。そのとおり----なぜなら、議論の対象となる楽器のすべてがいずれにせよ古い楽器だから。あるいは、そうではない----なぜなら、楽器は百年以上このかたついに完全な状態に到達したために、当然ながらもはや変えられる必要がないから。」(訳書120頁5〜8行)

「私にとって、発展性がありうるのは最初の問いのみである。なぜなら、楽器の発展が止まったのは完全に到達したからではなく----そのようなものは恐ろしく非人間的なものになるだろう----今の時代に、ヨーロッパ音楽、いやそもそもヨーロッパ文化の自明性そのものが揺らいできたからなのである。/現代の芸術創作がもはや芸術的需要と一致しなくなり、われわれが過去の音楽を高慢にも高みから見下ろすことがなくなってから(中略)、われわれは初めて過去の音楽を正当に評価することができるようになったのである。しかしながらこうした判断はとりもなおさず(中略)われわれがひとつの時代の音楽を、他の時代の音楽よりもよいものと見なすような意味での<価値判断>であることを放棄してしまったことにほかならない。」(訳書同頁9〜16行)
・・・これについては奇跡的に、日本人がヨーロッパの危機をしっかり読み取った著書、岡田暁生「西洋音楽史」が存在します。

「責任を自覚した音楽家は、あらゆる機会をとらえて最も重要な名匠による本物の楽器を幾度となく演奏したり聴いたりすべきであり、コピー楽器(中略)を、<本物に即して>評価すべきなのである。もしわれわれの耳が再び、繊細な響きやほんとうの品質に対して鋭敏になるならば、偽の<オリジナル楽器>の玩具のような響きと、本物(とその良質な模造楽器)の豊かな響きとを区別することはおそらく可能だろう。聴衆もまたもはや、安っぽい悪い響きを、華麗な<オリジナル・バロックの>響きだと言って騙されることもなくなるだろう。」(訳書124頁9〜15行)



問題は、では、古楽器を選択する「ことのある」演奏家が、常に古楽器を選択することが是なのかどうか、というところにあり、私たちはこれについて、現在「古楽奏法を取り入れた」モーツァルトだのベートーヴェンだのといったものに、まだ騙されている状況にあります。
これは学問上見直されだしている
「以前の演奏がすべて19世紀以降歪曲されて伝承されて来た、というのは偽りだ」
という事実からしても、また、機械的技術の改善のおかげで再び良い音質で聴けるようになって来た1940年頃までの演奏を聴きなおしてみることによって、伝統はとくに外国人である私たちの思い込んでいるよりもずっと長く、正統に伝承されていることが確認出来ますから、アーノンクールもまたそのことを正しく認識しているかどうかを確認しておかなければなりません。

ふたつの記述から、これについては安心であることが確認出来ます。

「古楽器を用いた解釈は----同様に当然ながらふつうの楽器を用いた解釈も----歴史性を思考するものでありうるが、それは楽器のゆえではなく、問題となる音楽家の考え方のゆえなのである。決定の基準となりうるのはただ、それぞれの解釈者にとってどの利点とどの欠点に重きをおくかなのである。」(訳書125頁12〜15行)

「私はここで<歴史的>演奏や、過去の時代の演奏の復元を無条件に指示するわけではない。歴史の輪を逆に回すことは出来ないのである。(中略)私は、プレトリウスのオーケストラがリヒャルト・シュトラウスを演奏するには適さないと考えるのと同じように、リヒャルト・シュトラウスのオーケストラはモンテヴェルディを演奏するには不適切だと考えているのである。」(訳書126頁10〜17行)



「古楽器」とはどんなものだったかの図版自体は手に入りやすくなりました。ではどういう音がしたのか、については。マンロウの残した百科事典的な音源が復刻販売されだしました。
「中世・ルネサンスの楽器」EMI QIAG-50001-02 2枚組で税込2,000円です。参考資料として座右に置かれるには素敵なCDです。
また、現物に触るのはなかなか難しいのですが、各楽器の実際の大きさを実感することの出来る映像も決して多くありません。私が、「古楽演奏」も頻繁に携わる専門のかたにお勧め頂いたのは、ガーディナー指揮によるモンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」のDVDです(日本語盤はありませんが、オリジナル盤で充分です・・・目的は視覚的なことですから)。バロックオペラの映像はたかだか3年前を思い出しても意外なほど、今年に入って急増しています。ですが、オペラ映像では楽器はあまり映し出されません。当然のことですが。(「オルフェオ」の映像には、早い頃から、例外的に楽器もよく映し出してくれるものもありました。)

ともあれ、アーノンクールは26年前の時点で、既に自分が単純に「古楽主義者」ではないことを表明しています。これを鏡とすると、こんにち、本来モダンオケである団体が「古楽奏法」を標榜することがいかに滑稽か、も理解し得るでしょう。

次節は「スタジオにおけるオリジナルな音響状況の復元」というものですが・・・非常に大切な話である一方、さまざまなホール経験を経ていないと、非常に理解しにくいという、困難な話題でもあります。かつ、アーノンクールは「この題名にある名詞のすべてが、私のなかの感情を刺激し、弁解や説明、反対意見を述べるように誘惑している。」と冒頭から表明しているくらいに主情的になりやすいものでもあります。・・・さて、どうとりくもうかなあ。

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