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2012年6月23日 (土)

Cosi Fan Tutteをめぐって・・・サリエーリとの相対比較

一時はかなり復活して大型店の店頭を飾ったサリエーリのオペラたち、最近はまたCD屋さんの棚には少なくなってしまいました。
が、映像で出ている「タラール」(1787年、フランス語、トラジェディ・リリク様式、「フィガロ」の劇作家であるボーマルシェとの共作)や、 オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の希望で「タラール」をイタリアオペラ(オペラ・セリア)に改作した「オルムズの王アクスル」(1787年、ダ・ポンテの台本 ※3)を見たり聴いたりすると、
「ああ、これじゃぁ、作品をオペラ・セリアそのものにしてしまっては、モーツァルトはかなわなかっただろうな」
と、つくづく感じます。
いずれも冒頭部が華やかで、「オルムズの王アクスル」の最初のレシタティーヴォの雅やかさに耳を傾けていると、当時劇場を訪ねた人たちの、この響きで現実から幻想の世界に逃れ得て充分満足しただろう表情が、ありありと浮かんできます。・・・例えとしてはそぐわないのですが、これを前にしたお客にもう一本モーツァルト作品を見せるとなると、時代劇を取り込んだ演歌ショーを楽しんだ人に、テントでやるような現代演劇をいきなり見せてしまうほどのギャップが生じてしまう気がします。

DVD「タラール」
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CD「オルムズの王アクスール」
http://www.amazon.co.jp/dp/B000JCE9I8
http://www.amazon.co.jp/dp/B00005Y3JP

CD「トロフォーニオの洞窟」
http://www.amazon.co.jp/dp/B000BUCW50

CD「サリエリ・アルバム」バルトリ
http://www.amazon.co.jp/dp/B0000QWZI4

「オルムズの王アクスル」は、かつて映画『アマデウス』でモーツァルトと比べたときのサリエーリの凡庸さを際立たせるという意地悪な意図から、そのヒロインの第4幕でのアリアの終結部、作品全体のクライマックスの終結部だけが引かれていました。今でも高校生くらいですと授業の一環で鑑賞するようですから、そのイメージはまだまだ根強いのでしょう。(※1)

しかしながら、通して聴くと、「オルムズの王アクスル」のフィナーレが、オペラ全体の設計からすると、ベートーヴェンの「苦悩から歓喜へ」なるキャッチフレーズに恰好のモデルを提供していたことがはっきりと分かります。
また、同じサリエーリの喜劇(オペラ・ブッファ)「トロフォーニオの洞窟」(1785年)は、序曲(ハ短調・・・ベートーヴェンの調ですね)、それに用いた短調主題が作中に出てくる場面では、モーツァルトのオペラで石の騎士長がドン・ジョヴァンニに話しかける際の音響(ニ短調・・・これはモーツァルトの調)、あるいは同じくモーツァルトのレクイエムのRex Tremendaeの音響の原型を、これまた明瞭に聴き取させてくれるのであって、サリエーリは決して凡庸だったわけではない事実を知らしめさせられます。
「トロフォーニオの洞窟」はまた、作品成立当時かなり人口に膾炙した啓蒙主義的物語だそうで、封建制を揶揄した「タラール」共々、決してリスクを避けた作品ではありませんでした。この点はモーツァルトの方がサリエーリより冒険的だった、との定説を否定するために記憶すべきことだと思います。(※2)

それでもなおモーツァルト作品の方がこんにちまで生命を保っているのはなぜなのか、には、幾つかのポイントがあるでしょう。

第1には、モーツァルトには家庭音楽として19世紀にとりあげやすかった器楽作品も多く(しかも相対的には演奏に必要な技術は<以後の作曲家>より容易で【そんなことはない、というのは、作品の背後までを考えて演奏することが常識化した今だから言えることです】、そのぶん音楽に「深い」意味を考えるゆとりをも提供したのでしょう)、そこから関心も親しく持たれやすかったために、サリエーリだけでなく、同時代の、歌劇を主とした創作者たちを駆逐する上で有利だったであろう こと。

第2には、技術が完成したころ短時間のみ可能であった録音で、そのような事情を反映し、クラシックジャンルの録音は、古典派では19世紀後半に中に見直され評価が高まっていたモーツァルト作品が多く、モーツァルトの名前の方がいっそう人々に広く馴染まれたこと。

第3には、それらの条件に関係無く、やはり作品を聴いて行くと、モーツァルトの方が近代的なデリカシーを確かに豊かに持っていて、現在にまで強い影響を残している19世紀後半以降の嗜好のうえで「優れて聞こえる」要素を豊富に持っていること。

そもそも言葉の明瞭な単旋律化でジャンルが確立されたオペラではありますが、歌唱技術からの旋律の自立は、モーツァルト以前のどんなオペラを鑑賞しても、モーツァルトより際立つものはないように感じます。それが、19世紀以降壮大な音響を築くようになったホモフォニー音楽への愛好風潮の中で、人々がモーツァルトを最初の古典としていったプロセスに決定的なポイントになったのではないでしょうか?(※5)

モーツァルト在生時のウィーン(1781~91)でどんなオペラ作曲家が愛好されたかの順位表が、水谷彰良『イタリア・オペラ史』(音楽之友社  2006年 143頁)に掲載されています。それによれば、サリエーリはパイジェッロに続き第2位だったのに対し、モーツァルトは第7位、上演回数ではサリエーリがモーツァルトの1.8倍でした(※4)。

ウィーンでのモーツァルトは、歌劇では喜劇、イタリアオペラではブッファの作家だったことに目を留めておかなければならないでしょう。他に成功を収めたのはジングシュピール(「後宮よりの逃走」と「魔笛」)であって、ウィーンで自立した後に書かれた唯一のオペラ・セリア「ティト帝の慈悲」は、生前も当たらず、死後もしばらくかえりみられませんでした。モーツァルトが高い評価を定着させて行く過程で、今日では「ティト帝の慈悲」も名作だ、との主張もありますが、オペラ・セリアでも成功したサリエーリの作例を前にすると、私にはやはり霞んで感じられます。

こうした中、サリエーリの投げ出した台本にモーツァルトが作曲したのが、「コジ・ファン・トゥッテ」であることは、よく知られた話かも知れません。
「コジ・ファン・トゥッテ」は、シェークスピア劇で言えば「間違いの喜劇」や「夏の夜の夢」のような、取り違えが引き起こす笑いを素材にしたものです。こうした種類の笑いは、先祖をローマ喜劇にまで遡ることが出来るものだそうです(「間違いの喜劇」の元ネタは、古代ローマの喜劇作家プラウトゥスの手になる「メナエクムス兄弟」です)。
サリエーリの作曲したブッファ「トロフォーニオの洞窟」も同じ系譜に属する喜劇で、
「哲学者で魔術師のトロフォーニオが暮らす洞窟は、ある人が入口の一つから入って別の出口から出ると、その人の性格が正反対になってしまう・・・硬い人間がおおっぴらな人間に、おおっぴらな人間が硬い人間になる」
という舞台設定で、そこに入った姉妹とその婚約者たちが性格の逆転ゆえに引き起こす泣き笑いを描いた、ユニークなものです。
魔術的なものを媒介とした取り違え、という点では、これは「夏の夜の夢」のほうのヴァリエーションになるでしょう。

一方で、人間そのものの取り違えが、シェークスピアであれば「間違いの喜劇」のほうですけれど、「コジ・ファン・トゥッテ」はこちらの系譜に連なることになるでしょう。
ところが、「間違いの喜劇」では人が作為でなく取り違えを起こすおかしみでお客を安心させる作りになっているのに対し、「コジ・ファン・トゥッテ」はフェランドとグリエルモという二人の男性があえてわざわざ、それぞれ他人に変装して、自分たちの恋人を入れ換えて騙すのです。元締めの仕掛人は哲学者ですが、「トロフォーニオの洞窟」の場合とは違って、この哲学者アルフォンソは魔術は使いません。恋人を騙させるために大仕掛けをしなければならないので、お金はかなりつかったものと思われますが、とにかくそうした現実的な手段以外にはなんの仕掛けもない。
「コジ・ファン・トゥッテ」はウィーン時代のモーツァルトのオペラ・ブッファとしては彼の死後最も長くかえりみられない作品、あるいは難癖を付けられる作品となっていくのですけれども、原因は「コジ・ファン・トゥッテ」の中で起こる取り違えが全く魔術によらないものであり、そのため、男性の登場人物たちは常に「取り違え」を現実問題として意識し続けており、つらいしっぺ返しも受けるので、享受するはずの観客も舞台上の彼らと辛さを共有しなければな らなかった、そのあたりが19世紀的なモラルの目で眺めるにはあまりに苦痛だった、というところにもあったのではなかろうか、と推測します。実際に、19世紀にはウィーンなどの一部の都市以外では、この作品の復活上演の試みは<道徳的に>書き換えた台本を用いてなされたことが分かっています(名作オペラ ブックス9「コシ・ファン・トゥッテ」音楽之友社 昭和63年 所載のドキュメントを参照・・・なお、タイトルは「コジ」と濁音にはなっていない)。

人がどれだけ「不朽の作品を作りたい」と考えるのかは私には分かりません。劇音楽の創作はまずそうではなくて、当面当座のお客となる人々にその面白み、笑いの要素とは限らない<興趣>を伝え、認められたい、との思いからなされるのであるとすれば、どんな<興趣>で勝負するか、が作曲者の大きな賭け になるのでしょう。
「コジ・ファン・トゥッテ」は創作依頼主であるオーストリア皇帝ヨーゼフ2世の死の時期に上演されるというタイミングの悪さがありながら、現世的な掛けという点では決して<当たらなかった作品>ではありませんでした。1790年2月の皇帝の死の前に5回、死後の服喪期間後に5回なされた上演回数 を、少なくて失敗であったとする見解が目立つようですが、これはサリエーリの成功したオペラ・ブッファ「トロフォーニオの洞窟」がウィーンのブルク劇場で 1784年以降4年間で26回上演されたことを参考にするなら、1年間の上演回数としては決して少ないものではありません。
にもかかわらず、「トロフォーニオの洞窟」がそれ以降1809年まで多くの都市で上演され国際的名声を得たと記録されているのに対し、モーツァルトの没年である1791年以後の「コジ・ファン・トゥッテ」上演史には華々しい記録は見出せません。不思議なことに、それでもたとえばベートーヴェンは間違いなくこのオペラの存在も内容も知っていて、口では負の評価をしながら、歌劇「フィデリオ」のアリアでは手本にしたりしているのです。

サリエーリのヒットは、サリエーリが現役の歌劇作家であるあいだじゅう持続したようです。
オペラ作家としては、充分だったのではないかと思えるのですが、それでも彼は現役を退いた晩年に至ってなお、作品の改訂作業を続けていたそうです。それを思いやると、以後の彼に対する世間の無視がたいへん痛々しく感じられて来ます。本当はサリエーリは不朽を目ざしていたのでしょうか?

「トロフォーニオの洞窟」に限らず、サリエーリの書いたアリアは、概して音域が頻繁に派手に広過ぎることはなく、旋律も、どこか民謡調の平易さを持っています。チェチリア・バルトリが先年サリエーリの名アリアを集めて出したアルバムには、かなり技巧的なものもありますが、オペラの中では劇的効果を存分に発揮する線の太さの方を強く感じさせられます。「トロフォーニオの洞窟」の中の傑作アリアのひとつ、「ラララ・・・」も、底抜けな陽気さを持ちながら、歌い手の愉快な気分をストレートに感じさせてくれます。


(ソプラノ:マリー・アーネット http://www.amazon.co.jp/dp/B000BUCW50

モーツァルトの方は、とくに「コジ・ファン・トゥッテ」の中のアリアなどは、一筋縄では行かない屈折を孕んでいます。
初演時のフィオルディリージ(恋人たちの、姉の方)を歌った歌手はたいへんな技術力の持ち主だったそうですが、モーツァルトがその歌唱をあまり評価していなかったとも伝えられています。そのフィオルディリージに与えられた第1幕のアリア(14番)ほど作曲者の底意地の悪さを感じさせるものも珍しい気がします。歌い出して12小節の間に、このアリアの最低音である下線1本のAから、最高音である上の架線のついたBまでを一気に駆け上るのであって、この間、最大の音の跳躍は二音間で12度という無茶なものです。


(Soile Iskoski La Petitte Band / BRILLANT CLASSICS 93925)

とくに彼女に与えられた歌にはこうした傾向が目立ちます。他の、妹ドラベッラ、本来はその恋人で姉の方を騙すことになるフェランドの歌にも、サリエーリの作ったもののなかには存在し得ない、はちきれんばかりの激しさが与えられています。

後世の復活であらたに長く持続する生命を手中に出来たかどうか、は、以上のような台本や作曲技法の差が大きくモノを言ったのではなかろうか、サリエーリのほうが人々の興味の対象から離れてしまったのは、サリエーリという人がモーツァルト暗殺者の噂を立てられ葬られて以降であっても、そのような冤罪のゆえでは決してないのではないか、という気がしています。

サリエーリは、時の観客・聴衆たちにとって優れて「同時代者」でありました。それゆえに、作風の上で衣鉢を継いだベートーヴェンやシューベルト(彼らはサリエーリの意に反してオペラ作家ではありませんでした)の中に、サリエーリの音楽は発展解消して行ったのではないのでしょうか?
一方で、モーツァルトは、いまは「コジ・ファン・トゥッテ」についてだけ見るならば、その台本は、まだ神話や魔法の世界に逃げてた楽しみたかったと見受けられる当時の人々にとって、同時代のものではさっぱりなかったし、付けられた歌唱もあまりにもリアルに技巧的だったり起伏が激しかったりしたのでした。そのぶん、モーツァルトの方が、おそらくは<これからの風>というものにサリエーリより深く染まっていたのでしょう。それは、彼が自身の人生を、敢て安定ではない方向に踏み出すように歩んでしまったがゆえに獲得した、副次的な、生存中にはあずかるることの出来なかった恩恵によって、証明されて行ったのではないかと思われます。

ヘタなおしゃべりが過ぎて、「コジ・ファン・トゥッテ」の内容にまで立ち入れないでしまいました。
「コジ・ファン・トゥッテ」についてはもっと他に考えたいことがあるのですが、別途と致します。
末尾に、構成を掲げておきます。

※1:「オルムズの王アクスール」とそのもととなった「タラール」は、本当はモーツァルト「フィガロの結婚」より後に出来た作品ですのに、映画『アマデウス』では、それよりずっと・・・「後宮よりの逃走」よりも前のものだと信じ込ませられます。

※2:「トロフォーニオの洞窟」は「フィガロの結婚」と同時期に出来て上演を争っていた、との言説があります。言い出しっぺはフィガロの初演に出演した歌手ケリーのようですが、これは事実に反します。「トロフォーニオの洞窟」初演時にはモーツァルトの「フィガロの結婚」のほうはまだ一音も書かれていませんでした。

