2018年2月17日 (土)

【読書・鑑賞案内】なぜ演奏会をやるの?:『メディチ家の祝祭』&『オーケストラは未来を作る』

音楽とは何か、について、古代人の言葉にヒントを貰ってみたのでした。
こんな感じでしたね。(出典は前回を見て下さいね。)

司馬遷の影武者さん:「楽は心の動きであり、声は楽のかたちであり、調子は声の飾りである。君子はその本(心)を動かし、そのかたちを楽しんでその飾りを治めるのである。」

プラトンさん:「すぐれた語り方と、すぐれた調べと、様子の優美さ(気品)と、すぐれたリズムとは、人の良さに伴うものだ」

で、まず、じゃあ、その音楽というものを、なぜ私たちはやるのか?
「そこに山があるからだ」
と同じみたいな答えでいいんじゃないかなぁ、と、私は最近思うようになりましたが、どうでしょうか?

でも、一人それを楽しむのではない、同好者だけが集まって楽しむというのでもない、お客さんに集まってもらって、演奏会をやりたい、となると、
「なんで演奏会なんかやるの?」
と、また別の問いが出てきます。

今回も、この問いに私なりの答えを用意する、というふうにはしません。私自身も考えなければなりませんから。

で、もしロックなんかでも抵抗がないのでしたら、お暇なときに、こんな映画も見て下さい。

https://www.amazon.co.jp/dp/B0027WLYN6/

宮藤官九郎さんが監督した『少年メリケンサック』。
宮藤さん自身もパンクロックのバンド活動をしているからでしょう、「なんで人前でやるの、やんなくちゃいけないの」が映画全編に炸裂していて、もうめちゃくちゃです。これについてはそれだけ言って、あとはWikipediaの記事に譲ります。あるいは関連する記事をネットで探して下さいね。いろんなこと考えるより、ぱっと答えが出るかも知れません(笑)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF


以下に紹介するのは、音楽を職業にした・している人の実践の例です。
演奏会をやる、ということの究極の姿は、職業でそれをやっている人の方が見出しやすいかと考えて、そうしました。
ルネサンス〜バロックの端境期のものからひとつ、現代のものからひとつ、採り上げてみましょう。


Medici 1589年5月2日、メディチ家別邸(wow!!!)で、ひとつ喜劇が演じられました。舞台は古代ギリシャのデルフォイ(デルポイ)神殿をかたどっていたそうです。喜劇は5幕から成り立っていました。・・・今は、でも悲劇そのものが本題ではありません。
気晴らしのためだったそうですが、5幕の途中途中にひとつずつ、そして劇の最後にも「幕間劇 Intermedio」というものが演じられるのが当時の慣例になっていて、このときも6つのインテルメディオが演じられました。
インテルメディオのひとつひとつは独唱・重唱・合唱・器楽と、音楽によって構成されていました。
この1589年の祝典のときのインテルメディオ6作は、2年後に楽譜として出版されました。そのおかげで、いまでも再現演奏を聴くことが出来るわけです。
ひとつひとつは10分弱から15分前後、と、さほど大きい規模ではありません。
けれども基本的には1作を一人の作曲家ではなくて二人以上の作曲家が手がけたのが、大きな特徴です(例外もあります)。
6作の多くの部分に曲をつけたのは、マルヴェッツィ、マレンツィオ、という名前の人でしたが、ほんのわずかしか関わっていないカヴァッリ、ペーリ、カッチーニのほうが、いま音楽史ではビッグネームになっています。カヴァッリは最初のオラトリオと言われる『魂と肉体の劇』を、ペーリはこれまた最初のオペラと言われる『エウリディーチェ』を、それぞれ1600年に発表しましたし、カッチーニは『新音楽』という書物と言うか歌集と言うかを出版した作曲家として有名になっています。

もし興味を持って下さるなら、これら6つのインテルメディオを続けて聴いてみて下さい。
何種類か録音されていますが、私が好きなのはこれです。
https://www.amazon.co.jp/dp/B014Q29CJC
(タヴァナー・プレイヤーズ リンク先でサンプルが聴けます。)

ここではYouTubeから、ひとつだけ埋め込みます。

第4インテルメディオ「黄金時代が予言される」(上にリンクしたCDとは演奏が違います。)

10分ほどの短いものながら、3人の手で作曲されています。
・ソプラノ独唱曲(「天から月を落せる私は 高い所にいて天全体を見ている」etc.)はカッチーニ作
・続くシンフォニア(器楽曲)と6重唱(「このふたつの偉大な魂が」)はマルヴェッツィ作
・最後の「暗い地獄の哀れな住人たちよ」という5重唱はバルディという人の作です。

3人の「共」作だとは思えないほど一体化して聞こえますけれど、実態はむしろ「競」作というべきです。
名人芸で歌わせるカッチーニに、マルヴェッツィは緩く始め、浮き立つように変化をつけることで対抗し、バルディはしっとりと決着を付けて、全体を締めくくっています。
(実際にはバルディの作った歌のあとに、音楽のない劇がさらに演じられたもの、と考えられていますが。)
埋め込んだ音声くらいで、どれほどのことが伝わるか分かりません。
それでも、この例に見る「競い合い」を、じかに見た人、聴いた人が、どれだけ歓びの興奮を抑えられなかったか、を、想像してくれたら嬉しいです。

