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2008年8月 1日 (金)

器(うつわ)・中身・シェフ

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「大器ハ晩成ス」
とは『老子』の中の最も有名な句ですが、これは「オオモノになるやつは成長が遅いんだよな」という慰め的な意味で使われることが多かったこと、しかしながら本来の意味はそうではないこと、は、出版事情が良くなり、原典と優れた注釈を読みやすくなったこんにちでは充分承知をされていることではないかと思います。

で、優れた注釈では更に難しい説明がなされているのですけれど、別に単純に文字通り、
「大きな器(を作るに)は、出来上がるのにそれだけ長い時間(をかけてやっと、というくらい)がかかる」
で構わないんでしょうね。

でもって、せっかく大きな器が出来上がっても、それに何が盛られるのか、盛り付けは誰がどのようになすのか、によって、器の価値はよくもなり悪くもなる。料理に喩えれば素材としての中身、それを活かすシェフ、というところなのでしょうか。



先日から、オーケストラ、という器について思い巡らしています。
でもって、こないだは自分の例を綴ってみました

あるいは、今のお仲間たちと昔の仲間の違い、ということも、さまざまに感じつづけていました。

優しさ、という面では、今のお仲間は、私には代え難い支えを下さっています。
これも、「大きな器」の、ひとつのありかただ、とも信じております。
ですので、せっかくですから、「大きな器」であることが、もっと活き活きと前に出ていい。

同じシェフが、違う器で同じ中身を盛り付けた例を示したのが、こないだの記事です。
どこに決定的な違いがあるか、といえば、実は、別に「上手いほうがより熱心に練習していたり、練習するために充分時間の取れるご身分(学生)だったり」したところには、無いのです。

いちばんの決め手は、<熱心さと客観的な耳をいかに併せ持っているか>というあたりにあるのではないか、と思います。

パート譜を手にしたら、性急に楽器を手にして音に出してみることしか考えられずにいたりは、しませんか?

練習中に失敗したら「ごめんなさい」とつい口に出してしまって、その結果音楽を中断させていませんか?

いずれも、前に記したとおり、もう150年以上も前にシューマンが戒めていたことです。

「この音楽は何を歌わんとしているのか?」
・・・そのことをまず、考えてみていますか? 考えているとして、それは、実はただ個人だけの思い込みに過ぎなかったりはしませんか?
・・・私自身は、「私だけの思い込み」だ、ということを何べんも思い知らされてきましたし、懲りているつもりでいても、
「あ、また今度もか!」
なんて具合で、同じ愚を繰り返しています。
だから、今のお仲間にも、同じ失敗をさせてしまっているのでしょうか?
つまり、器は本来、もう充分に大きいのかも知れない。ですが、中身を作り上げるべき素材がよろしくない。
同じシェフの調理例が器であれほどにも出来が違うとなると、器の中身である、それぞれの「質」の違いの方がいかに重要か、を感じ取らなければなりません。



ベルリンフィル、という器があります。
大きさだけでなく、質も最上の器です。そんなことは先刻承知だ、と言われるかも知れません。
そのベルリンフィルの人たちが第2次世界大戦前後に味わったであろう苦悩を、ここのところずっと注目してみています。

下馬評で、案外「聴き逃されているもんだな」と、ちょっと情けなくなったものを、いくつか見かけました。

ベルリンフィルも、指揮者が違うと、出来が違うなあ・・・という評論。

お名前の売れた評論家さんの批評でも、「出来」というもので何を表現したいのか、私にはさっぱりわからん、というものが、けっこうあります。いちばん気に食わなかったのは、Y氏の
「クリュイタンスが振ったベートーヴェンの7番はつまらない」
なる、傲慢な評でした。
今回のサンプルには載せませんが、この7番の演奏は、数あるもののなかでも音の美しさでは群を抜くものです。激しい起伏で演奏されがちなベートーヴェンの7番が、クリュイタンスの「盛り付け」のように静謐さまで感じさせるというのでは、何故いけないのか?
まあしかし、味の好き嫌いは天性の感覚ですから、仕方ないとしましょう。
(ちなみに、ベルリンフィルにとって初めてのベートーヴェンの交響曲全集を、このオーケストラが企てたとき、クリュイタンスを指揮者として選んだのはベルリンフィルの人たち自身です。)