※3:「タラール」をイタリアオペラに改作した「オルムズの王アクスル」では、皇帝の要請による作品だからという理由で、台本作者のダ・ポンテが 先鋭的な啓蒙主義の色合いを薄めてしまっていると言われています。おそらくそれは表面上のことで、「フィガロの結婚」をオペラ化したときと同じように、検閲を通してもらえる見込み程度の削除を施しただけであり、オペラ自身のもつ風刺性を失うことは慎重に避けた、と見なす方が正しいように思います。ヨーゼフ2世は「アクスー ル」が「タラール」と全く違う作品になってしまったのに仰天したとのことで、皇帝としてはもともと「タラール」をそのままイタリアオペラにしたものを見物したかったのでした。

※4:いちおう、あくまでウィーンでのデータであることは念頭に置く必要はあります。モーツァルトをいちはやく高く評価したのはプラハのほうでした。

※5:単純な旋律は複雑な歌唱技術を要しないために、モーツァルト以前の歌劇の中では、しばしばむしろ枠にはめられ た窮屈さを持っていたように思えます。モーツァルトは正反対に、複雑な歌唱技術を要するアリアの中にも<動機>の明確な旋律を作っていて、いかなる場合も 旋律が聴き手に認識されるものとしているのです。引用したアリアを分析なさってみて下さい。

なお、「コジ・ファン・トゥッテ」の構成は下記の通りです。
新全集(第8分冊)のスコアからまとめたものですが、当然ながら全てを文字に引き写すことは出来ませんし、小節数などには数え間違いもあるかも知れません。ご容赦下さい。

登場人物
L:Fiordiligi
D:Dorabella
S:Despina
F:Ferrando
G:Guglielmo
A:Don Alfonzo

Act 1
1. Terzetto (F,A,G) Allgro 4/4 G dur 61
Recitativo secco
2. Terzetto (F,A,G) Allegro 2/2 E dur 55
Recitativo secco(2-55=1)
3. Terzetto (F,A,G) Allegro 4/4 C dur 76

4. Duetto (L,D) Andante 3/8 A dur 154
Recitativo secco
5. Aria (A) Allegro agitato 2/2 f moll 38
Recitativo secco
6. Quintetto (L,D,F,A,G) Andante 2/2 Es dur 110
Recitativo secco
7. Duettino (F,G) Andante 2/4 B dur 38
Recitativo secco
8. Coro Maestoso(Marche) 2/2 D dur 50(クラリネット、ホルンを用いないところ注目)
Recitativo secco
Recitativo acomp. (管はクラリネットとファゴット8a. Quintetto[L,D,F,G,A]) Andante F dur[表記はC)] 27)
~RequiemのOro supplexの音型による伴奏
9. Coro Maestoso 2/2 D dur 25
Recitativo secco
10. Terzettino (L,D,A) Andante 2/2 E dur 41
Recitativo secco
Recittivo acomp. (A) Allegro moderato 4/4 d moll(表記はC) 21

Recitativo secco
Recittivo acomp. (D) 4/4 d moll-B dur
11. Aria (D) Allegro agitato 2/2 Es dur 102
Recitativo secco
12. Aria (S) Allegretto 2/4 22 & Allegretto 6/8 F dur 39
Recitativo secco
13. Sestetto (L.D.S.F.A.G)  Allegro 4/4 53 & Allegro 3/4 73 & Molto Allegro 2/2 94 C dur
Recitativo acomp.
14. Aria (L) Andante Maestoso 4/4 14 & Allegro 4/4 64 & Piu Allegro 4/4 50 B dur

Recitativo secco
15. Aria (G) Andantino 2/4 67
16. Terzetto (F,G,A) Molto Allegro 3/4 G dur 61(パパゲーノ的)
Recitativo secco
17. Aria (F) Andante cantabile 3/8 A dur 80
Recitativo secco
18. Finale
Andante (L,D) 2/4 D 61
Allegro (L,D,F,A,G) 2/2 g moll(表記はG dur)-Es(from bar 138) 230
Allegro(L,D,S,F,A,G) 3/4 G dur 137
Andante (L,D,S,F,A,G) 4/4 B dur 56(RequiemのBenedictus的)
Allegro (L,D,S,F,A,G) 2/2 D dur 213

Act 2
Recitativo secco(D durはじまり)
19. Aria (S) Andante-Allegro 6/8 G dur 99(初期のト長調弦楽四重奏曲第3楽章と通底)
Recitativo secco
20. Duetto (L,D) Andante 2/4 B dur 77
Recitativo secco
21. Duetto con Coro (F,G) Andante 3/8 Es dur 83(Fl,Cla,Fg,Hrのみの伴奏 セレナータ)
Recitativo secco
22. (S,F,G,A) Allegretto grazioso 6/8 - Presto 4/4 D dur 91
Recitativo secco
23. Duetto (D,G) Andante grazioso 3/8 F dur 120
Recitativo acomp. (L,F) 4/4 g moll - Es dur - F dur - (省略可の指示あり)
24. Aria (F) Allegretto 2/2 B dur 133
Recitativo acomp. (L) Allegretto 4/4 B dur - g moll - d moll - g moll - e moll
25. Rondo (L) Adagio-Allegro moderato 4/4 E dur 127
Recitativo secco (F,G) 62
Recitativo acomp. (F,G) 32
26. Aria (G) Allegretto 2/4 G dur 176
Recitativo acomp.(F)
27. Cavatina (F) Allegro 2/2 c moll - C dur 73
Recitativo secco (S,D,L)
28. Aria (D) Allegretto vivace 6/8 B dur 112
Recitativo secco
29. Duetto (L,F) Adagio-Allegro 2/2 A dur - C dur 75
  - Largetto 3/4 A dur 25
  - Andante 2/2 A dur 42

Recitativo secco
30. (F,A,G) Andante 2/2 C dur 26

Recitativo secco
31.Finale
Allegro assai (L,D,S,F,G,A) 4/4 C 65
Andante (L,D,F,G,CORO) 2/2 Es 107
Larghetto (L,D,F,G) 3/4 As(標記はEs)  31
Allegro  (L,D,S,F,G,A) 2/2 E ~ Maestoso(CORO) D 106
Allegro (L,D,S,F,G,A) 3/4 Es ~ 2/2 g 62
SCENA ULTIMA
Andante -Con piu moto  2/2  59
Allegro 25
Andante 35
Allegretto-Andante(3/8)-Allegretto 44
Andante con moto 2/2 45
Allegro molto 96

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2012年5月20日 (日)

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウを悼む(若干補)

5月18日、名バリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏が86歳で逝去なさったニュースは、クラシックファンならあまねくご承知のことと思います。

バリトン歌手としては20世紀最大の歌手ではなかったかと思います。
言葉の意味までを歌であらわしてしまえる希有な能力をお持ちのお一人でした。
それで理が勝ってしまったときには歌が冷めて聞こえることもありましたけれど、歌詞に初々しい青春の苦みが籠められているものには絶唱とでも呼ぶべきものを録音にあまた残して下さいました。

私たちが子供時代からたくさんの喜びを味合わせてもらってきた、20世紀後半期の巨匠が、またひとり、地上から消え去ってしまいました。大変寂しく思います。

私自身は歌劇ではヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」でのマルケ王のこの人ならではの気高さ、歌曲ではマーラーの「さすらう若人の歌」の純情な悲しみを噛み締めながらの歌唱がたいへんに好きでした。

アルバムでは、シューベルト三大歌曲集の中でも、マーラーと通底する精神で書かれた「美しき水車小屋の娘」(ジェラール・ムーアの伴奏)をいちばんの名盤としてあげたいと思います。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00005FHWG

アルフレート・ブレンデルとの「冬の旅」映像に付せられたリハーサルも、歌を自家薬籠中にした彼に、ブレンデルが逐次歌い回しのポイントを適切に感じ取りながらピアノパートを熱心に仕上げて行く・・・フィッシャー=ディースカウもまた添えに応えていっそうのドラマ作りをしていく、非常に興味深く勉強になるものです。ブレンデルの方も(ピアノで)歌っちゃうところが、伴奏を逸脱していると言えば逸脱しているかもしれないけれど、それでも構わないフィッシャー=ディースカウの歌唱の許容範囲の広さもあって、伴奏らしい伴奏で歌うのとは違った前向きなぶつかりあいと立体的な調和があって、フィッシャー=ディースカウがこの歌曲集を収録した中では案外最高の出来なのではないかと感じました。本来別の歌手の「冬の旅」を贔屓していたのですけれど、あらためてこの組み合わせで拝聴して、希有なことだと思いました。
http://www.amazon.co.jp/dp/B004XKBAZ2

小さな歌曲にこそ唸らせられる歌唱が多いのも、これだけの名人ならではでした。
彼によるシューベルト「野ばら」は、この作品にもっとも似つかわしいものだと信じております。探したら、静止画像ですがYouTubeにアップされていました。



哀悼の言葉は、人づてにバイエルン国立歌劇場がネットに掲載した誠意に溢れたものを拝読しました。

平易なドイツ語ですので、そのまま引用させて頂きます。オリジナルはリンクからご覧下さい。

http://www.bayerische.staatsoper.de/861-bXNnX2lkPTE0NTQ5-~Staatsoper~bso_aktuell~aktuelles_detail.html

               

Trauer um Dietrich Fischer-Dieskau

Die Bayerische Staatsoper trauert um den Bariton Dietrich Fischer-Dieskau. Am Morgen des 18. Mai verstarb der Bayerische Kammersänger im Alter von 86 Jahren in Berg am Starnberger See.

„Der Tod von Dietrich Fischer-Dieskau ist ein großer Verlust für die gesamte Musikwelt. Er hat durch seine Interpretationen im Liedgesang und in der Oper die Kunst des Singens entscheidend geprägt. Der heutige Liedgesang wäre ohne die Prägung durch Dietrich Fischer-Dieskau nicht denkbar. Die Bayerische Staatsoper trauert um einen ihrer wichtigsten Künstler überhaupt“, so Intendant Nikolaus Bachler.

Dietrich Fischer-Dieskau wurde in Berlin geboren. Seine Gesangsausbildung erhielt er bei Georg A. Walter und später bei Hermann Weißenborn an der Berliner Musikhochschule. Mit einem ersten Liederabend im Jahr 1947 und einem Engagement an der Städtischen Oper Berlin begann seine erfolgreiche internationale Karriere. Gastspielverträge führten ihn an renommierte Opernhäuser, u.a. an die Staatsopern von Wien, München und Hamburg sowie an die Londoner Covent Garden Opera, in die New Yorker Carnegie Hall und zu den Festspielen von Bayreuth und Edinburgh. Vor allem auch durch seine Interpretationen im Liedfach setzte er bis heute bleibende Maßstäbe, die New York Times kürte ihn sogar zum „besten Liedsänger der Welt“.

Über viele Jahre hinweg pflegte Fischer-Dieskau eine intensive und künstlerisch produktive Verbindung zur Bayerischen Staatsoper. Bereits 1952 sang er hier die Partie des Jochanaan (Salome), 1959 wurde er zum Bayerischen Kammersänger ernannt. In fünf Jahrzehnten sang er hier rund 20 Partien, darunter Mandryka (Arabella), Barak (Die Frau ohne Schatten), Almaviva (Le nozze di Figaro), Sprecher (Die Zauberflöte), Amfortas (Parsifal), Hans Sachs (Die Meistersinger von Nürnberg) und die Titelpartien von Gianni Schicchi und Falstaff. Unvergesslich bleiben seine Verdienste um das zeitgenössische Musiktheater, allem voran seine Darstellung des König Lear in der gleichnamigen, 1979 in München uraufgeführten Oper von Aribert Reimann. 1992 gab er seinen Abschiedsliederabend im Nationaltheater, am Silvesterabend desselben Jahres beendete er hier seine Gesangskarriere mit einem Galakonzert unter der Leitung von Wolfgang Sawallisch. Nach seinem Abschied als Sänger arbeitete er ist als Dirigent, Rezitator und Buchautor sowie als Dozent von Meisterklassen.

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2012年5月14日 (月)

シェーンベルク「月に憑かれたピエロ」

言葉のイントネーションは、とくに演劇の上で、その演じられかたの多様さに合わせてさまざまに様式化されてきたものでもありました。
劇に音楽的な要素が多くなるほど、究極は歌劇のように、言葉のイントネーションを歌の音程の高低に固定するようになります。歌は一般的に音の高さそのものを固定しますから、歌劇における歌のイントネーションは、その音の絶対的な高さにおいても固定されるのです。

Pierrot これに対する本格的なアンチテーゼを呈示したことが、本来、シェーンベルクという一人の音楽家の、西洋音楽上で最も特記されるべき業績なのではないでしょうか。十二音技法なるものを確立したことで、彼はいまでも専ら「調の破壊者」として、ロマン派までを偏愛するクラシック愛好家には疎んじられ、西洋音楽の優れた伝統の息の根を止めてしまった、などと悪くのみ言われることが少なくありません。ですが、十二音技法なるものはあくまで「長調でも短調でもない音楽の書き方」を西洋音楽の伝統の延長線上で開発したものに過ぎず、「月に憑かれたピエロ」で、<イントネーションの音高の非固定>とでもいうべき、言葉の面を切り口にしながらも初めて「音楽の、音程からの解放」までを呈示した新しさからみれば、こんな技法は彼にとってひとつの後退に過ぎなかったのではないか、と感じられてなりません。十二音技法は、一見しただけでは、音程を十二の絶対的な高さに固定したものであって、珍奇な、と言う意味での新しさは、そこにはまったく存在しないばかりか、音程可変の楽器(弦楽器や管楽器など)においては実はまったく違う音程である異名同音、同じ音名でも調の基音が変わることによってやはり変動する音高(ある音が導音である場合は高めになり、導音から決着する位置にある場合は低めになり、また和声に埋め込まれる場合は導音に位置していてもやや低めにとらなければ調和しないことがある)に対するデリケートな感覚を捨象してしまった点では退歩と見なせるものまで孕んでいるのですから。・・・まさにそれゆえに、十二音技法は伝統に飽き足らなかった「伝統継承者」にとって引き継ぎやすく、発展もさせやすく、発展型に対し新たな名前も付与しやすかったのではないでしょうか。それは過去を破壊したのではなく、過去が嵌められていた足枷を明確にしたがゆえに、引き継がれるべき重さを持つことが出来たのだと思います。

