2009年11月11日 (水)

ブラームスの交響曲をやるなら

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html



本記事は、今度ブラームスの交響曲からどれかを演目に選択しようとしている、あるアマチュアオーケストラを念頭に綴ります。記憶だけで綴りますので、誤りはご指摘下さっても結構です。ただし、もし誤りを見つけて下さったなら、そこから先は私への指摘ということではなくて、お気づきになったあなたが突き詰めて考えて頂けるようでしたら、より幸いです。

本職さんは商売で体を張っているんだから、こーゆーことは本稿よりずっとまっとうに考え続けていらっしゃるのは当たり前・・・と思っております。中には「自己の理論」ばっかり固めて観察をないがしろにしている人も僅かながらいるかも知れませんが、論外です。知ったことを自慢する「プロ」さんも、私にとっては「プロ」とは認め難い。

いえ、「プロ」さんはそもそも、こんなアマチュアの言うことなんかに目もくれないで、ただし、虚心に音楽そのものとは何かを見つめ続けたらいいのです。

あくまで、アマチュアさんがターゲットです。ですので、プロさんは突っ込まないで下さいまし。

アマチュアに、出来れば私の身近に、「本気で」・「楽器を手にしていなくても」・「自分の能力の許す限り虚心に」音楽に立ち向かっている人と・・・私はそろそろであっておきたいなあと思います。
ホンネを言えば、そういう存在は大変に希少です。いつも悲しく思います。・・・この件、たぶんもう一記事綴ります。

以下、面倒かも知れませんが、当該団体の「良心的」なかたには、出来ましたら全てお目通し頂きたいと願いながら綴っております。わからない言葉は、是非自主的に調べて頂きたい。そのことで本文の間違いを見つけて下さるようだったら・・・それが嬉しいのです。ただし、相手がアマチュアさんだったら、です。本職さんは私より正確に知っている、したがって指摘が出来るというのは当然であるはずだからです。

特殊な目的で編成されたのでない限り、アマチュアオーケストラは、必然的に「正団員」が過不足無く出演でき、それだけでなくて「音を出すことも出来る」曲を選択しなければなりません。
この点では、60人程度を超える団体(弦楽器の正メンバーはその半分に過ぎない場合が多いかと存じます)は、近代オーケストラであればプログラムに載せ得るバロック・古典から「前期」ロマン派の作品であっても、大部分を候補から落とさなければなりません。

ブラームスの交響曲は、トロンボーンまでを含むという点では申し分無く候補に入るように見えますが、トロンボーンが「音を出す」箇所は極めて少なく、実は、上記のような団体にとっては、選択は大英断、ということになります。
「音を出す」ということが「音楽を演奏すること」と等号では結べないことを、きちんと理解しているぞ、と、外の「ツウ人」さんたちに表明することになるからです。・・・で、これ以上は申しませんが、ブラームスの4つの交響曲のどれひとつとして、音楽的に非常に重要な意味を、まさにトロンボーンにこそ与えていないものはありません。トロンボーンを鳴らしっぱなしのベタな管弦楽よりも、トロンボーンの光を、あるいは眩しく、あるいは軟らかに、際立つべきところで際立たせる。そこのところにブラームスは心血を注いでいるからです。

いったい、「音を出す」というのが「音楽を演奏する」というのとイコールでないのは何故なのでしょう?
私なりの感じ方を述べるのは、本日は留保します。探せばネタは沢山ある、とだけ申し上げておきましょう。これを最も極端にしたのが、例のケージの「4分33秒」(で合ってましたっけ?)だと考えてもいいでしょう。ただし、ケージが考えたこの無音の「音楽」が「音楽」と呼びうるのかどうかについても、本筋から逸れますので述べることは控えます。

