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2008年7月17日 (木)

曲解音楽史39)15-16世紀イタリア

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前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン
    38)16世紀中南米



注文した資料が揃いきっておりませんので、いったん、カール5世の版図から外れます。
で、文脈上は17世紀に繋げて観察したかった、それ以前のイタリアの状況を見ておくことと致します。


統一国家としての「イタリア」の登場は19世紀まで待たなければなりませんが、宗教改革前夜にあって、「文化的なヨーロッパ」の象徴的存在は、誰から見ても、ローマに教皇庁を有するイタリア半島でした。
フランドル楽派の連中も、デュファイやジョスカンなどの主力メンバーは、その活躍の舞台をイタリア半島に求めていました。

とはいえ、半島内は国家が分裂した状態でしたから(「イタリア人民の歴史I」153、225頁地図参照)、おそらくは地域地域によって音楽の特徴は異なっていたでしょうし、それよりもまず、イタリア人そのものに、独自の有力作曲家がなかなか登場しない状況が続きました。

イタリア半島内での音楽の地域差は全てを伺うことは出来ませんが、「西洋の音楽と社会2<ルネサンス>花開く宮廷音楽」(音楽之友社 1997)にはローマとヴェネチアの例が詳しく記載されていて、そこからこの二者の差異についてはうかがい知ることが出来ます。



ヴェネチア側を先に見ますと、16世紀の大半の期間、この「貿易都市国家」は、商業的な交流を通じて、瀕死の東ローマ帝国を強く意識するところもあったのでしょうか(これは私の推測です)、伝統と伝承・・・これにはキリスト教から見れば「異教」と化したローマの宗教に由来するものも多分に含まれます・・・を守る姿勢が強かったようです。音楽の主流はモノフォニー(単声)だったとのことです。
ただ、ここには、以後のイタリア音楽でも連綿と受け継がれていく豊かな歌唱、オペラの題材に繋がっていくものが確かに存在した、とみなしてよいでしょう。

また、東ローマ帝国が衰微するに伴って、イスラム圏からの文物の流入の増加もあったと思われ、ヴェネチアは他地域に先駆けて、家庭内に弦楽器(どちらかというとリュート系すなわち撥弦楽器)が普及していったとの記述も、上記の音楽史のレポートには見られます。そこには当時の家庭での奏楽を描いた絵も掲載されています。

この時期の、おそらくはこの地域の音楽を示すサンプルは、20世紀に入ってレスピーギが3つの「古代舞曲とアリア」の管弦楽組曲に編曲することになった元の作品の数々が、最も美しいものではないかと思います。ただし、このサンプルはヴェネチアからみればライヴァル関係にあった、フィレンツェのものです。作曲者は、有名な科学者ガリレオ・ガリレイの父です。Vincenzo Galilei(c1525-1591)

polymnia
polymnia
(レスピーギの組曲第1番3曲目の原曲です。herios CDH55146)

歌入りものに、よい持ち合わせがありません。ごめんなさい。



外部との中立的交流を「避け得なかった」ローマは、ヴェネチアとはだいぶ事情を異にします。
前半期には、最初に述べましたとおり、フランドル楽派の巨匠であったデュファイ、ついでジョスカンが、ローマでも、それぞれ一時期に限られてはいますが、主要なポストを占め、自分達の経歴に花を添えていました。ローマとは距離は離れているものの、フランスの影響も強く受けていたかと推測されます。
しかし、16世紀中葉には、システィーナ礼拝堂のカペレ(合唱団)からは、フランス人のメンバーがすっかり排斥されている記録を見出すことが出来ます。これも勝手な推測に過ぎないのですが、ミラノを中心とした北イタリアに野心を示すフランスに対し、イタリア人たちは何らかの「嫌悪」を抱き始めていた可能性もあるのではないかと思います。

ただ、教皇庁を中心に据えている以上、ローマの音楽家達は、この都市の「国際性・カトリック的普遍性」を損なうことが無いように配慮したのでしょうか、ティンクトリス(合唱愛好者には「エレミアの哀歌」で有名。1477年には「対位法の書」も著している、とのこと)という人物を唯一の例外として、政治的なメッセージを込めた作品(モテトゥス)をものにすることは回避していたようです。
一方で、他国には見られなかった特徴として、ほぼこの時期から、音楽理論について活発な議論と出版がなされ始めています。それらの殆どは、フランスのノートルダム楽派に淵源を持ち、つい先だってまでフランドル楽派が発展させていった、複雑な「対位法の使用」を強く非難するものでした。
彼らが求めたのは、もっと「和声的」な(ここでいう「和声」は、対位法的なモテトゥスがしばしば声部によって違う歌詞を持っていたり、同じ歌詞でも極端にずらして呈示してみたり、と、聞いていて言葉の意味が分からなくなっていた事態に対抗する意味合いのものであって、即「ホモフォニック」であることを指し示したものではないのではなかろうか、と推測します)、言葉の聞き取れる、「分かりやすい」音楽でした。具体的には3声のフォーブルドンもしくは4声のファルソボルドーネと呼ばれる類の作品群や技法を目指したものです。