「我こそ真正の音楽を誠に知るもの也」

みたいな気概がぶつかりあって、それをスポーツのゲームを観戦するのと同じようにみんなに見て聴いてもらって、自分(自分たち)の表わすものの価値を分かってもらう。音楽そのものと、それと共に生きる人と、どちらも、の存在価値を訴える。そのために演奏会をやる、というのは、今でも目立つ、ひとつのかたちではないかな、と思っています。(どんな例があるか、類推してみて下さい。)


Orchestramakesfuture もうひとつは現代の例です。
「なぜ演奏会を?」なる、とんでもない問いをテーマに掲げてしまって、はたと困って、なにかいい参考になるものはないかなあ、と探しまわって見つけた、1冊の本です。

『オーケストラは未来をつくる』
(マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦)
潮 博恵著 アルテスパブリッシング 2012年
https://www.amazon.co.jp/dp/4903951596/
ご著者による本書の視点の紹介もあります。

・・・この本、もっと早く知っていれば良かったな!
私などもアマチュアオーケストラの団員として、どっぷり弾くことだけに浸かっていますが、それだと外の世界が見えていないもんなんでしょうか。私の視野がもともと狭いのではありますけれど。

そう、自分が、とくに職業としてではなく愛好家として音楽を演奏する立場になると、音楽を聴く耳・見る目が、どうしても演奏している人の姿に集中してしまうんですよね。素晴らしい音楽家だ、と感激して、少しでもその音楽家さんに近づこう、と願うことも、悪くはないとは思います。

でもねでもね、自分を感激させてくれる音楽家さんが、なぜ感激させてくれるだけの創作や演奏を続けられているか、には、ご本人の努力だけではない、たくさんの背景があるはずです。日常生活・家族・友達・お金・環境・・・いろいろ。
それらはけれど、ふつうは外からは見えない。

オーケストラは大きい組織で運営が大変だけに、内情を分析して見せてくれる本も、けっこう出ています。ですので、野次馬するにはいちばんいい材料です。
とは言っても、昔のヨーロッパのオーケストラで団員さんのお給料はいくらだったとか、最近の日本のオーケストラの財政事情はどうだとか、という話が読める程度かな。
一方で、「このオーケストラは素晴らしい」を語っちゃうと、運営の大変さは少しは触れられていますけれど、素晴らしい演奏をすることの大切さをアピールするほうが強くて、あんまりよく分からない。

この本が目についたとき、いままでと同じような情報しかくれないかもなあ、タイトルが明るい分、なんか良さげなことばかり都合良くアピールしてるんじゃないかなあ、と、疑心暗鬼で手にとりました。

めくって、ちょっとアメリカっぽい本の構成に「おやっ?」と思わされて・・・「本書の構成は以下のとおりである」と、各章の主旨を紹介するところから始まっています・・・、第1章がサンフランシスコ交響楽団の、オーケストラの規模の紹介だけでなく、資金調達をどうしているか、そもそもサンフランシスコ周辺はどんな特徴をもつ地域なのか、みたいな流れなので、またビックリしました。オーケストラ本は、資金調達がどうかなんてことはまず書かれていないのが普通だし、拠点の地域がどんなところか、なんていうのは「あなた、読む前に知っといてね」って言われているような印象を受けることの方が多いのです。
これは、と思って、とうとう買って帰って最後まで読み通してしまいました。

ご著者のHP
http://www.sfs.ushiog.com/index.php?FrontPage
オーケストラアンサンブル金沢についても書かれた方なのですね!

読み通せば何か得られる、と私に思わせた決め手は、第1章に早々と出てくる、次の箇条書きでした。
サンフランシスコ交響楽団が掲げた長期経営計画だそうです(p.55 いつ策定したのでしょうね)。勝手に番号を振ります。

1. 偉大なオーケストラになること
2. 偉大なオーケストラであると認識されること
3. コミュニティに貢献すること
4. これらすべてを財政的に履行可能な方法でおこなうこと

ご著者はサンフランシスコ交響楽団の百年史に目を通されて、この条文を見つけ出されたようですが、「よくぞ拾って下さいました!」と、個人的にはたいへん興奮しました。
が、興奮は、抑えましょう。(^^;

アマチュア活動をしていて、自分たちのしていることが何となく閉鎖的に感じられる(自分たちも、お客層も、ひろがっていく気がしない)ことがたくさんあります。
なぜひろがっていかない感じがするのか、って、あらためて考えてみると、2から4までがないんですね。
私たちはとりあえず「偉大な」でなくていいんです。1,2の条文の「偉大」は、「楽しい」とか「面白い」とか置き換えがききますよね。「オーケストラ」というところも「私たちの小さなサークル」みたいに、いろいろ変えられます。そんなふうに置き換えてみたら、どうか。・・・まだそこまでイメージしながらは読めていません。が、続く章で、これらの長期経営計画がどう実現するように考えられて来たか、どう実現したか、この先どうしていくのか、を、この本は具体例で示してくれていて、それがとても私を引き込みました。