で、ここからは、まず第3番と第4番についてだけごくかいつまんで触れ、続いて第4番のみに話を絞って参ります。

第3番と第4番は、極めて対照的な作品です。
どこが対照的か?
作品設計の基本に置いている音程の取り方が明確に違うのです。
第3番は減五度ないし減七度、第4番は増五度を主体としている、と私は捉えております。
第4番については、和書ならば今は古書でも入手が困難ですが、ウォルター・フリッシュ『ブラームス 4つの交響曲』(天崎浩二氏 訳、音楽之友社 1999)に明確に
「交響曲に彩りを添える3つ目の要素は増音程を含む3和音だ」(訳書188頁)
と記されています。
第3番と第4番のこの違いによって何がもたらされるか。
一般に、減音程は安定した音程への「収縮」を、同じく増音程は「拡大」を指向します。
それにより、減音程を基調とした第3番は安定した静かな終結へと道をさぐり続けます。
増音程を基調とした第4番は、攻撃の手を緩めない外向的な響きで聴き手を圧倒しようとします。
第3番も第4番も、後日シェーンベルクが分析研究の対象としていることを念頭に置かなければなりません。脇道にそれますが、これはシェーンベルクが「無調」を検討する際にブラームスから受けた恩恵も少なからずあったという事実を示しています。すなわち、「十二音技法」は愛好家の世界ではこんにちまだ単純に「無調の代名詞」のように思われがちですが、「無調」はなにも「十二音技法」の専売特許ではありません。決め切った語法に頼っていない例としてはショスタコーヴィチの作品群などを典型としてあげることが出来るでしょうし(にもかかわらず彼の音楽は「調」名を付されているのが面白いところです)、語法を確立した作曲家の最右翼はバルトークあたりでしょうか。その他、教会旋法を基調に「無調」を編み出したドビュッシーなども名前を挙げておくべきかも知れません。この人たち以後の「無調」音楽は、これら様々な「無調」を統合した体型を産み出すには至っていませんが、それがまた響きの世界を百花繚乱させているのです。(そこのところを一般愛好家がなかなか楽しめない理由はいくつか存在すると思われますが、今日は述べません。)
では、シェーンベルクは何故、「調性音楽の最後の砦」とおぼしきブラームスから恩恵を受けたのでしょう?
それは、蓋を開けてみると、ブラームスの音楽も「無調」に向かって大きな一歩を踏み出していたからなのです。
では、それから受けた恩恵とはいかなるものだったのでしょうか?
「十二音技法」が否定したのは「調」と呼ばれるなにものかだったのであって、そのなにものかとは、「長調と短調」という二つに限定されてしまった「旋法」に他なりません。
したがって、「十二音技法」の根底には、「作曲者が自ら<旋法>を構築しなければならない」という厳しいルールが課せられているのです。「十二音技法」には、「旋法」が必要なのです。
19世紀末期から20世紀前半にかけて編み出された「十二音技法」以外の「無調」も、「(伝統的なものというよりは、歴史的にはイレギュラーで新規に感じられなくもない)教会旋法」〜ロクリアだのエオリアだのというのは古来の教会旋法ではありませんね、もしくはバルトークが「ミクロコスモス」で様々に提示しているような五音音階や音度関係が長調短調とは異なる音階組織などもあり、ショスタコーヴィチの「収束しない」全音音階など・・・どれもこれも旋法ありきであることには、案外注意が向けられていないように思います。

