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2008年8月 8日 (金)

アーノンクールの問題提起(1)音楽と人生

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昨日の記事を受けて、アーノンクールの著書の一部を読んでいきたいと思います。
先に申し上げますと、私はアーノンクールが率いて行なった録音の「すべて」のファンではありません。感覚的に「好きな」ものもあれば「嫌いな」ものもあるし、「素晴らしい」と感じるものもれば「とても受け入れられない」と拒絶反応を起こすものもあります。
でありながら、なぜアーノンクールの著書を読んでいこうか、と考えたのか。
彼の『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』(邦題は「古楽とは何か(言語としての音楽)」ですが、昨日申し上げました通り、これは訳者が・・・そのお言葉をそのまま借りれば「日本の読者の理解を得ることを優先し」てつけたもので、私も最初はそちらにつられて購入し、読んだのでしたが、再読するとこの邦題は内容を誤解させる原因になっていて望ましくないと思われましたので、訳者があとがきに記していらっしゃる原題の邦訳の方を採用します)が、最近綴って来た私という一素人の疑念に対し、さらに根本的な問いをいくつも投げかけてくれていることに気づいたからです。



『音話としての音楽----新しい音楽理解への道』は、

第1章 音楽と解釈への基本的考察
第2章 楽器と言葉
第3章 ヨーロッパのバロック音楽とモーツァルト

の3章から成りますが、第2章はアーノンクールの記述しきっていない近現代オーケストラの諸問題と併せてみていくべきであり、第3章は音楽史および資料を扱う上での基礎的な議論がなされているという意味では重要ですが各論に属しますので、今回は第1章を読んでいきましょう。全11節を、1回に1節ずつ読んでみます。
なお、本書の詳細をお知りになりたい場合は、画面左下の「お勧め書籍」をクリックしてみて下さい。



第1節 音楽と人生(樋口隆一氏 訳)

この節では最初と中間の文が重要です。

最初の文。
「中世からフランス革命に至るまで、音楽は文化や人生の大黒柱の一つだった。音楽を理解することは一般教養に属していたのである。今日では音楽は、オペラや演奏会に行くことで虚しい夕べを飾り、公式の祝祭を形成し、あるいはまたラジオによって家庭での静寂の淋しさを追い払ったり活気づけたりするための、単なる装飾と化してしまっている。したがって今日われわれは、量的にはかつてよりはるかに多くの音楽を、それもまさにほとんど切れ目無しに所有していながら、音楽は人生にはほとんど何の意味ももたず、ちっぽけな装飾にすぎないという、矛盾に満ちた状況が生じたのである。」(訳書8頁Ⅰ〜7行)

中間の文。
「したがってわれわれは音楽の変化させる力をなおも信じながら、現代に一般的な精神的状況が、音楽をその中心的な位置から周辺へと、つまり感動的なものからきれいなものへと追いやったことを見なければならないとするならば、われわれは今日ほとんど出口のない状況にあるのである。しかしそんなことで諦めることはできない。(後略)」(訳書10頁15〜18行目)



省略した部分は、この先アーノンクールが具体的に事例を挙げたり比喩を用いながら論を進めていくことどもで埋められています。中には第2章以降に属することもありますが、より具体的にご自身なりの思索を重ねながら読むためには、書籍自体を手にとって頂くしかないかと思います。


で、まず、最初の文。
これに続いてアーノンクールが述べていることどもは比喩的ですから、具体的な事例を思い浮かべた方が私たちにとっては彼の本当に言わんとするところが理解しやすいのではないかと感じます。
また、(西欧)音楽史的な事実についても、本書の性格上極端に切り詰められているので、その点には注意が必要です。
「中世からフランス革命に至るまで、音楽は文化や人生の大黒柱の一つだった」
という言葉は、アーノンクールが<わざと>歴史を単純化したものでして、「人生の大黒柱」としての音楽とは、革命前には厳然と存在した、人々の社会的階層によって、それぞれ質の異なるものだったことには留意しておかなければなりません。
すなわち、
・王族貴族や有力商人にとっては政治とも密接に関わっていた「オペラ」や「宮廷舞曲」が
・信仰という権威とそれを敬虔に信じる平均的富裕層にとっては「聖歌」やそれに関連する音楽(「オペラ」に対応するものとしての「オラトリオ(受難曲と呼ばれるものを含む)」)が
それぞれに重なり合いながらも、一応はある程度の境界線をもって享受されていました。
難しいのはいわゆる「一般庶民(これは実は注意を要する言葉なのですが、私もはしょります)」で、ごく普通の生活を営んでいた人々には音楽がどの程度の「大黒柱」だったか、は、必ずしも明らかではありません。ただし、結婚式などの特別な行事、自分たちの「領主」の催す特別な行事(このときは領主の城の庭に入ることが許されていました)では、少なくとも舞曲を大いに楽しんだことは間違いありませんし、格の低い聖職者が大道芸人の手伝いを得て行なった説法(キリスト教では説法、だなんて言わないか。説教、がホントですよね)の際に奏でられた音楽・・・それらは宗教改革に伴って賛美歌に転じたものもあったでしょうし、素朴な音楽劇も庶民を引き寄せたことは記録にも見られるようです・・・が、間違いなく心の糧にはなっていたことでしょう。