あとで見ましたら、Amazon.co.jpでもレヴューがオール5ですね。
私もレヴュー入れるなら当然5です。(恥ずかしいので入れませんけど。)
私も含む素人(失礼!)がみんな支持している。素晴らしいことです。
(ただし少なくともレヴューを入れている中のおひとりは、本書が出来るにあたってもお力添えなさったかたで、ブログでも本書を紹介なさっています。 http://mariyoshihara.blogspot.jp/2012/10/blog-post_14.html

この素晴らしい成功例に感激して、自分たちも身近に挑戦したい、と私たちが考え出すのもいいでしょう。

そしてそのとき心に留めておかなければならないことも、本書のインタヴューに登場するかたが、しっかり、具体的に語って下さっています。

「・・・成功にせよ失敗にせよ、どこかの都市の事例を他にそのままあてはめて考えることには慎重でなければならないと考えています。都市の事情はそれぞれが大いに異なっていますし、違いはどんどん大きくなっています。」(ブレント・アッシンク氏へのインタヴューのなかから。p.228。アッシンクさんは、そんな中で何を大切にして挑戦して来たか、をこの前後で語っていらっしゃるので、それを併せて読んで下されば嬉しく思います。

この言葉で思い知らされるのは、人の芝生の青さに引かれるのもいいけれど、自分の芝生は自分で青くしようと、まず自分の周りをぐるりと見渡す必要があるんだ、ということです。

サンフランシスコ交響楽団は、いまや「難しい」作品の演奏会にでも子供さんまで来て聴き入ってしまうのだとか。
同じくインタヴューから、これは団員さんのお話からの引用ですが、芸術監督のティルソン・トーマスがこう言ったそうです。

「なぜあんなに多くの人が野球などのスポーツ観戦に行くのか。それはルールを知っていて自分でもやったことがあるからだ。だからクラシック音楽も、多くの子どもたちに体験の機会があれば、自分の分かっているものとして身近な存在になる」(p.254)

いろんなトライアルを重ねたサンフランシスコ交響楽団とティルソン・トーマスさんですが、ちょっとはそれを追体験できないかな、と店を探しまわって、本書でも紹介されているオーケストラ版オープン・エデュケーション「キーピング・スコア」(p.147〜)シリーズから、なんとか2タイトル見つけました。
本の方の紹介によれば
「『キーピング・スコア』の各コンテンツは、学校の先生がクラスルームでそれを素材にして授業を展開することが可能なようにデザインされている」(p.162)
のですが、どれどれ、どんなものかな、と、買って来たショスタコーヴィチ交響曲第5番のDVDを見ましたら・・・これはすごい!
ロシア革命やスターリン、時代を彩ったデザインの数々、その中での若い日のショスタコーヴィチの生きた姿、そしてティルソン・トーマスや楽団員さんの作品を巡るフランクな座談が、映像で次から次に場面転換して繰り広げられる。締めくくりが団のセカンドヴァイオリンさんの、とても易しいメッセージなのも、涙なしに見られない思いでした。英語のまま載せます。

Shostacovich’s 5th shymphony, to me, it’s a mirror which represents the life and the era in which he lived. He was the messenger. And I think his music is a hymnal to all of us who lived, survived and passed on. (Zoya Leybinさん・・・団員さんからのこういう語りかけがあるのが、本シリーズの素敵な特徴です。)

もう一タイトルは「幻想交響曲」です。これからじっくり見ます!

他も、と思って探して、YouTubeでチャイコフスキーの交響曲第4番がアップされているのを見つけました。正当なものではないのかもしれないけれど。ただ、DVDの構成からすると、これでも一部分に過ぎません。

https://youtu.be/YqGJv4SVBp4

ベートヴェンの第三交響曲(エロイカ)からの抜粋の方が短いので、こちらを埋め込んでおきます。

他に、ストラヴィンスキーの『春の祭典』、コープランド、アイヴズのタイトルがありますから、私は出来たらチャイコフスキー、ベートーヴェンも含め、それも見てみたいな、と思っています。

Keeping Scoreサイト
http://www.keepingscore.org/

Amazon.jp
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Ddvd&field-keywords=Keeping+Score

「なぜ演奏会をやるのか?」から、なんとなく大きく脱線してしまいました。
バロック中心路線からもはずれましたけれど、ご容赦下さい。
「なぜ演奏会を?」は、小さい問いです。そこから見ると、『オーケストラは未来をつくる』は、とても広い範囲のことを扱っています。それでも
「では、私なら、私たちなら、どう考えるべきだろうか?」
「つきつめたら、なぜ、なんで、私たちは演奏会をするのだろうか?」
を、本書は、あとからじわじわ考えさせてくれる、いい材料なのではないかな、と思って紹介した次第です。

貧弱な私の英語力では、聴き取れる内容は全体の10分の1にもなっていないんじゃないかな、と恥じ入るばかりですが、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」版の最後のティルソン・トーマスさんの言葉が心にしみましたので、今回の最後にはそれを載せておきます(字幕に頼りました!)。

The music’s purpose is to reach you.
Inevitably, it will mean different thing to different people.
(略)
What’s left with you when the last note is played?
In the end, the choice is yours.