「月に憑かれたピエロ」で用いたシュプレヒゲザング(シュプレヒ・シュティンメ)は、彼自身のその扱い方についての記述に論理に矛盾があるようにしか読めない部分もあることから分かる通り、ある意味で定型化とは無縁なもうひとつの「技法」の発見ではなかったかと思います。イントネーションが常に言語とつかず離れずであることを考慮すれば、それは再発見であったと見なすべきなのかも知れませんが、イントネーションが記譜される例は西洋では決して存在しなかったことをかえりみれば、伝統記譜の中での新境地を目立たぬながらも開拓し、あとの世代のより自由な記譜に道を開いたものと捉えてもいいかも知れません。

しかしながら、言葉を発する声と同時に奏でられる器楽の方は、意外なほど伝統の延長線上にあります。
第1曲は曲頭のモチーフを絶対的な音高を保持しながら単純に示すことを繰り返し、その単純さに複雑さをカモフラージュするためにはブラームス的な拍ズラしを用いている(弱拍が強拍に聞こえるように、その部分にヴァイオリンのピチカートを置く)のですし、第11曲前半部や第16曲、第20曲も類似の手法によっています。第2曲、第5曲、第19曲は古典的な舞曲で、第5曲はタイトルも「ショパンのワルツ」、第19曲は「セレナーデ」とタイトルが付されていさえします。第12曲は当時の大衆音楽的なリズムを持ちますし、第6曲、第8曲(パッサカリア)、第14曲の書法はバロック的です。およそ、当時考えられるだけの伝統的技法を網羅しつつ作品が仕上げられていることには、よくよく目を向けなければならないのだろうと思います。

「月に憑かれたピエロ」のスコアから読み取れる記譜は、洋楽的記譜法が必ずしも、たとえば能の謡のゴマ点的記譜法より優位に立つとは限らない・・・書き表したいものによっては制約が大きい・・・点を浮き彫りにしています。無調とは言いながら確かな旋法が内在する各曲で、記譜上は同一音高でも、音楽の歌い回しからは音程を上寄りないし下寄りにしなければならないものもあるかと思いますし、聴くと実演はそれを反映しているのですが、これは書き表せません。後年十二音技法を確立したところから推しはかれば、シェーンベルクはこのことは「常識」程度にしか考えておらず、楽理上明確にする必要性は感じていなかったのではないかとも想像出来ます。言葉のリズムを保持することにも執拗にこだわっていますが、それはどんなに単純なものであっても(言語はモーラという偶数拍単位に集約される傾向があることが音韻上明らかになっていますし、「月に憑かれたピエロ」で扱われる言語も例外ではないことが明確に聴き取れるのですけれど、それにも関わらず)変拍子を噛み合わせなければ表示出来ない点、シェーンベルクたちの時代までの記譜は、まだ明記されなければならなかった「拍子」の束縛から自由ではありません。それは、彼の弟子ウェーベルン作品以降の楽譜よりも読譜を容易にしている面もありますけれど、後輩たちが乗り越えた制約からはまだ逃れていない、二十世紀音楽のプロトタイプの段階にあることは、あらためて認識されて良いことかも知れません。

音楽作法についても、同時期の作曲家たちとくらべて特異な逸脱があったわけではないことは、作品21を付された「月に憑かれたピエロ」と比べると、作品20の「心のしげみ」がストラヴィンスキーに、もっとあとの時期の作品41である「ナポレオン・ヴォナパルトへの頌歌」がショスタコーヴィチに類似した響きを持つことからも判明します。

そんな中で、「月に憑かれたピエロ」が特別な色合いを放つのは、やはり、集約された伝統の響きの上に、イントネーションは確定しながら音程は不定の浮遊する言葉が与えられたことで、二十世紀初頭的な意味合いからは、他の誰がとった書法よりも鋭敏に時代の暗さに肉薄し、今日的には、束縛されていた精神が初めて解放された不安の初々しさを明示してくれる鮮やかさがちらり、と光ってみせるがゆえのことなのでしょう。

シュプレヒシュティンメは、まずは記譜された音高にこだわって鼻歌のように練習してみて、最終的にはそこから解放されるように仕上げを進めて行くのが普通なのでしょうか。クリスティーネ・シェーファーがブーレーズらと録音したものからは、そのような音調が聴き取れます。シェーンベルクの注意書きには最も忠実なのかも知れません。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00005FJ4G
http://www.amazon.co.jp/dp/B00000DBV6

背景を演出する器楽は、シノーポリがルイーザ・カステラーニと残したドレスデン・シュターツカペレのメンバーによる録音の方が様式感が明確です。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00005HI22

シェーファーの演奏はオリヴァー・ヘルマン監督によりグロテスクなイメージのなかにシェーファー自身が登場する映像になっており、DVDで見ることができます。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000BDJ89K

この作品は本来は女優のアルベルティーネ・ツェーメが注文したもので、1912年10月16日にベルリンのコラリオン・ザールで初演されたとのことです。
「熱狂的な喝采を送る若い人々もいたが、ほとんどの人たちは憤りの声を上げていた」
と記録されています。(フライターク『シェーンベルク』訳書p.126)

女優さんによる演奏は、2010年7月に大井浩明さんがピアノ単独演奏で女優の柴田暦さんと共演した際に拝聴しましたが、大変感銘を受けました。最近では内田光子と仲間たち、が、ドイツの有名女優さんとの共演で演奏した映像がBSで放映されたのを拝見しました。

シュプレヒシュティンメについてのシェーンベルクの記述の翻訳はいくつもあるかと思います。前掲書には載っておらず、シノーポリ盤添付のリーフレットにある、次の部分が、シェーンベルクの意図をもっとも良く物語っているでしょう。

さらに一般的な注釈として、次のことに留意すること。

演奏者は、この作品において各々のテキストの意味から、個々の曲の雰囲気や性格をことさらに描き出そうとしてはならない。作品の意味は、唯一音楽から生み出されるべきなのである。作者にとってテクストにある情景や感情の音画的な描写が重要である場合には、それはすでにスコアに組み込まれている。もし言葉による感情表現の要求が生じても、作者が求めていないそうした要素は、付け加えるべきではない。演奏者は、この作品においては、付け加えるのでなく、音楽から何かを汲み取ることを課題とするのである。

・・・これは彼の尊敬していたマーラーが抱えていた後期ロマン派的な尊大さとまったく同一の尊大さであることも、見落としてはなりません。

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2012年5月 1日 (火)

「ダニエルの物語」Ludus Danielis 〜ヨーロッパ中世の代表的典礼劇

伝統が生きている、とは言っても、実は日本の能や歌舞伎にしても、江戸時代〜明治時代になって定式化したもの、あるいは新たに開拓された方法で演じられているのでして、「古来のまま」と考えてはいけないのでしょう。まずそれがいつ整ったものか、を見据え、そこに現代にも受け入れられる何ものかが大変な工夫で採り入れられているところを感得しないと、つい理屈先行でものごとを享受しがちになってしまうかもしれません。自戒すべきことなのだろう、と、最近感じるようになって来ました。

西ヨーロッパの音楽劇は、台本や、リズムのパターンがはっきりしない楽譜で残っていて、復元の方針によって、だいぶ趣が違うように思います。

「ダニエル物語」は聖書に題材を求めた「典礼劇」の最も有名な(、かつ私はこれしか見聞きしたことがない)ものです。12世紀後半に北フランスのボーヴェで上演されたと伝えられるものだそうですが、現在は大英博物館に収められている1230年頃の写本を元に上演されます。
日本でもときどき演じられるようで、皆川達夫さん「中世・ルネサンスの音楽」(旧 講談社現代新書)に1970年の草分け的上演の話がちらっと出て来ます。
西ローマ帝国の滅亡以降、演劇の話はヨーロッパ中世史の啓蒙書にはほとんど現れず、この頃の典礼劇がどのようないきさつから生まれて来た由来は私には皆目見当がつきません。内容は以後のオペラにではなく、オラトリオに直結していくような気がしますけれど、それも定かには分かりません。

これを、通しで見ることの出来る映像がYouTubeにありますので、能書きはこれくらいにしてリンクしておきます。Ensemble PHOENIXのひとたちの、2008年の上演です。

Ensemble PHOENIX
http://www.phoenixearlymusic.com/site/

Ensemble PHONIXによる上演(2008年、YouTubeのリンク)~英語字幕付


連続再生
http://www.youtube.com/watch?playnext=1&index=0&feature=PlayList&v=MgkkWyVX3PM&list=PL8A7462173D5AC66F

音楽が、16世紀末にさかんになり始めるオペラとは違い、シンプルこの上ない作りになっているのが印象的です。「誰でも参加出来る」ためにそうしたのでしょうか? ただしテキストはラテン語ですから、教会に属する人、もしくはそこで教育を受けた人、すくなくともラテン語の初等教育を受けた層が享受したものではあったでしょう。
音楽の中に、カルミナ・ブラーナに収録されているので有名な「バッコスよ、ようこそ」(CB200)その他のメロディが聴かれるのが、オリジナルの譜面に由来するのかどうかは、知りません。違うのではないか、と怪しんでおります。Ensemble PHONIXは、劇の最後を「バッコスよ、ようこそ」のオリジナルで締めています。

tracks 1,2
http://www.youtube.com/watch?v=MgkkWyVX3PM&feature=relmfu

tracks 3,4
http://www.youtube.com/watch?v=SXgPf-vhzUY&feature=relmfu

track 5
http://www.youtube.com/watch?v=YC2jRESbfYs&feature=relmfu

track 6
http://www.youtube.com/watch?v=NGSvCZPLcjA&feature=relmfu

tracks 7,8
http://www.youtube.com/watch?v=ZDN4jZKoP3o&feature=relmfu

track 9
http://www.youtube.com/watch?v=fVMAelk0LVg&feature=relmfu

track 10
http://www.youtube.com/watch?v=kK75-rW3oKA&feature=relmfu

track 11
http://www.youtube.com/watch?v=3Wre0b2ZL1c&feature=relmfu

tracks 12,13
http://www.youtube.com/watch?v=FPVCLyiq9zg&feature=relmfu

tracks 14,15,16
http://www.youtube.com/watch?v=B9HLTiN_OU4&feature=relmfu

track 17
http://www.youtube.com/watch?v=fav5A21A9Ns&feature=relmfu

tracks 18,19
http://www.youtube.com/watch?v=i4dGpden2tQ&feature=relmfu

track 20
1) http://www.youtube.com/watch?v=G99S8iL6fpI&feature=relmfu
2) http://www.youtube.com/watch?v=Ezn8BYIOD58&feature=relmfu

track 21
http://www.youtube.com/watch?v=B6Xpm_b721s&feature=relmfu

私自身が初めて「ダニエルの物語」を通しで堪能したのは2004年に発売されたCDですが、これが今は手に入らないようです。mp3ファイルとしてAmazonからダウンロード出来るのは確認しております。
こちらは、中世の上演そのものではたぶんなかっただろう、5度音程での副声部進行があったり、楽器のかなりの多用もありますけれど、味わいという点では、上記リンクの映像よりも
「現代の人が楽しめる」
仕上がりになっているかと思います。

http://www.amazon.co.jp/dp/B0045D0FH6/

New Yorks Ensemble for Early Musicの人たちによるもので、上演自体は1986年だったようです。これは、劇の最後に「テ・デウム」を用いています。こちらのほうが正式なのでしょうね。

「ダニエルの物語」はキリストの誕生に結びつけられているのが冒頭部ではっきり分かる通り、クリスマスに演じられたものでした。のストーリーは、旧約聖書の「ダニエル書」第5章〜第6章と、第14章をもとに構成されています。まず、ダニエルがバビロンの王でユダヤ人を捕囚にしたネブカドネザル【ナブコドノゾル】にその夢解きの才によって重用された(創世記での、エジプト人に重用されたヨセフの話の反映があるのでしょうか?)ことを物語る1〜4章は省かれ、その子バルタザール【バルタッサル】が見舞われた事件・・・宴会中に突然正体不明の手が現れて壁に謎の文句を書いた・・・を解決し賛美され、直後に王はメド人ダリオに殺されてしまう場面を描く5、6章に沿って進みます。このダリオを、聖書上ではおそらく違う人物として扱われている(あるいは文脈の混乱で別人のように読めてしまう)ペルシャの王ダレイオス【ダリウス】と混同し、聖書上はその父キュロス【キロ】が周りに押し切られてやむを得ずダニエルを獅子の穴に落とした事件を述べる14章を、ダリウスがしたことにして物語をまとめています。実際に聖書でお読みになって頂ければ面白いでしょう。

なお、物語は史実とは異なっていることが判明しており、これは、ダニエル書がある意味では歴史を「叙事詩化」していることを物語るもの、と、私は理解しております。(ダリウスの混同と同工異曲ですが、バルタザルは実際にはネブカドネザルの子ではありませんでした。)

物語のキーポイントの箇所には必ず "Rex, in aeternum vive ! "(王よ、永遠【とわ】に生きよ!)とのラテン語句が歌われますので、それによって場面の区切りを知ることが出来ます。シンプルですが、劇を分かりやすくする良い工夫です。

劇の最初の方でバルタザルが悩む、謎の手が壁に描いた謎の文句は、「メネ・テケル・パルシン」ですが、これは中近東で用いられていた目方もしくは貨幣の単位に由来するものらしい、と研究で明らかになっているようです。これをダニエルは「数え、はかり、破る」と読んで謎解きをしたとのことです。(フェデリコ・バルバロ「講談社版 聖書」ダニエル書第5章の注釈)

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2012年4月22日 (日)

ややこしや、ややこしや。〜「間違いの狂言」

音楽か、と言われれば、それとはズレるのですけれど、狂言を採り上げてみます。

狂言は能にはさまって演じられるものだとばかり思い込んでいたら、いまは狂言だけの舞台でも見られるのだな、とは、ずっと知らずにいたことでした(岩波講座 能・狂言 Ⅴ「狂言の世界」1987 等)。

西洋のオペラに、もともと「インテルメッツォ」なる息抜き部分のささやかな笑劇があり、それがやがて独立でも高く評価されたことは、西洋音楽史では大きく採り上げられていますね。おかげでペルゴレージの『奥様女中』は単独で楽しまれるようになりました。これは彼自身のオペラ・セーリアである『誇り高い囚人』の幕間に演じられて(1833)評判になったもののようですが、上演形態は分かりませんけれど、すでに作曲者が亡くなって14年後の1752年にはパリで演じられたそうですから、メインであったはずのオペラ・セーリアよりも成功したのでしょう。ただし、「奥様女中」の台本は、先行するアルビノーニのインテルメッツォ「ピンピノーネ」に極めて似ているのだそうです(戸田幸策『オペラの誕生』東京書籍1995年 278-281頁参照、現在は平凡社ライブラリー)