フォーブルドン(ファルソボルドーネ)は技法的には3度・6度の和音を中心にした曲作りで、のちに「和声学」が対位法との関連上で禁則とした併進行についてはうるさい約束事を持ちません。現代のカラオケで「ハモる」のは、極端に言ってしまえばフォーブルドンの延長上にある、すなわち5百年の歴史をもつわけです

代表的な著作はダンケールという人によって著されている(「音楽上の違いに関する論考」1551頃)とのことです。内容に接してみたいところですが、日本語訳などの詳しい資料は・・・専門家はお持ちかもしれませんが・・・市井には出回っていません。

ローマを代表することになるパレストリーナ(1525?-1594)は、こうした背景の中で誕生し、徐々に地位を高めていきます。
彼がどんな性格でどのような人物だったかは知りませんが、彼の作風は、それまでのフランドル楽派に比べると、音符の「運動」上では遥かに地味です。対位法は巧みに活用され、本人はとりわけ音楽理論書を残していないにも関わらず、以後、18世紀に教科書を作ったフックスの権威付けにより、パレストリーナの対位法は「厳格対位法の規範」とみなされるようになります。
しかし、同時に「言葉が良く聞こえる」ことにも細心の注意が払われており、先人の宗教的作品群とはまったく別の<美>を生み出すことに成功しています。敬虔な「信仰告白」表明が、見事になされていると言えるでしょう。
その作品は、気品に溢れた響きを持っており、壮年期にはすでに、彼はローマを代表する音楽家=作曲家としての名声を不動のものとします。

有名な「教皇マルチェルス(マルケルスス)のミサ」から
Agnus Dei... Dona nobis pacem
agnus_dei... Dona nobis pacem
(Wiener Motettenchor)

1551年以降教皇庁の後ろ盾を得て活躍し、一度は名声を確立した彼は、それまで同地の作曲家が避けていた「政治的な」意図を明確にした作品もものにしており、「教皇マルチェルスのミサ」などは、そうした創作活動の一環だといっていいでしょう。
そのわずか後の1555年から新たな教皇となったパウルス4世に解雇され、妻子を伝染病で失う悲劇に見舞われ、不遇も続きましたが、1571年には再び「現場」に復帰、新たな妻を得て幸福な晩年を過ごした、とのことです。・・・10年以上辛抱したのか。偉いなあ。。。

パレストリーナは、従来の「音楽史」では<ルネサンスの代表的作曲家>と言い続けられてきました。しかし、ヨーロッパ音楽の変遷を考えるとき、パレストリーナの活躍後期は、通常の音楽史では「バロック」に括られる、初期のオペラ作曲家たちと重なっている点には、留意をしておく必要があるでしょう。

この件は、またあらためて見ていくことになるでしょうが、私が「ヨーロッパ音楽に<ルネサンス>という時代区分が本当にあてはめえるのかどうかを疑問に思う要因は、そうしたパレストリーナの活動期の状況、彼の対位法がいわゆる「バロック盛期(18世紀初頭)」に権威と見なされていること、にもあるのです。
いかがでしょうか?



なお、16世紀のイタリアには、音楽史上、面白い出来事が2つはあります。

ひとつは、教会内のカペレで1565年あたりから、カストラートが活躍し始めたこと。
カストラートの発生と隆盛には非常に興味を惹かれますが、音楽の概観的な流れをつかみたい、という趣旨からは逸脱しますので、とりあえず深入りは避けましょう。

もうひとつは、イエズス会のヴァリニャーノ神父に連れられた(神父自身は途中までで随行を断念せざるを得ませんでしたが)日本の天正少年使節団4人が、1585年にローマ教皇庁で、おそらくはパレストリーナのミサ曲を聴いたであろうこと。残念ながら作品は特定できないのですけれど。
天正少年使節団の数奇な運命は、さまざまな書籍に語られていますので、いまはリンク先のWikipedia記事をご覧頂くにとどめましょう。
なお、リンク先の記事には、日本帰国後の使節団が1591年に豊臣秀吉の前でジョスカンの作品を演奏したと記されていますが、私はそれについてはいまのところ全く何も知りません。ご教示いただければ幸いです。

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コメント

kenさん、早速お邪魔しました。サンプル曲良いですね、聴きながら本文を読むと文意がこの硬直しかけた脳にスッと入ってきます。でも、音大の頃音楽史勉強しているんですが、ちゃんと勉強してなかったのか、もう忘れたのか?!改めて勉強になります。

投稿: goloso204 | 2008年7月21日 (月) 22時01分

いや、お恥ずかしいかぎりです・・・

同時代のイタリア歌曲を取り上げるべきなのに、手持ちがないことに気が付きました!
そう言う点では不足のある記述でして・・・

でも、お言葉、とても嬉しく存じます。
本当にありがとうございます。

投稿: ken | 2008年7月21日 (月) 22時10分

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