(Michael Tilson Tomas from “Keeping Score” series,Shostakovich Symphony no.5)

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2018年2月12日 (月)

【読書・鑑賞案内】音楽とは何か〜本:上尾信也(あがりおしんや)『音楽のヨーロッパ史』

連休にかこつけて、来週にしようと思っていた記事をアップしちゃいます。


最近の一連の記事は、ご一緒した文教大室内楽のみなさんに「演奏している曲の背景理解、今後の選曲のヒントになれば」と思って始めたのでした。
なかなか、その主旨に沿った方向に行きません。

文教室内楽さんの演奏はバロックが主でしたが、クラシックに括られている音楽って、実は、たくさんのジャンルがひしめき合っているんですよね。いまのジャンルと比べて言えば、映画音楽(オペラ・劇音楽)・ダンス音楽(舞曲類)・ジャズ(室内楽)・演歌(古典歌曲)・フォーク(民俗歌曲)、などなど・・・言われてみれば「なるほど」でしょう? バロック音楽は特にそれを身近に豊かに味わえる宝庫です。

こういう言いかたは初めてしましたけれど、こうしたことを感じとって、誇りも持って、のちのち外の人へも自分たちを楽しく宣伝もらうのに、土台になればと、まずは音楽の背景にある歴史や特徴を知ってもらうように考えてきました。

いままで、分かりやすい本〜ちょっと難しい本〜CD・演奏の紹介(バロック合唱曲のオムニバス〜ルネサンスからデュファイ〜バロックから『四季』)と進んでましたが、それでほぼ上に考えた流れに沿って来たかな、これで次から選曲のヒントへ、と流れ込めばいいかな、とも思っていました。

でも、そのまえに、やっぱり
「音楽って何? 演奏会はなぜやるの?」
みたいな問いに答えられる用意は、どうしても必要なんじゃないか、という気持ちから、離れることが出来ません。これらは音楽なさるときに、いちばん最初に考えるべきことではないか、とも、常日頃感じています。
なので、汗顔の至りですけれど、それらについて、駄弁をあと2回上積みします。


先に申し上げておくと、本だの録音録画だのは、ご自分の心をいちばん捉えた、どれか一つを、まず徹底して見たり聴いたりすればいいのです。あくまで、そこへ行くための「おせっかい」として綴って来ています。ですから、どれもこれも、とは決して思わないで下さいね。


今回は、またひとつ本をご紹介することから始めて、後半に、そもそも「音楽とは何か」を人間は古代どう考えたか、2つの本からの引用でご覧頂きます。

Ongakunoeuropianhistory 西欧のことに限っても、
「音楽が人間にどう受け止められて来たか」
の全体像を教えてくれる本って、実は日本語で読めるものは皆無と言ってもいいんです(外国語のがどうかは知りませんが)。わりと守備範囲の広そうなものでも、音楽の話だと音楽の垣根の内側にとどまっていて「だからなんなの」と言われたらおしまい、な面もあります。
そんな状況の中で、次の本だけは例外でした。

上尾信也『音楽のヨーロッパ史』(講談社現代新書1499)
(これ、Amazonで1円から買えるんですね!
 https://www.amazon.co.jp/dp/4061494996
 いま絶版なのでしょうか? だとしたら残念です。
 http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061494992

もし関心があったら、これを図書館から借りるのでも古本で手に入れるのでもいい、読んでみてもらえたら嬉しいです。
普通の音楽史の本とは趣きが違いますから、ちょっと読みにくいかも知れません。
でも、上尾さんが本書のプロローグでお述べになっている言葉は、本書を貫く上尾さんの強いメッセージになっていて、「音楽が人間にどう享受されて来たか」ということだけにとどまらず、そもそも「音楽とは人間にとって何なのか」を考えるとき、たいへんな魅力を持っています。

「音や音楽は人心を掌握する極めて優れた手段である。そしてそのことを歴史は記している。戦争と平和、いずれの時代にあっても、音や音楽は時代を映す鏡であり、時代を動かす杓杖であったのではなかろうか。」(p.7末尾)

この問い(問いとして読むならば)への実証的な回答は、本書の内容を読むことで得られます。

いちおう、目次の大見出し、中身の(私なりの)要約を載せておきます。

Ⅰ 古代の支配する音(古代人の祭祀・戦争での音楽の役割)
Ⅱ 天使の奏楽(中世キリスト教への古代音楽の流入)
Ⅲ 凱旋と祝祭(十字軍以降の戦争を通じての音楽の浸透と規模拡大)
Ⅳ 音の宗教改革(宗教改革期の時代趨勢による民衆への道徳的音楽の浸透)
Ⅴ 戦争と音楽(帝国のお飾りとしての音楽の劇場化)
Ⅵ 国歌と国歌(帝政の衰退による劇場的音楽の担い手の市民国家化)

ここ3回ほど、デュファイとヴィヴァルディの、それぞれの作品の特質の違いを見て、少なくともルネサンス期の音楽は内輪向けっぽくて、バロック期の音楽は劇場向けっぽい、という違いが明らかになったのでした。
それぞれの音楽が生まれた時代を、上尾さんの本に照らし合わせて見てみると、この違いは、世の中の違いをしっかり反映していることがわかります。すなわち、デュファイは上尾さん『音楽のヨーロッパ史』の「Ⅲ 凱旋と祝祭」、ヴィヴァルディは同じく「Ⅴ 戦争と音楽」で描かれた時代の中を生きていたわけです。そしてまさに、その時代の要請する音楽を、それぞれの音楽家は作っていたのです。


時代と追いかけっこをして音楽が産み出され続け、歌われ、奏でられ続けるのは、いったいどうしてなんでしょう。考えたことはありますか?