日本の狂言(=能狂言)の演じられかたも元来は幕間劇であることは、室町時代から江戸時代にかけて通念化していたそうです。いまのようにただ狂言と呼ばれるのではなく、「『たてもの』にする芸能の合間に』演ずるがゆえに『間狂言(あいきょうげん)』」であったとのことです。
この「間狂言」にはまた別の意味も持たされていて、能が演じられる中で狂言役者さんに割り振られる役割そのもの(アイ)を指してもいるのですね。これは、能の主役が前シテ(主役の亡霊の仮の姿)・後シテ(主役が怨霊などとなって本性を現す姿)の二部構成と認識されるようになった16世紀以降、狂言方が前シテと後シテの「間を繋ぐ」存在と認識されたことに起因するようです(前掲「狂言の世界」24頁)。後者の意味での間狂言的キャラクターは、西洋でも、大型化したオペラ・ブッファの中にも、たとえばモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロのように存在し続けていました。

大きなものの合間に演じられるものだからと言って軽く見られていたわけでは決してない、とは、すでに世阿弥が『習道書(1430年成立)』に「をかしの役人(=狂言役者)のこと」と条を立てて、いわゆる狂言の劇が軽率になってはいけないことを諄々と説いているところを読むと強く感じることです(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』たちばな出版平成16年 354-355頁)。これは、狂言が役割とする、世俗の我々に近いおかしみが、世俗的であるが故に時事に先鋭的に突き刺さりがちであったことの裏返しなのかなぁ、と勘ぐったりしますが、本当のところは私には分かりません。ただ、公家の窮乏を描いた狂言を演じてお客を怒らせた事件が1424年にあったことが中世の有名な日記(『看聞雑記』)に記載されているとのことです。
狂言の台本はわりあいにパターン化されていて、時事ネタが盛り込みやすかったことが伺われます。活字で読むと、同じ筋書きがちょっとだけ書き換えられたりするだけで、同系統のものだと「○○同様」とか「○○同断」と記されるだけでまったく省かれていたりして、退屈この上ありません。(たとえば昭和17年刊の岩波文庫『能狂言』上巻の「今まいり」・「文相撲」・「鼻取相撲」・「蚊相撲」を続けて読むと、あとにいくほど、前のものと同じに、とのことわりでの省略が多くなります。続く「秀句傘」はまた違ったところも増えるので省略が少なくなります。231-260頁)こうした、パターン化された台本は、本来は狂言が口承で伝えられて来たものだとの性質に由来するのだとは言え、より本質的には、狂言の内容がまさに役者さんによって演じられることで初めて活き活きとするものだということを、端的に表す現象なのでしょう。

さらには、合間だからといって規模が小さいとは限らなかったものでもあるようです。
また目を西洋に転じますと、ルネサンス期のインテルメーディオは先に見た18世紀のインテルメッツォとは直接の繋がりはないらしいものの、合間におかれるという意味は同じだったそうで、しかもそれらのうちにバロックのオペラに繋がって行く大規模なもの、それじたい独立したと見なせるようなものもあったのだそうです(前掲『オペラの誕生』27-30頁)。

それでも、愉快さを本質としたからでしょうか、演じられる場が融通無碍であるほうがいい、なる暗黙の要請があったのではないか・・・それゆえに喜劇は西洋のものにしても日本にしても、シリアスなものよりはコンパクトな作りになっている傾向があるのではないか、といったような気はしております。

さて、シェークスピアの最初の喜劇と目されている『間違いの喜劇』は、やはり「場面の変化が単純で大広間で十分上演出来る」(小田島雄志訳書の解説、白水Uブックス シェークスピア全集 第5巻 128頁、前川正子氏筆)コンパクトなもので、シェークスピア作品中最短のものです。それでも登場人物は20人以上が要求され、これを大きな舞台で華やかに上演したものは、日本の誇る蜷川幸雄さん演出が映像化されていて(http://www.amazon.co.jp/dp/B000HLDAW2)、それで楽しむことが出来ます(本は松岡和子訳を使用 http://www.amazon.co.jp/dp/4480033041)。これはこれで、出演者全員が男性というところもまた面白さを拡大してくれる要因になっています。

本来のコンパクトさではどう演じられたのだろうか、と想像するよすがはないのですけれど、この喜劇は高橋康也さん(1932-2002)の巧みな翻案を野村萬斎さんがまた巧みに演出した『間違いの狂言』に結実しており、その本は書籍で読むことが出来(http://www.amazon.co.jp/dp/4560035806/)、演技はまた映像DVDで手軽に見ることができます(http://www.amazon.co.jp/dp/B0007YH5OI)。
この『間違いの狂言』は、文字通り狂言役者さんたちによって2001年にロンドンでも上演されて大当たりをとり、映像となっているのは2002年8月に野村萬斎さんが世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任したのを記念して公演したものです。

Machigainokyogen まず本においては、舞台のロケーションやキャラクターが洒落っ気タップリに日本化され(シェークスピアではシラクサだったものを瀬戸内の仮想の国<白草>、ドローミオが<太郎冠者>なのは、後者は狂言の定型そのままながら、ロンドンのお客さんたちにも音としてたいへん楽しめたであろうと想像します)、セリフはシェークスピアからさらにエッセンスだけを取り出して、原典すべてを日本語化したときの冗長さを賢明に回避し、シェークスピアが使っていた洒落は日本語の自由な洒落に置き換えられています。登場人物の数も14人以上、というところまで削減されています。
ですが、このコンパクトになった本だけでは、やはり作品として独立しないのであって(これは翻訳台本をそのまま上演した蜷川さんが『間違いの喜劇』を「つまんねぇ、くっだらねぇ本なんだよ・・・だからこそ役者さんたちが頑張っていて面白くしているんだ」といった趣旨のご発言をなさっているのに通じます)、萬斎さんの演出の面白さ、演じる万作さん万之介さん(2010年暮れに逝去)その他の役者さんたちのセリフや演技のリズムによって初めて生彩を帯びるのだと、映像を通じ痛いほどに感じることが出来ます。
逆に言えば、演じられて活きる本を書いたシェークスピアや高橋さんの凄さは、「舞台で演じられることで面白くなる」余地をきちんと残した、喜劇の舞台を知り尽くしている手腕から伺い知ることが出来るのです。
ノリの良い演技を生むためのリズミカルなことばをよりすぐった高橋さんの素晴らしさは、高橋さん亡き後、野村萬斎さんが人気番組「日本語であそぼう」で、『間違いの狂言』のプロローグ
「ややこしや、ややこしや。」
を取り出して大ヒットとなったことを思い浮かべれば誰もが腑に落ちるものではないかと思います。ですので、ご鑑賞に当たっては、映像と本の両方をご覧になることをお勧めします。

C0016702 『間違いの狂言』は、演じる舞台に最小限の加工をしている以外には、狂言に用いられるだけの道具で作り上げられていて、オリジナルのシェークスピアの精神を、オリジナルのシェークスピア喜劇を忠実になぞるのではなく、間違いのない狂言の様式に換骨奪胎することで実現させ、これにより完成の域に達しています。本当に驚くべきことだと思っております。

泣く演技、召使い太郎冠者をぶつ演技、台詞まわし、背景の囃子などは、伝統的な狂言の型をそのまま踏襲しています。男性だけがのぼる舞台で、西洋喜劇ならばすっかり女装したり、日本でも歌舞伎ならば声色まで女性に変えるところを、「女出立」という、衣装も簡単な縫箔と女帯に頭を美男鬘なる長い白麻布の被り物をつけただけで男声色のまま(イントネーションは女性風にします)、と、シンプルに仕立てておしまいです。大道具も一切ありません。
そんなシンプルな作りの舞台を面白くするのは、ちょっとだけ特別に組まれた舞台の枠と幕、伝統的な狂言ではありえないだろう、狂言用の面の豊富な活用であって、これらもつきつめてみれば、伝統の上にある最小限の装置に過ぎません。
2005年に再演されたとき会場で配られたプログラムに、観客がこの狂言を面白く見るポイントが書かれているのを引いてみます。

「この作品の舞台は、瀬戸内海の『黒草』という架空の島。『白草』の国の商人・直介(野村万作)は、妻と双子の息子たち、従者として引きとった双子と船旅をしていたところ、嵐に遭って妻と息子一人、従者一人と生き別れになってしまいます。数年後、成人した直介の息子『白草』の石之介(石田幸雄)は、従者の太郎冠者(野村萬斎)とともに、それぞれの兄弟を探しに『黒草』の国に出かけますが・・・・・・。一体どちらが『白草』の石之介で、どちらが『黒草』の太郎冠者? 二組の双子の取り違えが大騒動を巻き起こします。
 ここで観劇のための鍵を一つ。『黒草の主従は舞台左手の黒い幕から、白草の主従は舞台右手の白い幕から登・退場する』。このほかにも演出的な仕掛けがいくつか隠されています。こうした演出の法則を知っていただけると、登場人物たちの混乱ぶりをいっそう楽しんで頂けるでしょう。」

C0087139 幕以外の演出の法則で分かりやすいのは、面の使い方です。黒草の人々が面をつけていないときは、白草のメンバーは面をつけています。面そのものも、主人公である双子の石之介は「うそぶき」を、太郎冠者は「賢徳」をつける決まりで、現代劇として演じるときには至難である双子の表現を面の着脱でたやすく克服している点は最も愉快な見物のひとつです。
人が肩を組み合って作る門の前後で、面の取り付け取り外しで双子の太郎冠者が滑稽に演じ分けられる場面は、単に演技の巧妙さだけからではなく、舞台装置の省略が産み出す簡素な美を背景にしている点からも、注目すべきであると思います。
狂言の特質である時事の容易な取り込みも、時事というほど大げさではなく2002年上演当時のエンターテイメントネタなのですけれど、映画「タイタニック」の船首でのカップルの場面や「もののけじゃ〜(もののけ姫)」のセリフを取り込んで活かしているところに踏襲されています。

なにより、古語を擬製していながら分かりやすいセリフを、近代劇で弾丸のような勢いでまくしたてるのとは違い、古語のもつ、どちらかというとのんびりしたリズムでゆるゆると流して行くところが、全編なにかの音楽を聴いている感触を与えてくれますので、私には心地よく思われます。

作品が創作された流れでいうと、21世紀の「間違いの狂言」は日本の高橋康也が17世紀のシェークスピアを下敷きにしたもの、17世紀の「間違いの喜劇」はイギリスのシェークスピアが紀元前2世紀ローマのプラウトゥスの喜劇(プロットは『メナエクムス兄弟』、膨らませるために『アンピトルオ』)を活かしたもの、と、また比較に興味をそそられる条件が揃っているのですが、そこまでは首をつっこまずにおきましょう。古代ローマの喜劇が日本人からももっと興味を持たれるべきものだということは、小林標『ローマ喜劇 知られざる笑いの源泉』(中公新書2017、2009年 http://www.amazon.co.jp/dp/4121020170/)を参照下さい。台本そのものの翻訳は、いまのところ遺憾ながら古書でも高価です。

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2012年4月 8日 (日)

沈黙の響き〜能「道成寺」

Doujouji 能の実演はほとんど拝見したことがなく、本来、私には素人としても能を云々できるなにものをも持ち合わせていません。
ただ、耳の印象としての能楽囃子にはずっと魅了され続けています。

子供のころ、親のお友達が、親の境遇からいえば信じられないようなお茶のお家の一流のかたで、お宅へ連れて行かれると小面が飾ってあったことだけが、能に興味を引かれた原点でした。舞台を拝見する経験が薄い分をなんとかしたくて、やや豊富に出回るようになってから、財布が許す最大限の演能の映像は見て来ました。とはいえ、映像は古いものが多く、内容についての理解が今よりさらに薄いあいだは、目と合わせて聴き取れる情報量が足りな過ぎ、退屈で仕方なかったりしました。
ひとつには、能は現代の演劇に比較すると、映像にとらえ得る動きはあまりに少なく、ひとつには背後の囃子は文字通り沈黙している時間も短くないだけでなく、場合によっては囃子を「演奏」しているあいだにも、「演奏」される囃子そのものの中に、あまりにふんだんに沈黙が差し挟まれているからでもありました。このあたりは、歌舞伎とだいぶ違います。

謡のほうは、親が少々嗜んでいて、
「声の出を聴いてくれ」
とチェックを頼まれたことがあり、洋楽の歌唱の面から姿勢を観察しつつ、顔の上げ具合や顎の脱力具合と声の兼ね合いについて
「それでは喉が閉まって声が詰まる」
とか
「体に力が入ると声のほうが死んでしまう・・・かえって力をなくすんだよ」
とか生意気な口を挟んで、
「あ、それ、お師匠さんが仰っていたのと同じだ」
と思いがけない反応を返されて、本音はかえってビックリしてしまったことなどもありました。

囃子は、どうも、じかにやってみないと、洋楽感覚からでは、謡よりいっそう、どうとらえるべきか難しいものであるようです。
岩波書店の能・狂言の講座に図説がついていて、囃子の手組も八割り譜に豊富に模式化されているのですけれど、それを見ておいたところで、いまのところは、それらのうちのあまりにも僅かなものしか、実演の中に聴き取ることが出来ません。これは、謡もそうではあるのですが、とくに囃子においては、八割りはひとつひとつが洋楽のベースにある均質な8拍ではなく、1拍1拍のあいだが呼吸の具合で自在に伸縮するものであるところに、洋楽で育った者には感じ取りを困難にする要素が色濃くあるからではないかと感じています。舞台を体感していない者には、映像では、そこにあったはずの空気が平たく押し潰されて、こちらの身に重みがかぶさって来ないのです。

それでも、耳がやや慣れてくると、それなりに、いろんな面白さに気付かされるようになりました。・・・この点では、絵を付けず音声だけで聞かせられた方が、映像に移しきれない空気の密度と揺れを感じやすく思われます。

ひとつには、能にはどうも、今の日本人が思っているような節(フシ〜ドレミのような音階とか旋法とか)はないのではないか、という点。
謡でも弱吟はいくらか音階っぽいものが聴けるので、つい西洋音楽の音階と対比させたくもなり、鑑賞者向けの入門書では実際そのようにされていたりするのですけれど、昭和中盤までの謡の名人の謡い回しは、どう聴いても、たとえばよく現れる「ソラれれれ(み)」的な節の締めの部分は西洋音階の「ソラれれれ(み)」ほどくっきりしたものではなく、弱吟(柔吟)の呼び名が示す通り、喉首の力が抜けて明るくリラックスした声で日本語を幅広めのイントネーションで話すときの音程の上り下がりそのものであるかのようです。
剛吟になると、観賞用入門書でも、西洋音階との対象は曖昧にしか出来ていません。これはまた、激しく怒ったときに、ヒステリックなほうにではなく、ドスを利かせるほうに太く日本語を発音すると音程の幅が狭まりますので、それをそのまま取り込んでいるものと感じられます。
能で使われる唯一の旋律楽器である笛も、いまの義務教育で使われるリコーダーと異なり、後の指穴をあけても「正確なオクターブ上の音程」が出る作りにはなっておらず、高い音になるほど、後の指穴をあけたときの音程は、閉じたときの音程よりも激しく低くなっていきます。これが能の囃子の節回しの、独特な緊張感を産み出す大きな要因のひとつになっているのではないかと思います。
要は、遅くとも中世期の日本には、おそらく三味線の登場までは、近代的な意味での音程感覚存在しなかったのではないか、と考えざるを得ない、そんな現象が、能の中には現在でも強く残っている(ただし、笛は構造上の制約で変化が少ないものの、若い世代の謡や笛は多分に洋楽的な音階で吹かれたり謡われたりするようになっている気がします)。

