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2008年7月27日 (日)

私たちは「多面体」である

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私の所属します東京ムジークフローの第45回定期演奏会の演奏をアップしました。忌憚なくご批評頂き、少しでもよい演奏をするヒントを頂ければ幸いに存じます。

昨日の延長として綴ります。ただ、主題の素材を非常に単純化して綴りますので、お分かりになりにくい点があるかもしれません。あらかじめご容赦を乞います。

ものを「作り出した」人は、それを自らの意志に関わらず公表したりされたりした場合には、「外からの目」に「評価」を受けることになります。
ですが、では、「作り出した」本人だけが「作り出した」対象についての変化に富んだ「評価」を甘んじて受けなければならないのでしょうか?
「評価」する方も、人なのです。ということは、「作り出された」ものを外からの目で「評価」する場合には、その「評価」とは、「作り出した」人に対する賞賛や批判を、「作り出されたもの」に対する付加価値として、新たに「作り出した」人、になるのです。

すなわち、まず、出発点となる作り手Aさんについて
・「作り出す」->「公表する」->「評価を受ける」->「評価に一喜一憂する」
という流れがあるとすると、「公表」以降については、享受者であるBさんについて
・「公表された<作り出されたもの>を受けとめる」->「それを評価する」->「評価を公表する」
  ->「作り手を一喜一憂させる」
なる、別の創造行為が発生し、Bさんはそれに対して「作り手」としての責任を負うことになる。

私たちは、往々にして、こうした「創造」の循環に対し非自覚的であり、自己責任を無意識に回避しがちです。



いま、音楽史を追いかけてみていて、そろそろヨーロッパの「ルネサンス期と呼ばれた時代」を抜け出して他の地域に目を向けたいのですが、まだ数回かかりそうです。
打ち明けますと、次の素材としてあたっているのはイギリス(この名称は厳密さに欠けるのですが、そこに深入りはせずにおきます)とフランスなのですが、調べている過程で、初めてこんなものを耳にしました。

・ヘンリー8世作「コンソート第19番」及びジョン・ボールドウィン「カッコウ」
consort_xix_henry_viii_coockow_j.Baldwine
 ブリュッヘン/ブッケ/ハウヴェ deutsche harmonia mundi BVCD-38184
 (録音上区分されていないので一体で掲載しました。)

ヘンリー8世といえば、カトリックに反発してイギリス国教会を樹立し、妻を6人交換し(うち1人は生前死別、2人離婚、2人は処刑)、「ユートピア」の著者として、また人格者としても著名だったトマス・モアをも刑死させた、アクの強い人物として有名ですが、彼が音楽にも造詣が深かったことも知る人ぞ知るです。・・・しかし、彼が実際どんな音楽を創作していたのか、は、私は耳にしたことがありませんでした。
初めて聞いたその響きが、あまりに美しいので、呆然としてしまった次第です。

権力者であったが故に勝手放題も許され、人のいのちも軽んじることが出来た、という点では、特例的な存在として考える以外ありませんが、ヘンリー8世の作った<純な>調べを聴く時、つくづく、
「人間というのは、本来、多面体だ」
と思わざるを得ませんでした。



人間であるかぎり、私たちの一人一人が多面体です。
ですが、まず、自分自身がそのような多面体であることを、自分という存在はなかなか意識出来ません。「作り出し、公表する」喜びを知る人は、反面しばしば繊細で、それが受ける「評価」が多様であればあるほど、戸惑います。・・・自分自身が多面体であることも、「評価」する側も実は自分と同じ多面体であるということも、なかなかに納得出来ないからでしょう。
ですが、「評価」が多様であればあるほど、自分というものが、いかに簡単には見破られないほどの豊かな数の「面」を持っているか、に喜びを見いだしても良い。それは、多様に評価される人の特権です。このことを考えながら思い出すのは、「交響曲」の初演が不評でお客がすっかり帰った後にも、ステージに一人残って
「ああ、私の交響曲は素晴らしかった」
と静かにつぶやいた、フランスの作曲家、セザール・フランクです。


一方で。「評価する」側が、「評価する」対象の、実は一側面だけしかクローズアップ出来ずに「評価する」行為を行なっていることに、しばしば無自覚であることには、危惧を覚えます。

話が逸れると受けとられてしまわれるかもしれませんが、ある大学で教鞭をとられていらっしゃるかたが、最近の「奇妙な無差別殺人の横行」に対する「報道の姿勢」の<狭い視野>を、深い憂いをもって捉えていらっしゃいました。私はその憂いに心から賛同します。

「記事を書いている記者が,その事件の背景をよく調べていない上,事件に対する記者自身の意見・考えが整理されておらず,ただわかった事実(だといいけど)をたれ流しているだけのような気がするからなんです. 『子供のお使い』的な印象があるのです. だからどうなんだ?だから,どうあるべきなんだという,想いが記事から全く伝わらないのですね. ジャーナリストを称するに値しないです.」
「そして,さらにこちらの神経を逆撫でするようなことをする. 例えば,一連の無差別殺人事件で,東京のえらそうな大学の先生にインタビューして,『社会に問題があるんですよ』とかいうことを平気で言わせる. あほか,社会は関係ないだろ. 社会じゃなくて,犯人自身に問題があるんですよ. だから,犯人を逮捕して,裁判にかけるわけでしょ. こんな大学教授のコメントを,被害者の家族が見たら,どう思うでしょうか? 『自分の息子(娘)は,社会に殺された』なんて,思えますか? たとえ,いじめにあっても,貧しくても,家庭に問題があっても,皆ぐっとこらえて,頑張って勉強して学校出て,少ない給料で頑張って仕事してるわけですよ. 皆,そうやって社会人やってるわけですよ. そういう人が支えている社会を,まるで殺人者のように言う大学教授も大学教授だけど,それを識者の代表意見のように放送するマスコミの無神経さに我慢がならないのです.

こうした報道姿勢が、この国ではいまや「準国営放送」とでも言えるはずの機関までもが平気でやっている。・・・そんなふうな報道をしなさい、という思想統制でも、陰でなされているんでしょうか?



繰り返しになりますが、ヘンリー8世の例を待つまでもなく、私たち一人一人は、自分自身さえも見据えきれないほどの多面体なのです。

「評価」・・・報道はそれが往々にして無責任になれる一つの典型かと思われますが・・・とくに一面だけをクローズアップする歪んだ「評価」は、「評価」本来が持つであろうはずの「創造の循環」の役割を、自覚しなおさなければなりません。

私たちの「再生」は、それが実現して初めて、かなうことなのではなかろうか、と感じる今日この頃です。

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コメント

多くは語りませんが、お気持ち、しっかり受け止めたつもりです。
ありがとうございます。

投稿: キンキン@ダイコク堂 | 2008年8月 2日 (土) 01時30分

キンキンさんには、いっぱい教えて頂いているから・・・
これからもご指導宜しくお願い致します。

聴講料も払わない学生ですみません m(_ _)m

投稿: ken | 2008年8月 2日 (土) 13時31分

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