ここからは2作ともですと散漫になりますので、第4番のいくつかの点についてだけ述べ、その無調性もしくは無収束性に目を向けて頂けるようにしてみます。

ブラームスの第4番の「増音程」基調は、必然的に「拡大」を指向している旨、先に記しました。
増音程を含む三和音とは、(以下、移動ド読みを基本とします)次のようなものです。
まず、長調の主和音は、御承知の通り「ド・ミ・ソ」です。このとき、ドとミは長三度、ミとソは短三度の関係にあります。
(くどいですが、念のために基礎的なことをメモしておきますと「ド(全)レ(全)ミ(半)ファ(全)ソ」というのが、このあいだの5つの音の音程関係です。)
このうちのソの音程を半音高めて「ド・ミ・ソ#」という和音を作れば、長調の増五の和音が出来上がります。これが長調の増五の三和音なのは、お分かりですね?
短調の主和音は、「ラ・ド・ミ」ですが、これを短三度持ち上げると「ド・ミb・ソ」となります。この場合の増五の三和音は「ド・ミb・ソ#」と、先ほどの「ド・ミ(ナチュラル)・ソ#」の二通りとなります。(和声の教科書通りの表現でないことはご容赦下さい。)
ブラームスは、第4交響曲の中で、実は「短調の増五の和音」に当たるものを二つとも、入れ替わり立ち替わり使っています。そのことによって、短調と長調の境目をそれとなくボカしている。・・・ただし、ボカしているといっても、それをたとえばドビュッシーのように「あらゆる旋法」に仕組むことによって行なっているのではない。ブラームスの用いている「旋法」は、あくまで「長調」と「短調」なのです。このことが、一般の聴き手である私たちには、どことなくブラームスの方がドビュッシーより輪郭がはっきりしているような錯覚を起こさせる。
「そうじゃあないんだ!」
と見抜き、ブラームスがボカしておいた壁を完全に消してみようと冒険したのがシェーンベルクだった・・・もちろんこれが全てではないので極端な言い方ではあります。
話がまたそっちに行ってしまうのは避けましょう。
ここまでで分かることは、ブラームスの第4交響曲の第1楽章を「ホ短調だ」という既成概念で演奏することは許されない、という、演奏者に課せられた厳しい試練の存在です。
ブラームスは、こういう意地悪を、さらに様々なオブラートで包んでいます(オブラートって、そういえばこの頃はあんまり直接には使わないですね)。
第1楽章の主題が三度の下降を持ち上げ持ち上げ作ってあるのは有名です。これも移動ドで行きます。
「ミ(長)ド(短)ラ(長)ファ(短)レ(短)シ(長)ソ(短)ミ」
と下降していくわけです。・・・これで調性をカモフラージュしておくのですが、これを一転して上昇音型に用いることで華やかな派生主題を構築していくのもまた鮮やかです。で、この派生主題にまたも増五度を忍ばせてみたりしています。それはスコアからお探しになってみて下さい。さらに、このカモフラージュ動機は、増音程(パッサカリア主題第5章節目の増四度を含め・・・これは増五がサブドミナント【長調ならいわゆるドファラ、短調ならいわゆる【ラレファ】への拡大を指向するのとは異なり、トニカ【ドミソないしラドミ】に「ひろがって」いくことで安定を確保するのですが、突っ込むとキリがないことながら、ブラームスはパッサカリアの主題6小節目を素直なトニカの和音にはしていません・・・これもスコアからお読みとり下さい)第4楽章でも巧みに用いられています。

長くなりましたが、あと二つだけ、他のことにも着目してみましょう。
(第3楽章は第1楽章との兼ね合いで理解すべきです。)

まず、出て来たついでなので第4楽章が「パッサカリア」であることについてですが、世間では概ねこの楽章が「パッサカリア」だと言い張ってやみませんけれど、そうではなくて、「パッサカリア」の手法を借りた、ブラームス当時の現代音楽なのです。本来の「パッサカリア」はバロックの舞曲ですから、体を使って踊れなければいけません。ブラームスのこの終楽章で、ダンスをすることは出来ません。・・・醜悪な指揮者を除きますが。
これもまた、意識したかしなかったかを問わず、ブラームスが投げかけた、過去への巨大なアンチテ−ゼなのです。バロックのスタイルを正々堂々と使ってバロックを否定したのは、ブラームスが最初ではないか、と思えるくらいです。ところが、これはバロック否定としては次の世代には理解されませんで(いや、ブラームス自身、そのあたりはどうだったのでしょうか?)、皮肉にも、ブラームスのこのパッサカリアは20世紀の3分の2ほどの期間のバロック演奏の規範となってさえしまったのであり、そうしたバロック演奏はフルトヴェングラーやグレン・グールドが最も結晶したかたちで受け継ぐものとなり、こんにちでもファンが絶えない状況を産み出しています。・・・それはそれで歴史的には意味のあることです。ですが、ブラームスあってこそバロックの最後の牙城(バロック時代の作品はもはや一般的には演奏されていなかったとは言え)である「即興性」に完膚なきまでの打撃を与え、「音楽」が勝手に踊り出す陽気さを「音楽」から締め出し、まったく別の世界の響きが構築されたのだ、との事実を、私たちはあらためて念頭に置かなければなりません。
・・・誤解のないように申し添えれば、私はブラームスを嫌悪してこんなことを口走っているのではありません。私をご存知のかたは、私がどれだけブラームスのファンかも十分ご承知のはずです。