もうひとつには、これは平家琵琶にも類似のことが言えるのですけれど、中世期の日本の音楽(各種の聲明と、弾奏や囃子を伴う語りや舞がその実態なので、こんにち私たちが音楽と呼ぶものとはズレがあります)は、部品セットの組み合わせと接着で決まっているようだ、という点。先ほどの非旋法的な調べと囃子、それにある一定の呼吸に基づく沈黙の間が一組の部品を作っていて、シナリオの違いによってその部品の組み合わせ順序を巧みに変更し、それらを各々のシナリオによって接着剤を変えて繋ぎ合わせて、まったく違うものとして私たちに呈示する特徴があるのです。
たとえば『高砂』の最初の部分なら、部品はワキの登場を示すのに「次第」〜「名ノリ」〜道行き、という具合に接着され、続いて格式の高い「真ノ一声」なる部品で、神格を持つシテを湧き出させます。
『道成寺』は、始まってやや時間が経って後に、怨霊であるシテの登場から「次第」〜「名ノリ」〜道行き、という具合です。
部品の並びが一緒なので、鑑賞者は、部品のパターンを覚えていれば、その背後にある筋書きが何であるかを容易に感じ取ることが出来るのですけれど、同時に、「次第」に先立つ囃子の沈黙の有無で、『高砂』と『道成寺』のドラマの質の違いを予感させられる、なる変化も楽しめるようになっている。ここが、ヨーロッパで同じ頃に発生した典礼劇、そこから発展した歌劇とは大きく異なるところではないかと思います。
さらに、『高砂』と『道成寺』の違いを聴いていくと、「高砂」では、「真ノ一声」の背後の囃子は神格化した老木を表すのどかな「置き鼓」というものになっているのですが、この「置き鼓」を、『道成寺』では小鼓を非常に長い間(ま)を空け、緊迫感の高い強い掛け声を使って間(ま)を張りつめたものにすることにより、「高砂」では<善的>であったリズムの印象を、<邪悪>なものに180度転換させてしまっている(呼び名も「乱拍子」、と変化しています)。
私のヘタな言葉ではなんだかこんなわけのわからない具合になるのですが、実際に耳にすれば、同じであるはずの部品が違う色合いなり、デフォルメなりで整形し直され、繋ぐ接着剤(掛け声の有無や沈黙の伸縮など)を変えることで、筋立ての明快さを失わないまま多様なドラマに仕立て直すやりかたは、日本の中世の芸能をもういちど考え直させる大切な<感覚の表象>であるように感じられてなりません。

『道成寺』は、手っ取り早くいえば、有名な安珍清姫伝説・・・美男の坊さん安珍にぞっこんになった清姫が、逃げて道成寺の鐘に隠れた安珍を追いかけ、蛇に身を変え、くだんの鐘に絡みつき、口から火を噴いて鐘を溶かしてしまった・・・の後日談として作られた能です。
それ以来鐘がなくなっていた道成寺にようやく新しい鐘が出来、坊さんたちがその落慶供養をしようとしたとき、清姫(本来はこの女性の名前は特定されていたわけではありません)の怨霊が白拍子に化けて現れ、鐘を再び落としてしまう、という、ご存知の通りの内容です。
能では、白拍子に化けている怨霊が鐘に飛び込んで落としてしまうところを大きな見所としていて、特殊な演出もさまざまあるようです。
幸いにして、その特殊な演出の数々は、いまは比較的手軽にDVDで鑑賞することが出来ます。

全体を収録したものは観世喜正さん【九阜会三世喜之さんの子息、1970年生】のものがあり、能で使われる作り物(『道成寺』の鐘もそうしたもののひとつ)の説明も特典映像で付いていて面白く鑑賞出来ます。喜正さんのシリーズは他にも能装束の種類や着付けの仕方の説明のあるもの、能面を豊富に見せてくれるものもあって、意欲的です。

もうひとつ全体を収録したものは梅若六郎さん【玄祥、1948年生】の映像で出ていて、これには観世宗家の清和さん(1959年生)、塩津哲生さん【あきお、1945年生、喜多流】の『道成寺』のダイジェストも収録されています。梅若玄祥さんの全曲は、どうも間を若干削って編集しているようなのがやや残念ですが、観世流の元来の演出はこちらで見ることができます。後半正体を現す鬼の頭の毛が白く(白頭【はくとう、しろがしら】)、坊さんたちに祈られて鐘から現れるときに、膝をついて鐘に両手をかけています。観世清和さん、観世喜正さんの鬼は「赤頭【アカガシラ】)という<小書>演出によっています。
塩津哲生さんのダイジェストが唯一、下掛りと呼ばれる流派のもので、上掛りの流派では鐘はドラマが始まる前に吊られるのに対し、塩津さんの映像ではドラマが始まってから寺男(能力【ノウリキ】と呼ばれています)たちが運んできて吊ることになっています。観世清和さん、塩津哲生さんとも、素人目にもたいへんに気迫のこもった素晴らしい舞台で、ダイジェストでしか見られないのが残念です。個人的には観世清和さんの謡と舞ぶりの気品に(私にとっては別に宗家だからというのではなく)強い魅力を感じます。
例の乱拍子・・・娘に化けた怨霊が烏帽子を付けて白拍子の舞を舞う部分・・・から鐘の落ちるところまでが最高の見せ場ではないかと思いますが、この乱拍子の部分では、小鼓は流派によって掛け声の長さが違います。観世清和さん、塩津さんの映像での小鼓は幸流で、短い掛け声。梅若六郎さんの映像で大倉流(大倉源次郎さん)、観世喜正さんの映像では幸清流で、幸流と大倉流の中間です。これは、私は大倉源次郎さんの均斉のとれた気迫と表情、響きが最も好きです。

『道成寺』に特化した映像ではないのですが、関根祥六さん祥人さん親子お二人の対話や稽古風景を収録した『能楽師』というDVDがあり、そこでは祥人さんが乱拍子の足運びを稽古する場面を見ることも出来ます。祥人さんがインタビューに答えて、世阿弥の言っていた「一調ニ機三声(・まず「ととのえ」て「そのとき」が来るのを静かに待ち的確に捉えてさあ謡い出したくなった、とそこまできて初めて声を出す・・・祥六さんが「これ、ほんとうにそうなんだよね」と仰っていること)」を体でやってみせる場面は、世阿弥の書『花鏡』他に出てくるこの言葉が、謡の技術にとどまるものではなく、能の体全体に関わるものだということを、如実に私たちに知らせてくれるもので、能に限らず、演じる・奏でるすべてに通じるものとして必見で貴重な記録であると思います。また、この映像の中で道成寺を演じる祥人さんが、鐘に飛び込む前に烏帽子を扇ではじき落とすタイミングが、他の映像のどんなベテランさんよりもはるかにこの場面に自然で必然的なタイミングであるように感じられて、これも全体の映像で見られないことを大変惜しく思っています。

「乱拍子」は録音されるには沈黙の時間が非常に長く、その沈黙が原則として等間隔ではない(観世喜正さんの映像の中ではほぼ等間隔ですが、例外なのでしょうか? 私が他を聴き間違えているのでしょうか?)など、鑑賞の条件としては音だけ、というのは大変に制約があるものなのですけれど、録音だけで映像よりも遥かに雄弁に<沈黙の響き>を聴かせてくれるものがあります。この録音は単独では入手できませんで、『能楽囃子体系』という大部の組み物の中に収録されています。観世寿夫さんの残したものです。これは何度繰り返して聴いても戦慄を覚える、まさに「音のないところに漂っている張りつめた空気」をそのまま閉じ込めたような音声で、もし能のお囃子を豊富に体験したいときには是非この『能楽囃子体系』をお手になさって、観世寿夫さんのこの絶妙の間にも接して頂ければと願うところであります。謡の節が決して洋楽的ではないことは、現在ではこの録音くらいしか、はっきり示してくれるものは無い気がします。

能の『道成寺』だけでこんなに文を引きずってしまいましたが、これを下敷きにした歌舞伎舞踊の『娘道成寺』にも、簡単に触れたいと思います。
いまのところDVD化された映像で見られるのは坂東玉三郎『京鹿子娘道成寺』だけのようですが、これも素晴らしい映像です。副音声の解説(葛西聖司さん)も非常に丁寧で、舞譜(私は花柳流の名取試験用の舞譜を興味本位で覗き込んだりしました)にも説明されていない振りの意味まで教えてもらえてたいへん勉強になります。
この『娘道成寺』をめぐっては踊りの成立までに紆余曲折の人間模様があって、それを渡辺保さんがそのものずばり『娘道成寺』という名の書籍にまとめていますが、古書でしか読めません。これがまた文庫化などされると嬉しいのですが。
こちらの歌舞伎舞踊の『娘道成寺』は、能に素材を求めたとは言っても、前に見た『勧進帳』が『安宅』を摂取したようにはストレートに能と関係してはいません。冒頭の大勢の坊さんたちとの問答を終えて、いよいよ踊り始めるところでは、能の『道成寺』の乱拍子前にある「次第」の、

花のほかには松ばかり

が、三味線によって近代化された長唄の節(これはもう洋楽の旋法に似てしまっています)で唄われますけれど、続く乱拍子そのものは簡略化されています。それでも、伝説では、こうした能の振りを歌舞伎役者に伝えた能楽師さんは、歌舞伎役者に教えたばかりに自死をよぎなくされたらしい、との話があるようで、江戸期には能と歌舞伎の間には想像を絶する格式の差のあったことが分かる、とのことです。以降、能から採り入れられているのは、続く「鐘づくし」の部分の詞だけで、しかもこれはもう『道成寺』から離れて『三井寺』という能のほうから採られています。物語は崩され、江戸期の娘ぶりを多様に踊る上で趣を付け加える程度にまで、能そのものの役割は、歌舞伎舞踊の中では後退しています。ここには近世という日本固有の時代区分(他世界と比較したとき、自国の世相の変化上、江戸期を「近代」に組み込め得ない故にこの区分が必要とされたのでしょう)の芽吹きから青々とした繁茂までが結晶となっているのです。

歌舞伎からはいったん作品を選んでしまっているのですけれど、重ねてまた歌舞伎舞踊の意義を観察してみたいなぁ、と思っております。そこまでには、またあいだをあけましょう。

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2012年3月31日 (土)

絵を読みきかせるように〜ドビュッシー「子供の領分」

絵本を読み聴かせるように、ではないのだろうな、と思いました。

ページをめくると、絵が6枚、次々に現れるのです。
それぞれに、ことばは何も添えられていません。
お父ちゃんが、それにかなりテキトーなお話を付けて、小さな可愛い我が娘に読み聞かせる。
娘が笑い転げるのが嬉しい父ちゃんは、妄想をますます膨らませて行く。

小品の集まりながら、「子供の領分」には、こんな味わいがありますね。

ドビュッシーは実際、愛娘にむけて、曲集の冒頭にこんなことばを添えています。

a ma chère petite Chouchou, avec les tendres excuses de son Père pour ce qui va suivre

日本語の楽譜では井口基成版がこれを

シュウシュウちゃんさぁ、おとうちゃん、こんなものつくっちまったんだよ

みたいに訳していました(ここまで下品ではありません)が、これがいちばんぴったりの訳だと感じています。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005IC03/look4wieckcom-22/ref=nosim/

http://tower.jp/item/441592/Claude-Debussy---The-composer-as-Pianist

414y20a1cfl_sl500_aa300_ 1曲目はピアノの技術的な練習に退屈して遊んでいるうちに妄想が広がって心は先におそとの広々とした草原に走り出して行ってしまって陽をさんさんと浴びたり。

2曲目は寝かしつけようとのろのろ頑張る象さんの、とろっとした目線をモノマネしているうちに象さんのほうが先に寝ちゃったり。

3曲目は可愛がっているお人形さんの手を取って、自分もドレスを着て・・・あ、父ちゃんのほうがドレスを着たらすね毛が出過ぎます!・・・くるくる踊ったり。

4曲目は粉雪が、これはちらちらではなく、かなりたくさん、風で視界が真っ白になるくらい降るのです。音にウエイトがないのは描いた「動く絵」の対象が「雪」だからです。

5曲目は牧神パーンの幼児姿を見るようです。

6曲目は当時最先端のケークウォークが愛嬌たっぷりに仕立て直されています。

「子供の領分」はドビュッシー自身の演奏がロールに刻印され、ロールピアノを用いて再生したものが録音されCDになっています。
聴くと、あまりに軽やかで滑らかで、テンポも楽譜の指示から受け止められるものとはだいぶ違う揺るぎが自在にあります。ロールピアノのメカニズムでドビュッシーそのものの演奏が歪められていやしないのだろうか、と疑ってみることも出来るのですが、彼の実演は歌曲伴奏をしている録音で残されていて、それと聴き合わせると、むしろペダルの使い方までよくぞこんなに精緻に記録できたものだ、と、ロールピアノの再生に信頼を置かされる結果になります。
(ドビュッシー自身がこのとき【1913年】の演奏の再生を聴いて感心して技術者に礼状を出している由、リーフレットに記載がありますし、再生のレコードへの録音に当たってもかなりの努力が払われたことが同じリーフレットで解説されています。)
それでも記録されるペダルの効果を疑ったのでしょうか、本来のドビュッシーの習慣なのでしょうか、低音はペダルを踏み直しながら強く打鍵する傾向が聴き取れます。
「中庸の速さで」とか「ちょっと動きを付けて(plusの読み方が難しいかもしれません)指示してあってもドビュッシー自身はその箇所は疾駆する傾向にあり、でいながら「ゴリウォークのケークウォーク」はほどよいテンポを保っていてアクセントも無用なほどの強調はなく、ドビュッシーが技術依存でピアノを弾く人ではなかったことを浮き彫りにしています。打鍵が柔らかなのも大きな特徴です。それ自体おそらくは無意識的に実現されるまで彼には演奏技術が身にしみていたことを表すかのように、手の左右とも(誰もがやるように)親指は不均等に強く叩かれていることがあるらしく感じますが無頓着ですし、音楽が損なわれることはありません。

