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2008年8月17日 (日)

アーノンクールの問題提起(10)スタジオにおけるオリジナルな音響状況の復元

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第1節は「音楽と人生」
第2節は「歴史的な音楽の解釈のために」
第3節は「音楽の理解と音楽教育」
第4節は「記譜法の問題」
第5節は「アーティキュレーション」
第6節は「テンポ」
第7節は「音組織と音程法」
第8節は「音楽と響き」
第9節は「古楽器は是か非か」
でした。
冒頭で既に 「この題名にある名詞のすべてが、私のなかの感情を刺激し、弁解や説明、反対意見を述べるように誘惑している。」(訳書127頁1〜2行) と言明されていることから察せられる通り、アーノンクールの本節での言動は、かなり錯綜しています。一見したところたしかに、彼は感情に任せてこの節を書き上げたかのようです。記述は秩序立てられたものではありません。 ・・・ですが、それはとりもなおさず、音響の問題を形作る要素が非常に複合的であるが故のことなのでして、それを順序立てて述べること自体に無理があるからなのではなかろうかと思われます。要素のひとつひとつについて彼が述べていることは、決して感情論ではなく、かなり理性的な見地からまとめられたものになっているのです。ただし、それぞれの要素のどれが最も優先されるべきである、というのではない。それぞれが、同じ重さで重要である。このことが、本節をどうまとめるべきか、アーノンクールを悩ませたに違いありません。

アーノンクールの採り上げた要素について、ここでは、出来るだけ、彼がなしえなかった「順序付け」を試みてみようと思います。ただし、そのことによって、アーノンクールが訴えたいことの<キモ>である、「どの要素も同じ重さで大切なのだ」という点がボケてしまう面も生じるか、と、懸念しております。

なお、引用文は、携帯からは分かりませんが、PC上での見やすさを考慮し、引用した部分ごとに「青」と「緑」で色分けしました。



「私は、楽器編成の拡大が、空間が大きくなったことだけのために行なわれたとは思っていない。それは音楽的な強弱法が、作品の本質的な部分となったときに、絶えざる編成の拡大を求めたからなのである。より大きな音量を求め始めると、さらにセンセーションを与えるためにもっと大きな音を出さざるをえなくなり、ついには苦痛の限界にまで至るのである。」(訳書133頁13〜16行)

「残念なことに、今日の演奏家は誰でも、ある特定の音楽のためにかなり理想的に響くホールでたびたび演奏せざるを得ない傾向にある。(中略)その結果は、音楽生活には致命的なものとなろう。」(訳書134頁7〜9行)

「われわれは芸術作品を、もはや全体として、多層的な切り口において理解しようとはしない。われわれにとって価値があるのはもはや<ただひとつ>、完全無欠の美しさというひとつの構成要素に過ぎないのだ。」(訳書146頁8〜9行)

「十七・十八世紀の音楽と音楽演奏にとって空間が本質的な役割を果たしていたことを考えるならば、オーケストラの配置、すなわち空間における楽器の配置が、バロック音楽にとって----いやモーツァルトやハイドンの多くの作品にとってさえ----どれだけ重要であるか分かるだろう。今日の交響楽団で用いられているような配置では、それ以上のこと(注:交響楽団の「固定された配置」で実現出来る音響構築)は出来ないのである。(注:バロックでは作品の求めるところに従って配置を換えるのが普通だった。)」(訳書139頁16〜140頁1行)

「例えば十六世紀のフランドル楽派の作曲家たちは、最終的な音響形態をまったく未決定のままにしており、ひとつの作品が歌われようと楽器で演奏されようと、それはまったく本質的ではない。このことは(その作品を非の打ち所なく表現しようとする限り)演奏者の完全な自由を意味しているのだろうか、あるいはまた無限なほど数多く存在する<正当な>可能性の間に、それらを正しくないことと区別させるような共通項が存在するのだろうか。」(訳書128頁7〜11行)