もうひとつは第2楽章の主要主題についてです。
これも、「無調」への静かな、しかし充分傾聴すべき一歩なのだ、と申し上げたら、
「何を極端なことを!」
とお叱りを受けるかも知れません。
ただ聴いていると、これは冒頭、
「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」
と聞こえます。
ところが、ホルンがひとしきりアルプス山腹風に響いたあと、同じテーマは突然高さが変って聴こえます。
通常、この変化について、アマチュアオーケストラのメンバーは、どう変わったのか、について耳を傾けていません。
蓋をあけて中身を調べてみて下さい。
クラリネットに始まる、高さの変った「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」が、本当は正式の主題です。
かたちは同じですが、ホルンが最初に鳴らしているのは、
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
なのでして、これを移動ドで「ミー・ミー・ファーソ|ミー・ミー・レード|etc.」と読んでしまうのは正式には誤りであることが・・・この楽章の最後の最後で明らかになります。
すなわち、第2楽章冒頭は、ブラームスがこの楽章をどう閉じたいかを先に示してしまう、という、凡な神経では考え難い、もっと極端に言えば「常識人」に対しては禁じ手でさえある暴挙を行なっているのです。
ホルンが予示し、楽章を締めくくる
「ラー・ラー・シbード|ラー・ラー・ソーファ|etc.」
は、この楽章が単純な長調なのではなく、別の旋法を指向していることを示しています。リディア旋法(単純にそうなのではなく、リディア旋法すなわち第3旋法、の変格旋法、すなわちヒポリディア=第6旋法)です。「ラ」は、ヒポリディア旋法の吟唱音です。シが変位している(bemolle)点がドリア旋法と共通なので紛らわしいのですが、短調を指向していませんからヒポリディアとなります。・・・楽章全体を長調の音楽にしておきながら、バックに教会旋法をマスキングしてある、美術的配慮が周到になされている楽章です。

以上、断言的に、しかもこれでもごくかいつまんで述べて来ましたが、是非、ここまでの記述の正誤も含め、音楽を「読む」という大切な吟味の過程も、おひとりおひとりが充分すぎるほどにやって頂きたいのです。

指揮者だろうがその他優秀なトレーナーさんだろうが、奏者の理解出来ないことまでさせることは出来ません。
音にしてみる前に、ちょっと踏みとどまって、主体的かつ客観的に「音楽を読む」作業も、書かさずやって頂きたい。
私が願うのはそのことばかりです。

長くなりました。以上です。


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2009年11月 9日 (月)

私には20世紀後半以降の音楽は分かってはいませんが・・・

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html



音楽をやるときはバカになれ、と言われます。

名人テノール歌手はテノールバカ、って言われますし、名人チェリスト(名人じゃなくても、ってのもありますが)はチェロバカって言われます。

作曲する人も「作曲バカ」でないと、いい作品は書けないのかも知れません。
少なくとも、ベートーヴェンなんかその典型だったんじゃないかと思います。いつも
「曲を作るんだ曲を作るんだ曲を作るんだ曲を作るんだ曲を・・・(以下略)」
この人にはそれしかアタマになかった気がします。

で、このバカを、お笑いをやらなくちゃならないときの「バカになる」のとゴッチャにすると、限りなくとんでもないことになる・・・これはモーツァルトが「音楽の冗談」で既に揶揄していることなのですけれど、20世紀後半以降はモーツァルトのようには揶揄しづらい・・・揶揄するにも値しない・・・ものに勿体つけて理論かざしているきらいもあるような気がしてなりません。
・・・「作曲家(や)」自身が理屈を言い出したら、ある意味、もうそれでおしまいです。なんぼそれで名を成した人でも(P.Bさんの本もかつては面白く読ませて頂いたものですが)、もうあかんと思います。

それでもいっぺん売れちゃうとシンパが出来て、「理論バカ」が門前市を成すていたらくになるから、そういう物にはだまされたくないなあ、と思っています。

じゃあ、とは言っても判別能力のない私なぞがどうやって、お笑いではない「音楽バカ」、尊敬すべき真の存在を見きわめればいいのか。

「理論バカ」には用はないので、自分の目で
「これは、マジだぜ!」
と感じさせて頂いたものを一例だけ上げます。

実は、大井浩明さんのブログを拝見していて、2月に共演なさる打楽器奏者さんのところにリンクが貼ってありましたので、興味本位で覗いてみました。

・BUK for Percussion Solo

奏者は、宮本妥子(やすこ)さん。

彼女のオフィシャル頁はこちら。
http://www.yasukomiyamoto.com/index.html

こういういい方をしては失礼に当たるのを重々承知で申し上げますが、彼女のこのページの留学体験記を拝読すると、彼女が「バカ」になれるために、どれだけまっとうな苦労をなさったかが非常な共感を持って感じられます。
音楽そのものの中に入っていく・・・分かっていないからうまく言えないのですが、どこにも肩の張りがなく、奇をてらうことなく、最近よくあるような「お笑いすれすれじゃないの」みたいな妙な手段をとることなく、聴き手をひきずりこむ強さで、響きだけの世界に没入していく。