事態がフランス革命前後に急変したのはアーノンクールが述べている通りかと思います。
このことを端的にあらわす音楽史上の現象は、いくつかあります。
まず、「独奏曲」の受けとめられかたの変化。
モーツァルトと、・・・離れますけれど、リストの事例を比較するだけで充分でしょう。
モーツァルトは、「王侯貴族層」をターゲットにして「自作中心」の演奏で食いつないでいました。
リストの演奏会のターゲットは、「王侯貴族」である必要はありませんでした。たしかに、まだある程度「お金持ち」でなければリストの演奏会に出掛けることは出来なかったでしょう。しかしながら、リストにはもう一つ、ピアノを購入出来る程度の「準お金持ち」までをターゲットに、折から経費がダウンして数を増やせるようになった出版と言う媒体を通し、<流行のオペラや管弦楽曲や歌曲>の編曲を普及させる、という第二の手段をも持ち合わせることが可能でした。また、そうした事情の変化には、同時に「社会階層の崩落」の兆しを見ることもできます。

そこからまた、アーノンクールの話はいきなり20世紀へと跳んでいますが、これは縮約の仕方としては非常に賢明ではないかと思います。途中の過程をいちいちあげるのは、煩雑なだけで一利もないからです。

音楽の享受のされかたがアーノンクールの言う通りであることを、単純に是認するかどうかは、読み手の価値観によって違ってくるかと思いますので、まずひとつには、ドイツの歴史的背景を日本人が二人の指揮者を主人公に見事にまとめた『カラヤンとフルトヴェングラー』(中川右介著、幻冬舎新書022)をお読み下さることをお勧めしておきましょう。
もう一つの事例としては・・・たとえば、通常の私たちは、バイロイトと言う祭典の場でワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』全編を見聞きするゆとりなどとても持ち合わせない(これは事例としてはあまりに「庶民」には縁遠すぎるかもしれませんが)ことをあげてもいいかと思います。日本人なら、『忠臣蔵』の通し上演を見るのが夢のまた夢、であるようなものです。日本においては、ラジオ、というよりはCDで、その断片に耳を傾けるくらいのゆとりなら辛うじてもつことが出来、全編をかけっぱなしとなると聞き流すしかない、ということになるのでしょうかね。
フランス革命、というよりは、産業革命後の経済構造・生産体制の変化が時間の観念を大きく変えてしまったために、数日に渡る祭典(芸能)を観覧するチャンスは世界的に失われつつあることが、姫野翠『芸能の人類学』(春秋社 1989)などでも報じられています。姫野氏のあげている代表的な事例は、南インドの幾つかの事例、とりわけクリシュナーッタムという神話劇で、これは本来8日間かけて演じられる祭祀劇だったものだったのが、最近は時間の短縮(なんと、「4時間で済ませてくれ」等々!)を要請されることが多くなった、すなわち娯楽劇と化してしまった、というものです。日本でも地方ではまだ3日以上かけて行なわれる婚礼儀式がわずかに現存していますが、風前の灯火であることは、御承知の通りです。

すなわち・・・長くなってしまいましたが・・・アーノンクールは、音楽をめぐる時空がこの2百年で急激に変化してしまったこと、それが音楽というものの人生への意味付けを(これは音楽を主題にした書籍だから言及されていないのだと思いますが)、他の人生の節目となるべき様々な慣習と同様、極めて「断片的」・「非社会的」なものに変質してしまったことを、論の最初に明示しているわけです。
この「明示」なしに、この先の彼の論は進行させることが出来ない、というわけです。



以上を了解すれば、中間の文については、とくに補足説明は必要ないでしょう。
ただし、次の表現には、彼の一種の「思い」が籠っていますので、気に留めておかなければなりません。
「音楽をその中心的な位置から周辺へと、つまり感動的なものからきれいなものへと追いやった」私たちは、それ故にこそ、自己責任で音楽の復権を図らなければならない、というのが主たる意図ですが、
「感動的なものからきれいなものへ」
というのは、たとえばアーノンクール自身が逆を演じてカール・ベームから非常に嫌われたエピソードを思い起こさせます。すなわち、ベームは、アーノンクールと彼の仲間たちが演奏するモーツァルトを「非常に汚い」と非難し続けました。
私的には、モーツァルト演奏についてのアーノンクールの解釈【スタンス】は、交響曲においては強烈すぎて、ちょっと受け入れにくく感じます。一方で、劇音楽は非常に活き活きしますので、いままで省みられることの少なかった十代のモーツァルトのオペラ作品でも非常に楽しめるものに変貌し、こちらは大変に好きです。・・・私個人の感覚にすぎないのですが、こういう印象を一聴衆に与えることからも、「感動的なものからきれいなもの」という言葉には、アーノンクールの痛切且つ強烈なアピール・・・すなわち「アダージョ・カラヤン」のような類いのCD(あるいは「のだめ」から抜粋したオムニバス盤的なもの)は決して音楽本来の「感動」を私たちにもたらしてはくれないのだ、という<訴え>があり、表面を通り過ぎていくだけで心に救いを与えない響きにしか過ぎなくなった音楽への皮肉を、こちらとしては感じ取っておくべきなのでしょう。

次節は「歴史的な音楽の解釈のために」と銘打たれています。日を改め、今回の第1節を踏まえて読んでみましょう。

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著者は、モーツァルトと言えばこの人(笑)海老 澤敏氏。 出版は、川崎市生涯学習財団かわさき市民アカデミー出版部 から。 当ブログは過去の経緯からしても、モーツァルトとくるとピピピと反応するタチ。 CATEGORYをみていただければ一発ですが、「W.A.Mozart」(43)← この本も、内容が海老氏のエッセイや講演をまとめたもので、重複が間違... [続きを読む]

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