皆川達夫さんもご著書『バロック音楽』の最初に「音楽とは何か」を書きかけていらしたのですけれど、これは音楽を好きになってしまった人にとって、そうではない人から「なんなのよ」と訊かれても、案外答えようのない、困った問いではなかろうかと思います。

少しは自分なりに答えを用意しておいてもらうために、そもそも古代の人は音楽を何だと思っていたか、について紹介します。

神話や伝説や歴史記録を拾って、楽器はどうだったのか、楽譜のようなものはあったのか、どんな場所で、どんな人たちが歌い奏でたのか、などと探る手もあります。でも、まとめるのは自分の主観頼りになってしまうので、あんまりいい方法とは言えません。(このブログの別の記事で素人なりに数回試みていますし、続きをやるかも知れませんが、今は振り返りません。)

そこで、代表選手に登場してもらいます。
東からは、中国の司馬遷(の影武者)さん。
西からは、プラトン(プラトーン)さん。
この二人は、音楽とは何か、に対する、東西の違いを際立たせる、それぞれにはっきりした言葉を残しています。

ちょっと煩わしいかも知れませんが、お目通し下さい。


まず、東の、司馬遷さん『史記』。
この中に「楽書」というのがあるのはご存知ですか? 題のとおり、音楽とは何かを滔々と記した巻です。ただし、司馬遷のオリジナルは無くなってしまったそうで、いま読めるのは『礼記(らいき)』とか『韓非子 十過篇』とかいう書物を材料に、影武者さん(私の勝手な呼び方)が補ったものなのだそうです。そのへんの詳しいことは知りませんし、立ち入りません。ともあれこの「楽書」が、幸いにしていま、現代日本語訳で読めます(ちくま学芸文庫『史記 2 書・表』小竹文夫/小竹武夫訳 1995年第1刷 以下はこの訳書からの抜書き)。
司馬遷の影武者さんは、こんなことを言っています(行分けや記号付けは、私がしました)。

「およそ音楽がおこるのは、人の心から生まれるのである。
人心が動くのは、外界の物が動かすので、物に感じて人心が動き、それが音声にあらわれるのである
音声はたがいに応じ合って変化を生じ、変化して方(文章 
あや、いわゆるsentencesではなくて、飾りや模様のことをいう)をなす。これを音というのであって、音をならべてこれを歌とし、干・戚・羽・旄(漢字読めなくていいですよ! どれも舞うときに手にするもの・・・したがって「舞」の意味)に合わせる。これを楽というのである。
楽は音によって生ずるもので、その本(もと)は人の心が物に感ずるのにある。
したがって
・哀しく心に感ずれば、その音ははやくてあとが消え、
・楽しく心に感ずれば、その音はゆったりとゆるやかに、
・喜ばしく心に感ずれば、その音はあがって外に散じ、
・怒って心に感ずれば、その音はあらくてはげしく、
・うやうやしく心に感ずれば、その音はまっすぐでただしく、
・愛らしく心に感ずれば、その音はやわらかでやさしい。
この六つは人の性(さが)ではなく、心が物に感じて動いたのである。」
(p.27)

とても自然な内容だと思います。いかがでしょうか。
「楽書」では、この前後にいろんな尾ひれがついて、音楽は特にまつりごとの善し悪しにも大きな影響を及ぼす、と綿綿語り続けられます。それがまとまっているところを引きましょう。注として加えられている部分は省きます。

「楽は心の動きであり、声は楽のかたちであり、調子は声の飾りである。君子はその本(心)を動かし、そのかたちを楽しんでその飾りを治めるのである。」(p.41)

いい君主(文中では君子)が、いい音楽プレイヤーだ、と言っているわけです。「いい君主であるためにはいい音楽が奏でられないといけない」説です。古代の音楽観は為政論との結びつきが強いのです(あとに見るプラトンさんも似ています)。

どんな楽器、どんな音程が、どんな効果を持つのか、についても、様々語られています。でも意外に漠然としていて、深く突っ込んでいません。
いかなる場合に音楽は弊害となるか、どうしたらそうならないか、にも触れています。司馬遷(の影武者)さんのお考えの究極は、これでしょうか。

「楽(がく)は楽(らく)である。それゆえ、これを貪ろうとするのは、人情のかならずしも免れぬところである。楽しめばかならず声音に出、動作にあらわれるのが常で、声音・動作は心術の変化の果てである。ゆえに人は楽しまないではおれず、楽しめば外にあらわさないではおれぬのである。あらわれて道によらなければ、乱れないわけにはいかず、先王はその乱れるのを避けるため、雅頌の楽をつくって人を導き、その辞句を論じてやまないようにし、その音調の曲折・緩急を、人の善心を感動させ放恣の心や邪悪の気が近づけないようにしたのである。」(p.43)