宮本さんは、大井さんに助演するということで、2月に松下眞一追悼個展にご出演なさるそうです。

大井さん続きにする意図はなかったのですが、つい、引込まれましたので。


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2009年11月 8日 (日)

ご紹介:大井浩明さんブログ記事「汎用クラヴィア奏法試論β」

増井一友さんクラシックギターリサイタル、東京公演11/21、大阪公演11/28、おススメです。
下記の2記事を是非ご参照下さい。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/11211128-e6af.html
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-7de4.html


資料の読みが滞っていること、イチから勉強しなければと思っているところであること、等から記事が停滞しておりますが、継続はしてまいりますし、また饒舌になりはじめるでしょうし、結局そのときには何の代わり映えもしないでしょう。こりずに宜しくお願い申し上げます。

今日は、簡単なご紹介だけです。
ただし、ご紹介する先の内容は、一読して非常に有意義であり、普及すべき内容であると感じております。

ただし、お綴りになったご本人の中でやっと骨組みがガッチリ固まった、という段階でいらっしゃるであろうと思われますし、要約などというしゃしゃり出たマネをする段階でも、またその資質が私にあるわけでもありませんので、とにかくリンク先をご覧頂きたい、とのみ申し上げます。

クラヴィーア(鍵盤楽器)に即して「汎用」奏法、と仰っていますが、実践の人でもある大井さんが<楽器を弾く身体>について真摯に試行錯誤を繰り返し、研究を重ねて来た結晶とも言える内容になっており、鍵盤楽器に限らずどんな楽器にも通用するものであるとお見受けしております。

いえ、楽器に限らず、体で道具を使う行為全てに「汎用」化しても良いほどの結実であり、出来るだけ多くの人に目にして頂きたいとも感じております。

大井さんのブログ上の
「汎用クラヴィア奏法試論β」
http://ooipiano.exblog.jp/12662895/

が、その記事です。

是非、じっくりとお読みになって下さい。


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2009年11月 3日 (火)

再案内:増井 一友さんリサイタル(東京11/21、大阪11/28)

紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!


赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。


さて、ギターの名手続きです。
上にリンクした通り、増井一友さんのコンサートが近づいて来ました。

増井さんは大阪でご活躍で、関西ではご存知の方も多いかと存じますが、関東ではまだまだ、が玄奘のようです。
上のリンク記事には増井さんの演奏なさったバッハのシャコンヌ(原曲:無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番終曲)を掲載してありますので、とくに首都圏方面のかたには是非お聴き頂きたく存じます。
ヴァイオリンではまだまだロマン派当時の再発見以降の「重厚な」弾き方のほうで馴染まれているのですが、増井さんの演奏は、ギターの特色を生かし、「シャコンヌ」の舞曲的性格を損なわずに奏でていらっしゃり、ヴァイオリニストにも参考にされるべきものです。・・・私見ですが、バッハの無伴奏ソナタとパルティータは、どれも、少なくともリュート音楽の様式を踏まえ、意識して書かれたものではないか、と考えております。

なお、ギターという楽器の持つ素晴らしい特徴については、前記事の森田茂さんリサイタルのレポートに記しましたので、併せてご参照頂ければ幸いです。

その増井さんの演奏会について、「毎日.jp」に記事が掲載されましたので、リンクを貼っておきますと共に、本日はそれをこちらにも引用させて頂いておきます。
なお、増井さんの演奏会については「ぶらあぼ」誌にも案内が掲載されています。
毎日.jpのオリジナル記事、「ぶらあぼ」誌の記事についてはリンク【色の変ったところ】をクリックして、是非ご覧になって下さい。)


以下、毎日新聞のWEBサイト、毎日.jp関西版記事の本文です。大阪公演にあたっての記事です。東京公演はこの記事の一週間前ですので、お間違いのないようにして下さいませ。(写真は省略致します。)