「私見によれば、正しいと思われる解決は常に数多く存在するが----そしてはっきり分かっていなければならないのだが----まったく間違った解決というのもあるのである。」(訳書129頁5〜6行)

「音楽家にとって常に問題となりうるのはただ、『どうしたら私は最も良く表現することができるだろうか』という問いかけにすぎない。」(訳書130頁2〜3行)

「音響状況の問題において、楽器が本当に第一の位置を占めているかどうかは、まったく確かではない。私見によればむしろ、十七・十八世紀の音楽においては、音楽的な文体や、一連の音程法の方が、楽器よりもはるかに重要なのである。なぜなら、音楽の本質とより直接関係するのは、まさにその点だからである。」(訳書130頁8〜11行)

「例えばもしある作曲家が、速い十六分音符のアルペッジョを書き、それがその空間のなかで、ひとつの震えるような和音のなかに融け合うように意図したとする。そしてもしそれを今日の演奏家が、速い音符を厳密かつ明晰に表現しようとすれば、彼はかれらの意味を誤解し、作品を買えてしまったことになる----しかしそれは彼のファンタジーのゆえではなく、無知のためなのである。」(訳書136頁18〜137頁4行)

「もし人々が、例えばあるベートーヴェンの交響曲を上演する際に、通常のオーケストラによるものを『現代楽器による』上演とし、ベートーヴェンの時代の楽器による上演の場合を、歴史的楽器によると言うならば、私には滑稽に見える。どちらも歴史的な響きのイメージを用いているのである。1850年の楽器を用いても、1820年の楽器を用いても、原理的にはいかなる相違もない。片方では十九世紀後半の響きを楽しみ、もう片方では十九世紀前半の響きを楽しんでいるのである。作品と、その今日における理解にとってどちらがよりふさわしいか、<そのことについては>いまだかつて語られたことがないのである。」(訳書144頁7〜13行)

「まさにわれわれが演奏する音楽においては、空間が響きの印象の本質的な部分をもたらすのであり、われわれは録音であるとなかろうと、問題となる種類の音楽には理想的であるような空間で演奏すれば、音楽家としてひたすら気持ちが良い(中略)つまり、そのスタジオがスタジオではなく、理想的な音楽空間である場合のみ、音楽家の側からはオリジナルな音響状況が作り出される(後略)」(訳書141頁5〜9行)

「今日のように表現の厳密な時代にあってなお、人々がいかなる客観的な根拠もなく、さまざまな調性にさまざまな気分内容を割り当てねばならないと考えていることに、かねてから私は驚きを禁じ得なかった。つまり、(注:現在一般化している十二等分平均率においては)移調されたハ長調とイ短調以外には、まさにいかなる調性も存在しないからである。」(訳書132頁2〜5行)

「誤解に基づいた聴習慣を廃し、ヨーロッパ音楽の多様性を再び総体として体験することは可能だと思う。(中略)人はしばしば、時の審判について語る。こうした時の審判などというものは、それが問われた時のみ語ることができるものだ(注:すなわち、実際には、語り得ることはまずありえない)。(中略)われわれとしては、新しい聴衆に希望をつなぐほかはない。もしかして再び、新しい音楽も古い音楽も聴く用意があり、きっと新しい音楽美学をも容認するような新しい聴衆に。」(訳書146頁12〜147頁15行)



主に<具体例>の記載がある箇所を大幅に略してしまいましたし、頁順の入り組み具合を見て頂ければ、私がかなりアーノンクールの述べた順番をひっくり返しまくったかは一目瞭然ですが、それでも今回は途中でコメントを挟まず、アーノンクールだけにひたすら語ってもらってみました。
私の入替が妥当かどうかは訳書で本節全文を読んで頂くしかありませんし、その際、私の入替が本当に本節の読解に役立つかどうか、むしろ読解を妨げるのではないか、も問われます。そのあたりはご判断をお委ねします。
いよいよ第1章最終の第11節「解釈の優先度」となります。

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