司馬遷(の影武者)さんに言わせれば、音楽が産み出され続けるのは人々の心を安定させるためであって、もともと音楽とは人々の心の正直な発露であり、正直さが激しすぎるときには逆に、それを抑えて穏やかにする、心への働きかけの力も持ったものなのだ(古代の理屈で言えば、上に立つ者の徳の発露だから)、とでもなるのでしょう。


では、西のプラトンさん。
『国家』第3巻で、音楽について、ソクラテスさんに少しだけ、でも詳しく議論させています(岩波文庫の『国家』上巻が引用元です。藤沢令夫訳)。叙事詩の作り・演じられかたの延長であるため、言葉や文芸と切り離されずに話されています。

「・・・歌というものは三つの要素、すなわち言葉(歌詞)と、調べ(音階)と、リズム(拍子と韻律)とから、成り立っている・・・そして調べとリズムは、言葉に従わなければならない。」(398D p.232)

「すぐれた語り方と、すぐれた調べと、様子の優美さ(気品)と、すぐれたリズムとは、人の良さに伴うものだ」(400E p.239)

「そういうことがあるからこそ、音楽・文芸による教育は、決定的に重要なのではないか。なぜならば、リズムと調べというものは、何にもまして魂の内奥へと深くしみこんで行き、何にもまして力づよく魂をつかむものなのであって、人が正しく育てられる場合には、気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり、そうでない場合には反対の人間にするのだから。
そしてまた、そこでしかるべき正しい教育を与えられた者は、欠陥のあるもの、美しく作られていないものや自然において美しく生じていないものを最も鋭敏に感知して、かくてそれを正当に嫌悪しつつ、美しいものをこそ誉め讃え、それを歓びそれを魂の中へ迎え入れながら、それら美しいものから糧を得て育くまれ、みずから美しくすぐれた人となるだろうし、他方、醜いものは正当にこれを非難し、憎むだろうから」
(401D-E p.242)

言っていることは『史記』楽書と似て見えますが、音楽は心から出るものだ、との発想は、プラトンさんにはありません。引用しなかった部分に、実に細かい、旋法やリズム(詩の韻)の区分が入り込んでいて、しかもそうした旋法やリズムは、人の心がどうであるかとはまったく別に、いわば先験的に存在しているものだと見なされているかのようです(まさにイデア論ですね)。
プラトンさんにとって、音楽は人の心から出るものではなく、人以前に存在する、あるもの、なのであって、それが(自然の一員である)人にとって規範的だったり非道だったりするので、結果的に人の心にも(だから、プラトンさんはそうは思っていないのですが、アニミズムに戻っている現代の価値観からすると、人でないものの心にも・・・モノにも心があるのだとすれば!)強く働きかかる、と見ているのです。(モーツァルトを聴かせたお酒は美味くなる、みたいに!)
別の箇所で
「音階の調和をかたちづくる高音・低音・中音の三つの音」(第4巻17、443D p.367-8)
という言いかたをしていることにも気をつけておかなければなりません。

東西の違い、なんとなく分かってもらえましたか?


さて、あなたにとって音楽は、心から生まれ出て来たものだったでしょうか。それとも、天から舞い降りて来て心をとらえたものだったでしょうか。
日本民族は『古今和歌集』仮名序の「ひとのこころをたねとして」のほうかな。
いずれにせよ、聴覚は触覚に近いだけに、直接に人の感性を動かすのが音楽だ、ということは出来るのかな、と、私は思います。
それが人の内から出るとなると、内蔵感覚的ですね。外からならば理念的です。日本の能なんかは、謡も舞も内蔵感覚的ですね。
で、日本の中世の世阿弥さんの言葉なんかも紹介したいのですけれど、主旨からズレるので、当面、東洋の方には以後触れません。

ただ、「音楽って何?」について、いいだしっぺの古代人たちの東西での着眼点の違いが、その後のそれぞれのエリアの音楽の展開の道筋、とくに大通りを、(太い交流が生まれるまでのあいだ)別々に方向づけた点は、意識しておいてもいいかな、と思います。
とりあえず、西洋は理念的、というところは、これからまたいろいろ見て行くときには鍵になるかもしれません。そういう話も先にはするかしれませんし、しないかもしれません(笑)。

またまた、だいぶ長くなりました。
今回は音がなくてすみません。

この次は、非力ながら、「なぜ演奏会をやるの?」を考えたいと思います。
(まだ考え中です。)

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2018年2月 9日 (金)