さて、「子供の領分」の日本での普及版の楽譜は、奇しくも安川加寿子(音楽之友社)田中希代子(全音楽譜出版社)師弟の校訂したものが出ていて、見比べるとたいへんに興味深いものがあります。
レイアウトを見ますと、どちらもおそらくこの作品の初版を出したデュラン社のものを下敷きにしているはずですが、運指に対する考え方が対照的です。
例外箇所がそれぞれ少数あるものの、安川校訂は手の動きの容易さを大前提にしているのに対し、田中校訂はこの人のイメージする音がどうやったら出るかに意を注いでいるものと捉えております。
指先を貼付けたまま隣の鍵盤に移す運指(「人形へのセレナード」の26小節目など・・・じつは安川版は27小節目がそうなっている【右手小指なので明記の必要がないため数字は付けられていません】のですが、田中版だと26小節目の指を滑らせた先の音を粘らせるのが目的になるはずのところ、安川版だと最後の音を消して行くほうを自然に目ざしているのであって、語法的には大前提の延長線上にあります)もあれば、田中さんの演奏の録音から窺える「輪郭をクッキリ」させたい目的で、低音二音の和音が上昇して行くのを同じ指の組み合わせで打ち直させる運指をとったり(「ドクター・グラドゥス・アド・パルナッスム」68小節目・・・ここは安川版は和音ごとに指が変わりますが指の動きとしては自然さが優先されている結果でしょう)もあります。
ペダル指示にも重要な箇所で相違点がある場合もあります。
なるほど、楽譜を校訂するということは、そこに校訂者の演奏観が盛り込まれることでもあるのだなぁ、と興味深く読みました。

音楽というのは面倒と言えば面倒な芸ごとで、元来口承だったものが楽譜に書かれるようになると

・作り手はまず楽譜に書き落とす
・弾き手はそれを自分なりに読み取る
・聴き手は弾き手の読み取った結果を聴く

という手続きを経るわけで、聴き手が作者そのものの持っていたはずのイメージを聴けることは、録音が残りだした世代以降でなければ望めない。仮に作者の演奏したもの、演奏に関わったものを聴けたとしても、それが作者のイメージのすべてとは限らない(1回1回演奏が変わっていた可能性のほうが高い)。美術(撮影されたものを通さない場合)とは大きく異なるところかなぁ、と思います。

幸いにして、先述のように、「子供の領分」については、私たちはドビュッシー自身の演奏が再現されたものを聴くことが出来ます。
この人の演奏が若いときには次のようだった、とピエルネが回想しています。
「彼は文字通り鍵盤に襲いかかって、あらゆる効果を無理じいした。むずかしいところを弾くときは、騒々しく息を切らし、衝撃的な身ぶりで突慳貪(つっけんどん)な弾きかたをして、まるで楽器を相手にむかっ腹を立てているみたいだった。こうした欠点はやわらいでいき、ときおり、びっくりするほどふっくらと優しい効果を出して見せもした。欠点と美点の両方から、彼の演奏は、いつも何か非常に特異なものだったのである。」平島正郎『ドビュッシー』1966 32頁所載)
そう評された片鱗は、とくに第1曲と第5曲(「小さい羊飼い」)で顕著に窺い知ることが出来ます。
とくに、この曲集をドビュッシーの柔らかさで・ドビュッシーのウィットで弾いた録音は、(今回ほかに6つほど念のために聴き比べてみましたが)皆無なのです。とくに第1曲は、演奏家さんはさすがにきっちり勉強しているのね、と感心してしまうくらいマジメで、ドビュッシーのイメージした戯画には程遠いように思いました。
もしかしたら、ドビュッシーの、語尾をふうわりとおさめる語り口はフランス語の性質にも関係あるのかな、と考えて(もちろんそれはあるのが当然なのですけれど)、フランス人ではないピアニストの演奏も聴いてみたく思ったのですが、ドビュッシーのピアノ曲の録音は、フランス人ではなくてもフランスになんらかの(弱くはない)縁がある人のものしかなく、当のフランス人演奏家がいちばんマジメ度が高くてドビュッシー自身のロールに残した演奏との差が大きく、むしろチッコリーニだのミケランジェリだのワイセンベルクのほうがおかしみを秘めているのは皮肉に感じました。
唯一、ドビュッシーと全編まったく対照的な演奏をしていたのが田中希代子録音で(安川さんの演奏は4月下旬まで手に入らないとのことで、聴くのを諦めました)、この人はかなり気のお強い方だったのではないだろうか、と感じられるほど、音ひとつひとつが屹立していました。小品相手でもガチで組んで戦っているニュアンスです。これは、絵を話して聴かせてもらうほうではなくて、絵の中に自分が入ってしまっているかのようでした。この点で、彼女は国は違いますが、チェリストのデュプレと似た肌合いがありました。知らなかったのですが、田中さんも36歳というお若い時期に演奏活動が大変困難になるご病気にかかられたのですね。「子供の領分」をきっかけに彼女の演奏に触れてみたことは、自分にとってひとつのよい財産になった気がします。
翻って、ドビュッシーがフランス人やその縁者に熱心に録音されているのを見ると、日本人は自分の国に冷たいんじゃないかなあ、と、別の思いが胸をよぎったりもします。

なお、ドビュッシー自身の演奏では、第1曲の31小節目左手3拍目はc音から下降して行くのであって、現行印刷譜(d音から下降)とは異なっています。第6曲27小節、35小節の右手はh音オクターヴはCDではかなり小さい音で再現された録音を用いており注意しないと聴き取れません。そこはYoutubeにアップされているものと異なりますので、再生技術の違いの由来に興味が持たれますが、YouTubeにアップされているものはタッチの再現性が不完全な技術での再生か、CDと同じものの再生をさらに加工したものか、であろうかと思います。タッチの全般的な感触を追いかけると同一のもののようなのですが、だいぶ印象が違い、かつ、質が落ちます。

オマケ話ですが、全音から出ている田中校訂版の楽譜は、冒頭の解説を、高齢になってから日本の前衛音楽に突然目覚めた(ようにみえただけであって、たぶんずっと煩悶していた)貴重な作曲家、松平頼則の手で書かれています。これがまた彼らしい、徹底して難しい和声を読み解いた、読むのも難しい解説になっています。それだけ彼の音に対する読み取りの熱意が感じられ、摂取の気概に触れられる貴重な読物でもあります。
ドビュッシー自身は
「私の音楽はひたすら旋律だ」
と言っていた(平島著170頁など)のに、松平さんは必死で和声を読む。
日本の伝統的な音楽センスを洋楽器でどのように取り込むか、に本気で取り組み続けた彼は、教会旋法やそれに対する先人の豊富な音響付けが準備されていたドビュッシーと同じ方法論では、とうてい目的には向かえなかったことの象徴であるようにも見えて、これはこれでまた少し胸が痛むのであります。

YouTube上のドビュッシー自演(ケークウォーク)

CDのほうが良い再現だと思うのですけれど・・・

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2012年3月18日 (日)

どっちが強い? 愛と中毒〜ガーシュウィン「ポーギーとベス」

One of these mornings      いつか でかける朝に
Youre goin to rise up singing    おまえは 起きて歌うの
Then youll spread your wings   それから 翼ひろげて
And youll take the sky       お空にいくのでしょう
But till that morning        でも そんな朝がくるまでは
Theres a nothin can harm you    なにも心配しなくていいの
With daddy and mammy standin  父ちゃん母ちゃん 傍にいるから

"サマータイム Summer Time"の、2番の歌詞です。
ガーシュウィン「ポーギーとベス」の幕が開くと、漁師の若奥さんが赤ん坊を抱えて歌う子守唄です。

私は二十代の特に後半は飲屋街にいりびたりでしたが、所帯を持ってから、お酒は外ではほとんど飲まず、ウチでも350ml缶を日にひと缶程度でしたので、デブの割に体重以外は健康診断でも悪い数字は出たことがありませんでした。
ただ、タバコは、日に10本ながら、吸い続けてきました。
家内の死後はとくに、気晴らしはせいぜい喫煙でした。煙を吐くと、憂さも一緒に吐き出されて行くようで、ほんのひととき安らぎを得た気がするからでした。
ところが、この6年の間に、それまでなんともなかった血圧が徐々に上がり始めて、とうとう先月には高血圧の危険域にまで行ってしまい、数字を見たら何だか「くらっ」ときてしまいました。
昨年、少しの減量で目標達成したりしていました。でも食事を気持ちに無理があっても削ったりしたのが、災いしたようです。その後かえって血圧は急上昇しました。
それで、先日さすがにお医者で降圧剤を処方してもらいました。
幸い1週間で、朝に服薬すれば、夜には正常値の範囲内におさまり始めました。
禁煙も、以前はニコチンガムでも他の方法でも失敗したので、無理のないように、とりあえず1日の本数の半減は達成して、あとは「禁断症状」が出た時だけ1本ポケットに忍ばせて喫煙所に向かうよう心がけているところです。食事で無理をしたのと同じになっては元も子もありません。

何の話をしようとしてるんだっけ?

そう、ニコチン中毒にしても、いかに身が危険であると分かっていても、人には他から強制されてヤメラレなんかしないんだ、という事実を、無理矢理ガーシュウィン作品に結びつけようとしているのであります。

Pogyandbess「ポーギーとベス」は、単純ではないそのストーリーを極めて単純にまとめてしまえば、足の不自由なポーギーが麻薬中毒の娼婦ベスを救ったことから一緒に生活を始める話です。でも結局ベスは、麻薬中毒から回復できなくて、ポーギーが事件で刑務所に拘留されているあいだ、ポーギーがいつ戻るか分からない不安に勝てなかったからでしょうか、売人の男が手にした麻薬の力に負け、売人と一緒にニューヨークへ行ってしまいます。一週間で開放されたポーギーが戻ってきたとき、ベスは家にいませんでした。ポーギーはまわりの人からいきさつを聞き、1000マイル・・・1610Kmくらいなんですね!・・・1000マイル離れているという、彼のまったく知らない土地であるニューヨークにベスを探しに行く決意をします。ベスは彼を強くしてくれ彼に愛の力を信じさせてくれたからです。
でもしかし、
「愛は中毒より強し」
ではないのです。
ベスだって、たぶん初めて、ああ私、本当にこの男の「こころ」に惚れたんだわ、だった。だけれど
「中毒は愛の心を超えた」
のでした。ですから、愛に目覚めた男ポーギーは
「愛より強い中毒に寛容に、しかし敢然と立ち向かう」
のであります。

「ポーギーとベス」の舞台は漁師たちの貧民街で、二人の出会いの周囲では貧しさゆえに博打と殺人も日常茶飯事、病めば救ってくれるのは霊能者おばさん、その向こうの神様だけです。
いまはこの歌がガーシュウィンの名前を記憶させてくれている"Summer Time"は、序曲が終わってすぐ歌われ、またたく間に観衆の心を奪ってしまいます。が、ガーシュウィンの生前、作品全体は彼の意向でミュージカル劇場で上演されたため、ミュージカルには不似合いな重たい社会性が災いして、ヒットしませんでした。今では名高いオペラとして扱われていますが、見ることの出来る機会は思っているほど多くはない気がします。ガーシュウィンはミュージカルの多作家だったからでしょうか? それらのミュージカルが日本や本国アメリカ合衆国でどの程度上演されているかも分かりませんけれど。

私自身、「ポーギーとベス」は、1991年日本で上演された舞台で初めて全曲を知りました。それまでは"Summer Time"ただ1曲を通じて「ポーギーとベス」なる劇作品があるんだなぁ、と漠然と知っているだけでした。

"Summer Time"の歌詞は、夏は大漁になるので漁師の父ちゃんが金持ちになるから、と、生活の経済的な苦しみをそれとなく希望に変えて唄う、子守唄お決まりのパターンなのですけれど、冒頭に掲げた2番は、ちょっと意味深長です。一読して分かりますように、ここには「いずれ訪れる死(昇天)」が「眠り」と抱き合わされて、安らぎの保証人になっています。・・・これは、劇全体がアメリカ黒人社会を舞台としていることから、黒人霊歌に見られるような彼らの精神生活を巧みに反映しているのだと言えるでしょう。

"Summer Time"は、劇の最初では、あたかも清らかな光が厳しい暮らしをやわらかに包むように、舞台から響いてきます。
この歌は劇のキーとして、フルメロディではあと2回歌われるのですが、2回目は、赤ん坊のお父ちゃんたちが漁に出た、よりによってその日にハリケーンが来てしまい、赤ん坊の母親が夫の無事を祈って切々と歌う設定になっています。3回目は、残念ながら漁師もその母親も死んでしまったので、赤ん坊をひきとって抱いているベスによって歌われます。このときベスは2番を歌いません。1番を際立たせて、経済的には無力なポーギーを愛してしまったベスの不安を歌で浮き出させる意図だったのでしょうか。

劇のそれぞれの部分でそれぞれのムードにぴったりと当てはまってしまう不思議なこの子守唄の魅力は、単独で聴いても美しいそのメロディでごまかされずに、劇全体の中で聴かれるべきものではないかな、と、常々思っています。(あとでリンクするYouTubeの映像などで聴き比べてみて下さい。たとえどんなに見事に歌われても、劇から離れた歌唱は、劇の中に置かれているときに持っている意味を失ってしまっているのを、知ることが出来るでしょう。)

1959年に映画になったそうなのですが、これがガーシュウィン未亡人の目には出来が悪かったらしく、再上演の道がまったく封じられてしまったそうです。
いま見ることの出来る映像は、サイモン・ラトル指揮ロンドンフィルのグラインドボーン音楽祭での上演をベースにした1993年発売のもので、幸いなことにたいへんよい出来映えです。ポーギー役のウィラード・ホワイト、ベス役のシンシア・ヘイモンを始めとした歌手陣がすべて名唱でもあります。
日本版はいま出ていないようです(中古はAmazonで入手できるようです)が、輸入盤ならば新品で入手可能です。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00005LIN0/

"SummerTime"を物語のキーポイントに置いたような、ひとつの歌をまるまるキーポイントにする着想は、クラシックオペラにはないように思います。
この巧みさにも唸りますが、「ポーギーとベス」で涙させられる場面は"SummerTime"が歌われる箇所に限りません。
私は見るたびに、第2幕第1場でポーギーが「おまえはオレの女だ」と言うのにベスが「あたしはあんたの女だよ」と応じる下リで、文字通りぼろぼろになってしまいます。
おなじ第2幕の第3場にさまざまな物売り(苺とかカニとか)が登場する場面の、ガーシュウィンによる美しくもリアルな音の模写も、舞台こそ現実の中なのだ、と私たちを錯覚の世界に放り込んだりします。
幕切れの、ポーギーと彼を巡る人たちのやりとりは悲劇的な内容ですのに、音楽はどこまでも明るい。これがまた、ゴスペルの世界への作曲者の理解の深さを思い知らさせてくれて見事です。将来というものへの、こんなにも身近でこんなにも困難な、しかしながらこんなに希望に溢れた像を提供してくれた音楽劇作家は、果たしてガーシュウィン以外にいたでしょうか? いま新たに存在しているでしょうか?