《クラシック・ギター:増井一友が3年間のドイツ公演の成果を披露 「シャコンヌ」など演奏》

 今年まで3年間、招聘されドイツ公演を続けてきたギタリスト、増井一友が11月28日(土)、大阪市北区のザ・フェニックスホールで区切りのソロリサイタルを開く。増井自身「ギターにとって理想的な響き」と評価する同ホールでのソロリサイタルは7年ぶり。「いつかは」と20数年間温めてきたスペイン・バレンシアの作曲家、アセンシオの名曲「内なる想い」を中心にドイツで「ヴィルトオーゾ」と絶賛された華麗な技を披露する。

 3年間に公演した都市は、ケルン、ハイデルベルク、ミュンヘンなど11都市。内容の深さゆえに難曲とされるバッハの無伴奏バイオリン曲「シャコンヌ」を自身でギターにアレンジして披露。武満徹の最後のギター曲「森の中で」や吉松隆の「雨のアラベスク」などの日本人作曲家のギター作品も紹介した。3年続けての公演は増井にとっても大きな経験だったようで、「乾いた空気と、残響の長い空間。自身の弾き方も変化した」と語る。

 今回のリサイタルは、そんな変化を披露する絶好の機会となりそうだ。プログラムは「シャコンヌ」「森の中で」のほか、ラテンアメリカを代表する作曲家ヒナステラの「ソナタop.47」、「内なる想い」など。中でも「内なる想い」は、増井が26年前に初めてスペインを訪れ、バレンシア地方の街アルコイで聞き、「これがスペインなのか」と納得した曲という。帰国後しばらく弾いていたが、その後20数年間、演奏を封印。今年、ドイツ公演の後、久しぶりにスペインに足を伸ばし、イベリア半島の空気を吸ったとき、26年前の自らの想いがよみがえり、今回の公演で再び弾くことに決めたという。

 ドイツ、スペインの空気に洗われ、さらに進化した増井のテクニックと音楽性。それらが、「内なる想い」を聞いたときの若き日の感動をどのようによみがえらせるか、楽しみだ。

 17時開演。4000円(当日4500円、学生2000円)。申し込みは大阪アーティスト協会(06・6135・0503)。【西村浩一記者 ご取材】


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2009年11月 2日 (月)

貴重な作品、貴重な演奏:森田茂さん「デ・ポンセ」

森田茂さん(クラシックギター)「デ・ポンセ」は、大好評終了致しました。



紳士的名ギタリスト増井 一友さんのリサイタル(クラシックギター)は、11/21(土)東京:近江楽堂 5時開演 、11/28(土)大阪:ザ・フェニックスホール 5時開演です。素晴らしい音色をお楽しみ下さい!

赤津眞言さん他「フランス ヴァイオリン音楽の流れ」については、複数日程につき記事にリンクを貼りましたのでそちらをご覧下さい。

ギターに留まらず、日本の一般的なクラシックファンのあいだでは、リュート、マンドリンなどの撥弦楽器の「古典音楽」は、その楽器を専門に、あるいは愛好して弾く人以外には馴染みが薄いのが現状ではないかと思います。

ギターについて言うならば、楽器店でも取扱量が多く、ポップ系でも多様に使われる、間口の広いものであるため、楽器自体を手にしたことのある人はかなりの数はいらっしゃることと思います。
その中でもクラシックギターは棹が最も太いため市販の自習本ではマスターしにくい面があるにはあるのですが、やはりいちばんスタンダードな上に、どんなジャンルの音楽にも使えてしまうメリットがあり、年齢層を問わず、お持ちの方は多いのではなかろうかと思います。
ところが、極めようと思うと、こんなにまた奥深い楽器もありません。
私も認識していなかったのですが、ちょっと教えて頂くと、ヴァイオリン属のような音が出せたり、スネアとミドルとシンバルを組み合わせたようなドラムの効果も出せる。硬い音色はピアノだけでなく金管楽器の輝きを表わすことも可能ですし、柔らかい音色は木管楽器のコラールのようだったり、ハープより幻想的だったりします。
いつでも持ち運べるたった1丁の楽器で、それら全てを表現できる・・・ただし、それはその技術を習得したひとにしか出来ないことではある。
そこに、クラシックギターの、突っ込んでいくと高まっていくハードルもありますけれど、一方でそのハードルを越える喜びを無限に味合わせてくれることを保証もしてくれる。
そうしたギターの側面が、ギター音楽の愛好者を弾き手さんたちのあいだに留めてしまっていることもあるかと思いますし、もう一点は、この
「ポータブルオーケストラ」
を本当にオーケストラとして理解し使いこなす弾き手がプロでもそう多くはいらっしゃらないのでしょうか、もっぱら定番の有名曲のみを録音しているところにも・・・それはプロモートするメーカーさんがそうさせているのでしょうか、分かりませんが・・・ギター音楽の特長、魅力を私たちが知らずにいてしまう遠因があるのではないかと考えられます。