【読書・鑑賞案内】ヴィヴァルディ『四季』雑談続き/バートン編『バロック音楽』

ヴィヴァルディ『四季』の話を続けます。

このあいだは「春」の聴き比べをしてもらいましたが、「夏」のことを通して、楽譜について少し述べます。

『四季』はたいへんなロングセラー作品ですが、同じトップセラーの「『メサイア』やモーツァルトの『レクイエム』、ベートーヴェンの第九(これらは作曲者の自筆譜が残っています)と違って、原典資料がほとんどない」、と、高名な学者で優れた音楽家だった故クリストファー・ホグウッドが述べています。
『四季』はヴィヴァルディの自筆譜が発見されておらず、20世紀になって出版されるようになったスコア(全部のパートが書いてある楽譜)は、どれも、1725年に印刷されたパート譜(Le Cène ル・セーヌによる)を元にして作られたものです。幸いにして、このパート譜は現在ネットでダウンロードできます[IMSLP http://imslp.org/wiki/Il_cimento_dell%27armonia_e_dell%27inventione,_Op.8_(Vivaldi,_Antonio) ]。
このパート譜には、現在私たちが手に入れることのできる現代版総譜に書き込まれているコメントが既に全部入っています。
コメント、というのは、たとえば「春」の第2楽章でのヴィオラに “Il Cane che grida”(吠えている犬)とあり、ヴァイオリンのソロに “Il Capraro che dorme” (まどろんでいるヤギ飼い~羊飼いじゃないんだわ!)とあったりするように、「春」に付随するソネット・・・おそらくあとから作られたのでしょう・・・の、前回引いた翻訳だと11行目の「忠実な番犬をかたわらに、羊飼いはまどろむ」が音楽の中ではこのヴィオラとヴァイオリンで表わされているのが分かる仕掛けになっています。伴奏のヴァイオリンは「草木のやさしいささやき」になるわけで、これも “Mormorio di Frondi, e piante” と、ちゃんとコメントされています。

こうした情景的なコメントの他に、演奏の仕方に関わるものが稀に出て来ます。
中でも「夏」の第1楽章のヴァイオリンソロ(31小節目)にある “tutto sopra il Canto” は大変重要なものです。

Estate

この箇所、(鳥の)カッコウがけたたましく鳴くさまを描写しているのですが、日本語版の全音のスコアを見ると、“tutto sopra il Canto”はカッコウの歌を指すかのように読めてしまいます。たしかにCantoはイタリア語では「歌」を表わす語彙です。
ところが、37小節目まで進むと、今度はヴァイオリンソロのところに “sopra il Cantino” というコメントが、あらためて入ります。これはいったい、前のコメントとの兼ね合いを、どう理解したら良いのでしょう? 「Cantinoの上で」?。
辞典を引くと(イタリア語のね!)、Cantinoは弦楽器の第1弦を表わす語彙です。してみると、“sopra il Cantino”は「第1弦で弾く」、すなわち、ヴァイオリンならばE線で弾く、ということになります。その前の“tutto sopra il Canto”が有効な場所(31~36小節は、したがって、E線では弾かないわけです。すると、Cantoは、奏法の観点から書かれたコメントだとすると、どうやら「歌」を表わすものではない。
ベーレンライター版スコアでは、“tutto sopra il Canto” は ”all on the A string” と英訳されています。これが正解です。31~36小節は2番線で弾くわけです。残念ながら、日本版スコアでは、このように弾く旨のコメント訳はついていません。

Baroque_2 この箇所の、この弾きかたについて、ヴァイオリニストのアンドルー・マンゼが『バロック音楽 歴史的背景と演奏習慣』(アントニー・バートン編 角倉一朗訳 音楽之友社 2011年第1刷 3,000円+消費税)という本の中の執筆担当箇所で触れています(p.98)。https://www.amazon.co.jp/dp/4276140625/

「・・・ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの4本の弦は(低い方から)basso、tenore、canto(直訳すれば「歌声」)、cantino(「小さな歌声」)、ないしはそれらと似た名前で呼ばれた。」(p.101)

この『バロック音楽』、3冊のシリーズ物で、他に『古典派の音楽』・『ロマン派の音楽』が出ています。
それぞれの時代に音楽やその演奏法がどうとらえられていたか、を広く知るには絶好のものです。ほかにこの手の解説をしてくれている本は、日本語ではまずありません。学生さんには少し高いかも知れませんから、文庫や新書のように気軽に勧められるかどうか、と迷ったのですが、『バロック音楽』の巻だけでも、せめて共同出資して回し読みするのでもなんでもいいので、いちど目を通してもらえたらいいと思っています。
3つのどれもが同じ構成で、「歴史的背景」~「記譜法と解釈」~「鍵盤楽器」~「弦楽器」~「管楽器」~「歌唱」~「原典資料とエディション」という章立てになっています。歴史的背景と原典資料の章はもちろん必読ですが、「私は弦楽器しか弾かないから」あとは弦楽器の章だけ読めばいい、と済ませるのではなく、どうぞ、全部の章をお読みになって下さいね。
『バロック音楽』からいろいろ拾い出したいことがあるのですが、あまりに多岐にわたるので、今回は諦めます。音楽というものの全体像にもう少し話がひろがったときにしますね。すみません。

戻って、『四季」をめぐって、もう少しだけ話があります。
長くなりますが、次へのつなぎに大切なことですので、喋らせて下さい。
(あ、目で聞くおしゃべりですから、シャットダウンは自由にできてしまうわけですけれども。)
上のマンゼが説明している「夏」の部分の演奏法(それはしかもベーレンライター版スコアにも明記されているし、『四季』の最初の印刷譜に、おそらくはヴィヴァルディ本人の要求として記されている)を、いくつも聴いた『四季』の録音の中で実施しているのは、残念ながら、とても悲しいことに、マンゼだけです。マンゼの演奏で聴くと奏法の狙いをはっきり感じとることができますので、出来たらこれも是非耳にして下さいね。CDは前回紹介しています。