そういえば、作曲したガーシュウィンもたいへんなヘビースモーカーだったはずです。
有名な写真ではどれでも、彼は葉巻を得意げにくわえています。
日本で国内盤が出なくなったのは、喫煙に風当たりを強くしてきているこの国では、葉巻をくわえてばっかりのガーシュウィンの写真が不都合になったからなのでしょうか?
日本の喫煙者はいま、喫煙所に閉じ込められなければ煙草を吸えません。
吸い殻を平気でじべたにポイしたり、向かい側にいる人の顔にも平気で煙を吹き付けるなど、自分たちのマナーの悪さが首を絞めたことは否めないでしょう。
でも、煙草だけじゃない、「良くない」ものはとにかく封じ込めるのがいちばん、なのが、いまの日本の流儀なのかなぁ。もう、おおらかさのかけらもなくなりました。
紫煙のただよわないところでは、ガーシュウィン作品の「臭さ」は、たぶん忘れられて行ってしまう運命にあるのではないかな、と、ちょっと【だけ?】哀しく感じています。

團伊玖磨さんの名随筆集「パイプのけむり」も、この国ではいずれ禁書になってしまうのでしょうかねぇ?

"Summer Time"を集めたページ
http://www.magictrain.biz/wp/?p=3269

HMVでの「ポーギーとベス」検索結果(全曲盤とは限りません)
http://www.hmv.co.jp/search/list?category=1%2C2%2C3%2C4%2C5%2C7%2C9%2C10%2C23%2C24%2C6&keyword=Porgy+Bess&target=KEYWORD&advanced=1&formattype=1&pagesize=3&pagenum=1

「サマータイム」歌唱映像からいくつか。

ラトル指揮DVDでの、最初のSummerTime場面

上演が封じられた1959年映画のもの

ビリー・ホリディによる1936年の歌唱(彼女の歌は他よりも大好きなのですが!)

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2012年3月11日 (日)

一期一会〜「勧進帳」

日本から一歩も出たことがないにも関わらず洋楽育ちでございますので、洋楽での体験でしかお話できません。
協奏曲なる演目の数々がございまして、これは18世紀後半以降に作られたものはみな独奏者が難しいことを弾きまくる一方で伴奏するオーケストラは暇ですので、独奏者のアクロバットをのんびり見物することが出来ます。(*1)
私も所属していたアマチュアオーケストラで、ある有名な協奏曲を、ある有名な独奏者Eさんとご一緒することになりました。独奏部も技術的にそんなに難しくはなく、カデンツァ(*2)以外はちょこっと頑張って練習すれば素人でも弾けるものではありました。私は子供の頃ラジオでその曲をEさんが弾くのを何度も聞いたことがありました。そんなに難しい曲ではないにも関わらず、聴くたびにいつも間違うのです。で、Eさんと共演することになって、内心、「けっ!」と思っておりました。
ところが、Eさん、「緊張するから」とぶっつけ本番一度きりで、しかもラジオで数度聴いた時とは違って一音も間違うことなく、その上過去聴いたどんな演奏よりも気迫のこもった、それこそ今出した音がホールのどこに当たって返ってくるかが、バックで演奏している私の眼にもしっかり見えるという驚異的な演奏をなさったのでした。その直後、Eさんは救急車で病院に入ったと、あとできかされました。・・・ではなんでラジオでも流された過去何度ものライヴでは間違いばかりやっていたのか、にはいろんな背景があるとも承ったのですけれど、その話は省きます。
一方で、超名人ながら日本では知られていないかたとの共演の際は、私は前にもいちど共演したことがあるので、なんとかその方が日本でも有名になれますように、と、気合いが入って伴奏に努めたのですけれど、本番だけが何故か独奏はぼろぼろよれよれで、お客様に
「なんだあの人は」
と言われてしまった残念な思い出もあります。これは、合間に日銭を稼いでいる最中、好きだけれど日本でしか食べられないんだ、と協奏曲本番の数日前に生ガキを食って当たってしまっていたのだそうです。

ステージの一瞬は、とくに技を披露すべき人にとって、いかに恐ろしいものであるか、を、この二つの思い出からだけでも強く感じております。

*1:ちなみにそれ以前の創作でも声楽の伴奏だと似たようなことが言えます。
*2:曲の終わりの直前に独奏が持てる技術のあらん限りを伴奏なしでお客様に披露する部分です。


Knjincho で、洋楽の話で始めておきながら、何故か「勧進帳」なのであります。

歌舞伎も大好きなのですが、サラリーマンにはなかなか見に行くチャンスがありません。で、「勧進帳」はナマを見たことがありません。

いまは映像での鑑賞もたやすくなって、中学校でもDVDで授業中に「勧進帳」を全部見られたりするんだそうです(亡妻から聞きました)。

私は、NHKと松竹が協力して製作した歌舞伎名作撰のシリーズで、平成9(1997)年の市川團十郎(十二代)の弁慶・尾上菊五郎(七代目)の義経・中村富十郎(五代目)の富樫の映像を2004年に発行したもので、ようやく全編を見ました。
小さい頃、白黒テレビで放送された七代目梅幸の義経を見た印象が何故か強く残っていて、それしか覚えていませんでしたので、新鮮なのにとても懐かしい気がしました。

筋立ては日本人なら誰でも知っているし、珍しくも何ともないと一方では思っていましたが、その後、七代目幸四郎・六代目菊五郎・十五代目羽左衛門の昭和18(1943)年の映像も「貴重だ」とのふれこみに魅かれて入手して眺めているうち、とくに七代目幸四郎といまの團十郎さんの弁慶の違いが気になり出しました。比べてみると、平成9年の團十郎さんの弁慶は、前半がとってもおとなしいのです。
それが気になり出して見ると、七代目幸四郎の映像のほうは、演技がみんな当時の時代劇と共通していて、より親しみが持てるように感じられてきました。知る人ぞ知る弁慶役者さんだったそうだから、力量差なのであって仕方がないのかな、と思い込んでおりました。

ですが、たちかえってもういちど考えてみると、「勧進帳」は能の「安宅(あたか)」をベースとしているのはまた周知のことでして、台本を見比べましても、「安宅」のことばがかなりの割合でそのまま採り入れられています。そこを出発点にすると、七代目幸四郎の後半の舞(延年の舞)は曲線的で、能の舞とは全く違います。歌舞伎踊りになっています。これは、團十郎さんの平成9年のほうが、むしろ能の要素と歌舞伎の要素を適度に溶け合わせているように見えて仕方なくなりました。
これは、團十郎さんの演技には(収録された日の演技でそれが成功したかどうかは別として)なにか意図があるのではないだろうか、と疑い出したのです。
きっかけは「それは能的な演技なのではないか」との疑問でしたが、これ自体は誤りでした。

ちょっと探してみましたら、團十郎さんが青山学院大で集中講義したときのお話をベースにした本が出ていまして(『團十郎の歌舞伎案内』PHP新書、2008年〜役者さんがお書きになった歌舞伎入門では最も優れた本だと、私は感じております)、いくつか、ああやっぱり、と得心させられるおことばが目に入りました。

「勧進帳」にはいくつかの山場があります。その最初のほうのもののひとつが勧進帳読み上げの場面です。ここで、本当は偽物の勧進帳を弁慶が読み始めるところを富樫が覗きに行き、気付いた弁慶がハッと構えて富樫との見得(天地人の見得)になります。
七代目幸四郎は、昭和18年の映像で、この見得のあと、富樫のほうに勧進帳を差し出して、つつっ、と前に出ます。
いまの團十郎さんは、それをやらないのです。
やる、やらない、は、まずこの箇所の弁慶・富樫、そして後で笠を深く被って控えている義経三者の心理に対する役者さんたちそれぞれの解釈が絡みます。團十郎さんの解釈は、こうです。

関守である富樫が、その勧進帳を読む弁慶の様子をうかがうんです。弁慶はそれにハッと気づいて本物の勧進帳ではない、何も書かれていないその巻物を隠す。『のぞくな、見せないぞ』といった趣になる。ですがこれだと、人間として”小さい”ように思うんですね。/弁慶は、決して富樫に巻物をのぞかれてバレたら困るからあわてて隠すのではない、富樫のほうも、のぞこうとしているのではない、とわたくしは思います。富樫からすれば『義経とはどういう人物なんだろう』と思いを馳せている。勧進帳が本物か偽物かではなく、その向こうにいる義経が本物かどうかを見ようとする。ですから弁慶もハッとなって『何をするんだ』という動作になる。勧進帳の真偽を乗り越えた気持ちで、あの場面はやるべきだと思います。/それにしましても、富樫はどの瞬間に座っている強力(ごうりき・・・山伏の下働きの荷物担ぎ)が義経だと悟るのか。(後略)」(『團十郎の歌舞伎案内』197-198頁)

この線で行けば、弁慶のいちばんにすべきは「強力が義経だとさとられてはいけない」ことなので、安宅の関を逃れるまでは平静でいなければならない。
平成9年の映像が収録された舞台では富十郎さんの富樫は・・・これは私は富十郎さんが大好きでしたので大満足の演技ではあったのですが・・・團十郎さんの解釈とそこからくる演技とはかみ合っているとは思えず、効果が半減しているように感じます。でも、そういうことが起こるのが、本来舞台というものでしょう。収録された、固定された映像の難しいところは、まさにそれが「固定されてしまう」怖さだ、と、つくづく思われました。

團十郎さんが、解釈は変えないまでも演技は平成9年映像の通りに固定しているわけはなかろう、というのが次の疑問でしたが、これは幸い2007年パリ公演「勧進帳」で團十郎さんの演じた弁慶がDVD化されているので簡単に解消できました(YouTubeに團十郎襲名披露時の勧進帳の映像も見つけましたが、これもまた違います。このときの富樫は先代の勘三郎さんです)。こちらでの團十郎さんは、七代目幸四郎の演技も充分ご自身の体の中に入っていることをはっきり見せてくれます。パリ公演での演技は、日本人ではない相手に分かりやすく、との意図もあったのでしょうか、むしろ七代目幸四郎のものに似ているのです。しかしながら先ほどの「天地人の見得」はご自身の解釈をしっかり守っていらしたり、舞い方もご自身のものになっていたり、と、ベースはベース、応用は応用、の線引きがきっちり出来ていることを併せて知らしめてくれます。

じつに、本来、舞台は演じ手にとっても観客にとっても、「一期一会」なのだなあ、と強く思い知らされた<映像鑑賞>体験をさせていただけたのでありました。


「勧進帳」はディテイルや背景に、非常に注目すべき特徴をたくさん持っていて、それを豊富に覗き見ると楽しみがつきません。

ですがそうでなくとも長々としがちな私です、そこは若干のご紹介をし、参考書籍をお読み下さるお勧めまでに留めます。・・・でもその若干のご紹介が、ここまでくらいの分量になるかも知れません。

「勧進帳」を初めてじっくり見たときに一番驚いたのは、台詞まわしがメロディ・・・節というべきものになっていること。これは最初の富樫の名乗り(歌舞伎ではツラネというのでしょうか、私には正確に区別が出来ません)でハッとさせられたのが第一でした。歌舞伎は舞台で幾つか拝見しておりますので、それまで特段意識したことがなかったのですけれど、富樫の名乗るのを聴いていましたら、これはもしかして定型とでも言うべきものがあるのではないか、と思われてきた。それで数種類CDを聴いて確かめてみましたら、当然役者さんによって色合いが違う。でも、節は同じなのでした。畏れ入ってしまいました。セリフが節になっているのは伝統芸能の中でも、勧進帳がモデルとした「安宅」と対照してみるだけではっきり分かる、歌舞伎ならではの特徴、と思い知りました。

「勧進帳」は長唄も最初から最後まで起伏が明確で、一編の音絵巻のようです。弁慶の舞の部分は歌舞伎の舞の調べが巧みに採り入れられているのを、私のような素人でもあざやかに聴き取ることが出来ます。能の舞の節が同じものを使い回すことを基本している点は前に紹介しました(【音を読む】同じものを使い回す(日本の能) http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-6a77.html)。その節が、「勧進帳」後半、弁慶が舞うところで聞こえてきます。ところが、歌舞伎で使っている笛は能のものとは違うはずですから、これは能の模倣なのですよね。いったいどんなふうに「譜面」にして、これほど巧みに模倣できたのか、いずれ是非知りたいと思っております。邦楽をなさる方は、ヘンに洋楽の音符で記譜することをお考えにならず、「勧進帳」の手法をご研究なさったら良いのではないでしょうか?