10月31日、さいたま市大宮のバッハホールで標題のリサイタルを開かれた森田茂さんは、上海音楽院客員教授。中国を根城になさっていたのが、6年前に拠点を日本に戻されたばかりです。
お話をうかがうと、
「ですが、中国のギター普及度は日本とは比べ物にならないほど高い」
ということで、そんな環境の中でご自身をも鍛え上げていらした方です。上に述べたようなギターという楽器の性能を、よくよくご存知で、また極めていらっしゃる方のおひとりでもあります。

採り上げたプログラムがまた、興味深いものでした。

すべて、マヌエル・ポンセというメキシコの作曲家(1882-1948)の作品なのです。

ポンセの作品はハイフェッツがヴァイオリン独奏用に編曲したものなどがありますし、ほかの種類の器楽曲も少なからず手がけているのですが、日本国内で彼の作品を耳にしようと思っても、CDコーナーに彼の名前がちゃんとあるような大型店でも、そこの棚だけいつもカラッポ、というありさまで、私たちの多くにとっては彼は「知られざる名作曲家」のひとりです。
彼の書いたギター曲は難曲中の難曲なんだ、ということは、何人かのかたに前もって教えて頂いてはおりました。実際、せめてギタリストのどなたかが録音していないか、と、いちにち必死で探しまわりましたが、店頭には無く、ネットで探しても入手に時間がかかるものばかりで、断念したのでした。
ですから、「難曲」ということだけを念頭において、ヴィルトゥオーゾ的な作品なんだろうな、と、中身の充実度についてはあまりイメージせずに聴きに伺いました。

ところがどっこい、なのです。
ヴァイオリンのパガニーニ作品、ピアノのリスト作品が「ヴィルトゥオーゾ的」というのとは全く違った意味合いでの、むしろ、バッハの無伴奏曲が難曲だという類いの難曲なのでして、ひとつひとつのパッセージの難しさはもちろん、それを統合した音楽の流れが視野に入っていないと話にならない演奏になってしまう、非常にリスキーな作品群なのでした。

森田さんご自身のお言葉を借りれば
「カメレオン・ポンセ」
なのですが、後期ロマン派から新古典主義までをカヴァーした作風は、1曲1曲が作曲者という人格を超えて個性を主張する「クセモノ」ばかりです。

全部で4曲(アンコール別途)が、それぞれに「違う」・・・これは旋律構造や和声構造が違う、というレベルでの話ではなくて、作品が作曲者を飛び越えて自己主張する「違い」なのですから、一筋縄では行きません。
「ソナタ・メヒカーナ」はあくまで私たち一般人が描く中米的イメージで一環していますが、「ソナタ・クラシカ」になると、ヨーロピアン・バロックを彷彿とさせますし、「南のソナチネ Sonatina Meridional」は(森田さんのパンフレットには「宗主国スペインを意識した曲」とありますが)アラブ的な要素がさりげなく漂い、「ソナタ第3番」は、もはや国籍を超えた、かつ<新古典主義>なる枠をも超えた独自な純音楽・・・国籍を持たない音楽・・・であるように、私には感じられました。

それぞれが、ギターの音色や奏法を多様に取り入れて活かすことをかなりの集中度で念頭に置かれ、組み上げられていますので、演奏する側はさらに、それをこまやかに読みとりつつ大胆に繋いでいく技量を要求される・・・ほんとうに酷な作曲家さんだなあ、と思います。
それを、
「いかにも技術で弾いています」
というそぶりはまったく見せずに、真摯に音楽全体を見つめながら弾き切った森田さんには、非常なさわやかさを感じさせて頂けました。

会場の関係で35名までしか収容出来ず、残念でした。

ポンセは、ギターファンに限定されずもっともっと聴かれるべき作品の作り手です。

森田さんは、もっともっと、日本でも広く聴かれていくべき演奏家さんでいらっしゃいます。

そのような確信を抱いて帰宅して参った次第です。

森田さんのサイト。フロント頁の更新はされていないようですが・・・(^^;
http://www.shigeru-m.com/


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