味付けの問題は、さておきましょう。

ベルリンフィルと言う素材の素晴らしさは、シェフの味付け如何に関わらず、その本性は絶対に失わなかった(70年代の特に後半からは、世代交代にともない変質していくものの・・・)ところにあるのであって、このオーケストラの当時の演奏に評論を加えるならば、まず、そのことを前提に置かなければならないのです。

フルトヴェングラーが振っても、カラヤンが振っても、クリュイタンスや他の指揮者が振っても、根本的なところで「同じ音、同じ響き」を保っていたのが、1960年代までのベルリンフィルです。(フリッチャイやケンペの指揮による、ほぼ同時期に録音されたエロイカも、「味付け」は対象的ながら、やはり「素材の同一性」を明確にしてくれる優れたサンプルですので、機会があったらお聴き比べなさってみて下さい。)

これから聴いていただく二人の指揮者の、エピソードとしての対立関係の話も面白いのですが、そのことは措いて・・・フルトヴェングラーとカラヤンの振った、同じ作品の例で、「素材不変」の様子をお聴き頂きましょう。

ブラームス:交響曲第2番第3楽章

フルトヴェングラー 1952年
Brrms2-3mono.mp3

カラヤン 1960年
Karajan-Brms2-3mono.mp3

・・・お分かり頂けるでしょうか?

フルトヴェングラーはモノラルのライヴなのに対してカラヤンの方は元がステレオですので、モノラル化したものの状態がいい録音です。そのことで耳がだまされないようにご注意頂きたい、ということ、また、フルトヴェングラーにあれほど敵対視され、かつは後年守銭奴的な悪い意味合いで「帝王」と渾名されたカラヤンではありますが、1960年のこの演奏では味付けを甘めにしているものの、フルトヴェングラーの特質を控えめに受け継いでいることもはっきり聞き取れる、ということ、の2点だけ申し上げて、あとはとりあえず、お聴き頂くかたの<耳>にお委ねしたいと思います。

それぞれの指揮者についての評価は、一旦忘れてくださることをも、併せて祈っておかなければならないかな?

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コメント

Kenさん、こんにちは。

シューマンの<ユーゲントアルバム>、恥ずかしながら初めて知りました。

いいこと言っていますねえ。全部、なるほど、と深く納得してしまいますが、全部写しても仕方がないから、

印象に特に残ったの言葉を挙げますと、


>きく耳をつくりあげることが一番大切である。

>やさしい曲を立派に美しく演奏するように努力すること。これは、むずかしいものを平凡に演奏するよりもずっといいことだ。

>(前略)技巧はより高い目標に使うときだけ価値がある。

>自分の楽器を愛しなさい。だが、自分の楽器が唯一無比のものと考えるのは愚かなことだ。ほかにも同じように美しい楽器があることを忘れてはならない

特別、変わったことを言っているのではない。しかし、ロベルト・シューマンの言葉だけに千金の重みがある。

この他に、「謙虚であれ」という言葉も感動しました。

素晴らしい本を教えて下さって有難うございました。

投稿: JIRO | 2008年8月 2日 (土) 13時06分

ユーゲントアルバムに載せられたこの文章の一部は、音楽之友社で最近出たシューマンの伝記にも紹介されています。・・・一部の紹介では、しかし、シューマンの本当の狙いは伝わらないですね。かといって、全文を読むと、当時ならではの価値観もあって(たとえばイタリアオペラの軽視など)、そうしたフィルターを除きながら読む努力も必要になります。単純でありながら、読み解いたり体得したりするのは、意外なほどむずかしい文章です。

投稿: ken | 2008年8月 2日 (土) 13時48分

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