で、素人で気付くのはここまでですが、「勧進帳」の音楽が杵屋六三郎の手によって作り上げられたとき、その試演を聴いた若き日の河竹黙阿弥が「ぞっとする程よく思はれた」と言っています。「勧進帳」の音楽は、当時(19世紀前半)の日本音楽を結集した上で長唄に咀嚼された、大変なものなのだということを含め、その素晴らしさの秘密は、渡辺保『勧進帳----日本人論の原像』(ちくま新書 024 1995年 43-48頁)に詳しく記されています。
渡辺著は「勧進帳」の台本の諸処にある工夫について第四章まるまる1章80ページを割いて丁寧に教えてくれる本で、「勧進帳」と、その拠り所となった「義経記」「安宅」との関係も、非常に分かりやすく、しかもごまかしなく書かれていますので、是非お読みの上「勧進帳」の舞台なり映像なりをお楽しみ頂ければとも思います。(渡辺氏の、昔見た名優への思い入れもあって、今の役者さんも贔屓したい私などは戸惑う部分もありますけれど、そんなところも含めて面白くてよい本です。ただ、値段は普通の新書ですので680円でおトクですが、いまは新刊では出ていないのかな? 古書ではわりと出回っています。)

対比しておくと面白い能「安宅」は、DVDで入手できる映像はありません。謡だけであれば観世流のCDがあります。勿論囃子が入っていませんが、歌舞伎とは違う能の緩急をつかむ上では聴いておいたほうがいいのかな、とは感じます。ただし、話の上で重要な役割を果たすアイ(狂言方のひとが務める語り主体の、能の中で言えば息の抜ける部分)は観世のCDでは共通して抜けておりますので、それが残念です。「安宅」はアイにストーリー上たいへん重要な役割やセリフを持たせてありますから、せめてテキストは参照しておきたいところです。古典文学の全集や集成には大抵収録されています。「安宅」にはあって「勧進帳」では省かれているもの、またその逆、についてもまた渡辺著で理解できますが、いまふたつだけ私が強い印象を受けた部分を採り上げるなら、

・「安宅」は最初に義経一行が関の前で不安にかられ、そこで初めて弁慶が義経を強力に変装させる、すなわち、最初から緊迫感いっぱいに始める。それに対し「勧進帳」は不安の部分は大幅に省略することで、始まりはいくぶんゆるゆるした印象を客席に持たせる工夫をしたように見える。

・「勧進帳」にある「山伏問答(勧進帳読み上げだけでは信用しなかった富樫が、山伏の扮装などについて弁慶にそのもつ意味合いを糾問する・・・講談から採り入れられたとのことですが現行講談にあるかどうか私には突き詰められませんでした)は「安宅」にはない。「安宅」では勧進帳読み上げだけで関守たちは恐れをなしてしまって義経一行を通してしまう。このことには室町期と江戸期の山伏に対する畏怖の念の違いという歴史・民俗的な意味合いもあると思われる(渡辺著でも触れている)。そのことは措いても、この部分には台本の工夫の面白さがある。「勧進帳」の「山伏問答」の、富樫が問う内容は、「安宅」では先に勧進帳読み上げの前に置かれる「ノット(呪詞〜関を越えたら富樫たちが殺すと言っているので、潔く殺されよう、という名目で最後の勤行を始める・・・内容はことばは上品ながら「お我々山伏を殺したらおまえらは確実に地獄行きだなぁ、ザマぁみろ、みたいな鈍い文句です)」で謡われていることを中心に組み立てられている。翻って、「勧進帳」では「ノット」から「山伏問答」に移されることになる項目を注意深く省いている

くらいにしておくべきでしょうか。「安宅」と「勧進帳」は、それが対象としたお客の時代と質の違いを随所で暗示している点で、非常に興味深い対照をなしていますから、そちらの方面からのツッコミがもっとたくさんあってもいいような気がします。

で、「山伏問答」で富樫が問い弁慶が答える山伏の出で立ちの具体的な姿や意味合いは小峰弥彦『弁慶はなぜ勧進帳を読むのか』(NHK出版生活人新書 2008)に載っています。ただ、この本はタイトルの問いに直接答えているとはどうも思えません。

まず「勧進」とは何なのか、それが東大寺とどう結びつくのか、どうして「勧進帳」などというものがその「勧進」という行為に結びつくのか、をストレートにそれだけで記したものはありませんが、中世における勧進の意味をきちんと突き詰めた本は幾つかあり、そのなかで出版は最新(収録論文はずっと以前のものですが、いまでも意義深いものがあります)なのは、中ノ堂一信『中世勧進の研究』(法蔵館 2012)です。
実はこの勧進ということばは室町時代以後だんだんに演能の催しの際に使われていくようになるのですが、なぜそうなったか、を巡っても中ノ堂著が重要なヒントを与えてくれます。そちらに話が行ってしまうとますます長くなるので、今回はやめておきます。

なお、弁慶が読んでいる勧進帳の文句は当然創作されたものですが(だれが何を元に作ったのでしょうね?)、東大寺再建の勧進がなされたおりの勧進の中心であった重源の手になる勧進帳の文は残っているそうです。印刷された史料に行き当たるゆとりが無くて残念でしたが、Wikipediaにいちおう掲載されていますので、興味があったらご覧下さい。(ただし、この記事の、後白河法皇による重源大勧進任命は事実ではありません。中ノ堂著参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E9%80%B2#.E5.8B.A7.E9.80.B2.E5.B8.B3

毎度のことながら、だらだら長くなってしまって、本当にスミマセン。

 

これは梅幸さんの義経ですね。これではない舞台の放送をみたのだと思うのですが・・・ 昭和36年の由。

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2012年3月 4日 (日)

「昔」は「今」〜カルミナ・ブラーナ

「今」に倦むとき、「昔」に理想を求めるのは、洋の東西を問わず、ひとのならいのようです。
中国の王朝時代を生きた人々が常に堯舜禹を理想としてきたように、古代ギリシャ人がヘシオドスの神統記に見られるとおり時代が創世のときを遠ざかるほど劣化していく歴史観を持っていたように、あるいは日本にも仏教由来の末法史観が根強くあって、源信の往生要集や慈円の愚管抄や日本独自のあまたの浄土教を産み出したように、「今」は救いようのない時代だ、だから何か「救われる」方法を、もっとも原初的なしかたで見出さなければならない、なる発想は、間断なく現れ続けてきました。

ところで、音楽に関してはどうでしょうか?
少なくともヨーロッパ音楽については、ヨーロッパ自体もヨーロッパから音楽を輸入した「われわれ」も、ちょっと違っていたかも知れません。

Lareverdie ヨーロッパ音楽の、古い時代のものに目を開かれるようになったのは、一般的にはまだそんなに以前のことではなく、20世紀半ばのことではなかったでしょうか?
学者さんの研究に関わりのない人たちが最もセンセーショナルな経験としてヨーロッパ中世の音楽の存在を知らされたのは、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」によってだったか、と思います。
とはいえ、これはご承知の通り中世の音楽そのものを示したのではなくて、中世の詞にオルフが曲をつけた新作でした。オルフは中世の本「カルミナ・ブラーナ」を1934年に入手(本そのものはベネディクトボイエルン修道院で1803年に再発見された13世紀の写本を、1847年にJ.A.シュメラーというひとが活字化し出版したもの)、夢中で曲をつけたのだそうです。そこで採り入れられた作曲方法は、
「静的な構成理念・・・節の上では音楽の発展というものが存在しない。いったん発見された音楽的書式は(中略)どれだけ繰り返されようとも、形は一定である。その繰り返しを可能とし、効果をもたらしているのは、内容の簡潔さ」(オルフ自身の言明を日本語訳したもの。ワーナーで出ている廉価CDの解説より。WPCS21096)
であって、単純な和声・原色的な楽器法・単旋律的手法、という具合にまとめられるのだそうです。

以後しばらく、ヨーロッパ中世の音楽には、このイメージが付いて回ることになったのではないかと感じます。

「カルミナ・ブラーナ」とは本の名前ですね。本の話そのものには触れませんが、「カルミナ・ブラーナ」には、それがどのように歌われたか、の譜があまりついていないのだそうです(私は残念ながら見たことがありません)。それでも、オルフが曲をつけたものとは当然まったく違う性質のものだと言うことは、現在では研究の成果で明らかになっています。同時に、中世にはどんな種類の音楽が、どのように「歌われ」ていたか、も、だいぶ明らかになったようです。
ですから、いまはもう、オルフの作曲したものではなく、一部とはいえ、「カルミナ・ブラーナ」そのものに描かれた旋律で、私たちは「カルミナ・ブラーナ」の音楽を聴くことが出来ます。そしてそれが、オルフの描いたほど「単純」ではないことも、はっきりと知ることが出来ます(ただし、それはオルフの功績を否定するものではありません。オルフの作品は「中世の素材を用いた、彼の時代の優れた表現」であると評価されるべきであることは確実です)。

では、このように研究で明らかになった「カルミナ・ブラーナ」の旋律を聴ける事自体が、私たちに真実の「古き良き昔」を体験させてくれるのでしょうか?

「カルミナ・ブラーナ」は再発見当初、中世を奔放に生きた遍歴学生(当時、新知識を求めるとなると変人扱いされてひとつところに安住できず大学【とはまだ呼びきれるものではなかったかも知れません、修道院もまた学院でした】を渡り歩く人々が少なからずいたと見なされています)が皮肉な目で綴った詞を集成したのではないか、という見方も強く、その奔放な印象が一人歩きしたきらいがあります。オルフの作曲もまた、そうした見方に大きく影響を受けているのではないかと感じます。
さらに、最近やっと定着し始めた「十二世紀ルネッサンス」という時代の括りの中で、「カルミナ・ブラーナ」が編まれた当時の西欧世界は、日本が明治前後に欧米から受けた新知識の衝撃的な刺激になぞらえられるほど、アラビア文化の恩恵を、古代ギリシャ文献のアラビア訳からの再翻訳を通じて、という単純な事実以上に爆発的に受け、ショック状態にあったことが明らかになって来ています。(このあたりから来るヨーロッパ中世史に対する観点の変化は、とくに講談社学術文庫の次の2冊で味わうことが出来ます。堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』原著1977年、伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』原著1993年)

「カルミナ・ブラーナ」からの復元に限らないのですが、こうした歴史観の変化は、そのまま、古い時代の音楽を、現代の演奏家がどのように行うか、に、大きな影響をもたらしているのを、録音を拝聴するだけでも強く印象づけられます。

数種の演奏が録音化されている中で、2種、3枚を選んで聴いてみました。

ひとつめは、クレマンシック・コンソートClemencic Consortによります。

CARMINA BURANA from the original manuscript  harmony mundi HMA195335(1975)

carmina burana  Codex Buranus Original Version  OEHMS CLASSICS OC635

彼らはこれを1974年と2006年に録音していますから、もしかしたら、2つの録音を行う間に、中世史研究の成果をなにかしら反映して変化を遂げているのではないか、との期待から、両方を聴きました。

私にとっては実は残念な結果だったのですが・・・(同ナンバーの再収録も多いので分かりやすいのですけれど)新録音のほうは、「カルミナ・ブラーナ」の歌たちが演奏されたであろう時代の「アラブの影響」を、旧録音よりもいっそう色濃く表面に出したものになっていました。「奔放な遍歴学生」が「カルミナ・ブラーナ」を編纂したのだとしたら、それもあり得ることだった、と思えたかも知れません。なおかつ、クレマンシック・コンソートは、旧録音のほうでも「アラブの影響」は既に想定していました。彼らが表現する「アラブの影響」の音は、新旧録音とも、だみ声で、荒々しい感じです。ちょっと耳にしただけですと、一昔前に流行ったアラブ風の表現と一致している故に、別段それで良いのではないか、と感じてしまいます。
でも、アラブでの歌われ方は、(入手できる録音は多くはないとはいえ、77年のイラクのものなどを聴くことが出来ます)クレマンシック・アンサンブルの、せいぜい旧録音になされている程度の「粗野さ(西欧を基準にした価値観で言えば)」であり、一方、現代のアラブ世界で収録された音を、西欧の歌い方をではなく、日本人なら演歌や民謡を基準としてじっくり聴けば、まったく「粗野」とは言えないことが明白になります。ヨーロッパでも、東欧のブルガリアやルーマニアの歌の録音を耳にすることが可能ですが。そちらはむしろ、西欧的な唱法よりも、アラブ圏や東洋圏の歌唱法との共通点のほうが多い気がするほどです。
すなわち、クレマンシック・コンソートの人たちにそんな意図があったとはまったく思ってはいないとは承知しながらも、なんだか西欧以外への、とくにアラブへ偏見が拭い去れなかっただけでなく、拡大してきているような無念さを覚えるのです。
しかしながら、気付いておかなければならないのは、私たち日本人もまた、昔はヨーロッパ人を「南蛮」と称していたのであり、異文化を誇大に捉えてきた事実が、同じようにあった点です。
歴史は場所を変えてでも繰り返すのでしょう。

もう一種は『レコード芸術』誌でも特選盤となったものだそうで、アンサンブル・ラ・レヴェルティLa Reverdie(イタリア)というひとたちの行った録音です。

CARMINA BURANA SACRI SARCASMI  ARCANA A353

これは、「カルミナ・ブラーナ」が、内容に注目すると極めて整然と編纂されていることから、遍歴学生あるいは吟遊詩人(これも渡り歩く歌い手たちを指す日本語ですが、トルヴェール、トルバトゥールやミンネゼンガーに対応するものではありません)たちの歌でも、教会の歌でもない、もしかしたら、高位聖職者たちによって、13世紀当時には慣行であった彼らの娯楽の集まりで使う素材集めのために用意された歌集だったのではないか、という近年の研究成果を参考に、旋律の復元や演奏方法を工夫したものになっています。
この盤は高い評価を受けたようですが、注意しなければならないのは、演奏の解説で彼ら自身が述べているように、それぞれの演奏は当時の様式として確認されているものを参考に独自に組み立てたものなのです。それゆえ私たちが留意すべきは、中世にまったく同じ響きがしていた保証はないことを念頭に置いて楽しまなければならない点であろうかと思われます。
クレマンシック・アンサンブルが成していたようなアラブ的なものの影響も勿論加味していたりしますが、それは唱法の部分にではなく、伴奏に用いる楽器のほうで採用されています。ナンバーの中にはメンバーのオリジナル作品も含まれていることも気をつけておくべきです。そうしたことはこちらの盤では明記されています。各ナンバーの旋律や唱法がどのような視点から復元されたのか、についてもきちんと説明されている(日本語に訳されたものが別紙で封入されています)のも好感が持てます。

人間の、わずか5000年程度の歴史の中の、たかだか800年前の音楽でも、音の世界はもう過去をその通りに再現することは出来ません。
「昔は良かった」
と私たちが言うとき、それは、今の私たちが私たちの手にし得る限りの証拠から私たちが想像し得る<昔>に対する賛美・称揚に過ぎないのです。
たかだか、とは言いましものの、とくに800年も以前を「再現しよう」と試みる人たちは、「昔は今を通してしか見えない」との事実に、より真摯に向かい合おうとしつつあるように感じます。
それは、たいへん素晴らしいことなのではないかな、と思っております。


参考までに、ですが、日本でも最近、
「中世を駆け巡る放浪楽師」2011年、ALMレコードALCD1126
というCDが出ました。
http://www.amazon.co.jp/dp/B005OSQN0O
日本人としては画期的なことで、大いに喜ぶべきであると思いますが、あいだに「梁塵秘抄」(かの後白河法皇が編んだ今様集)のことばに西欧風の曲をつけて挟み込む必然性が、果たしてあったのかどうか、大いに疑問に思っております。ライヴをそのまま収録、としてであれば、楽しみ方としては評価されても良いプログラムだとは思いますが、録音を通じて日本人によるヨーロッパ中世音楽の理解度を示して世に問うのであれば、「梁塵秘抄」の洋楽的曲付けは不要ではないのでしょうか? 少なくとも個人的には、今様には今様に相応しい<復元>を試みてもらえたほうが遥かに嬉しい上に、洋楽的曲付けはむしろあまり愉快な印象を受けません。いちおう、トルヴェールやトルバトゥール、ミンネゼンガーの手になる歌は含まれてはいませんので、「放浪楽師」とタイトルにお入れなのは支障はないかと思います。今様、は、しかし、放浪楽師の音楽ではなかった、と考えております。傀儡師の業ではなかったからです。
(このCD自体の意欲的なところは好きで、購入させて頂き、拝聴もしておりますので、マイナスな感想を申し上げました非礼はお許し頂きたく存じます。一享受者として、今後にたいへん期待をしております。)


カンツォーネ・ナポレターナ マスタークラス(東京イタリア文化会館にて:青木純さん)

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