実は、『四季』には、パート譜出版の翌年にヴィヴァルディのお父さん(!)によって書かれた手書きパート譜があって、そのことはベーレンライター版スコアの解説でも触れられています。その筆写譜を研究して新たに作られた版での演奏、というのもCDがあり、これがもう、聴くとなんなんだか訳が分かりません(笑)。ヴィヴァルディはたいへんな技巧の持ち主だったようで、この筆写譜には、印刷されたパート譜よりもはるかに複雑で難しいソロが書かれているそうです。新版での演奏というのの録音が、しかし、ごく普通の部分でも従来とはかなり違った激しい演奏をしているので、筆写そのものをどれだけ再現して聴かせてくれているのか、皆目見当がつきません。先ほどの「夏」の箇所は出版されているスコアの指示には従っていません。そのへんもなんかよく分かりません。

このCDです。

            Vivaldi: The Four Seasons & Concertos RV.221, RV.311, RV.496, RV.501<期間限定盤>ラ・セレニッシマエイドリアン・チャンドラー

http://tower.jp/item/4627671/

4947182111994 なんだかんだ言って演奏も面白いのですが、ついている解説がまたすこぶる面白く、バロック音楽とは何であったか、を、ヴィヴァルディに即してよく教えてくれますので、今回の最後に解説のその部分を訳してみます(すぐ誤訳するから英語のまま載せた方が良いのかもですけど!)。

Invention、またはInventioというのは、修辞学上の5分野(※記事末尾参照)のひとつでした。画家はこの概念をその絵画作品へ霊感を描きこむのに使いましたし、作曲家は同様の手順を「形態(フィグーラ、音楽上では「音型」のこと)」を発展させて着想や情緒(アフェクト)を似通った方法で表すための手段としたのでした。おそらくこの技術を、ヴィヴァルディは「調和(アルモニア)と発想(インヴェンツィオーネ)の試み」なるタイトルで引き合いに出したのでしょう。そのように見てみると、ヴィヴァルディのオペラ作曲者としての手腕が『四季』には加味されている、と明らかになります。『四季』の諸作に含まれるたくさんの主題(テーマ)は、バロックオペラのアリアの類型の中に見出せます。鳥(春(1)、夏(1)・・・括弧内は楽章)、嵐(春(1)、夏(1-3) )、眠り/まどろみ(春(2)、秋(2)、冬(2))、狩り(秋(3))、そして戦争(冬(3))。これらに加えて、聴衆と理解し合うための工夫としてオペラ作曲者が(感覚に相対して)用いた様々なアフェクトや概念も見出せます。自然さ、穏やかさ、信仰、愛、憂鬱、希望など。これらのアイデアで、ヴィヴァルディは、よりいっそう、この協奏曲集全体にオペラ的音響構成を施し得たのです。
(Adrian Chandler リーフレットp.7から)

じっさいヴィヴァルディは10以上のオペラを残しています。残念ながらオペラそのものを私は聴いたことがありません。それでも、『四季』のうちの「春」の冒頭部分が彼の手になるオペラ “Dorllia in Tempe”(全曲がYouTubeに上がっているようですが、ちょっと聴き通す時間がありません https://youtu.be/mByETAFibBQ) の序曲の最後に現われるのを耳にして、『四季』とオペラの密着度を知ることは出来ました。

序曲を埋め込んでおきますので、最後の45秒くらいを聴いてみて下さい。


ウケます?
なんか、とってつけたようですね。でも、当時はウケたんでしょうね。これ、オペラの冒頭の合唱・・・やっぱり「春」のメロディになっている・・・に続くんですね。

以上はヴィヴァルディの場合についてでしたが、バロック音楽全般が、Chandler氏の解説の通用するような様相を示していた、と言うことは出来るかと思います。
すなわち、ルネサンス期の、内輪向け的な響きの音楽に対して、バロック音楽の最大の特徴は、劇場的であったことではないか、と私は思うのです。
これは、バロック音楽がオペラの誕生とともに始まる、と音楽史の本に書かれていることとも軌を一にするかと思いますし、その証拠としてモンテヴェルディの作品をあげることも出来るのです・・・が、この次はそこからいったんずれて、古代人の音楽観に触れてみるつもりでいます。ルネサンス〜バロック以降、という枠から当面そんなに離れるつもりはないのですけれど、「音楽とは何か」という、そのおおもとのところを、私たちはよく見つめておくべきではないか、と考えているからです。
懲りずにつき合って下さいますように!

【追加】
上で触れた「手書きパート譜」によって、いままで耳慣れていたのと最も違うのでビックリする箇所のスコアを載っけておきます。
Primavera 分かります?
このとおり実行した演奏を、上のCD以外にまだ知りません。
ご存知のかた、ぜひ教えて下さいね!


※:発見(inventio)、配置(dispositio)、表現法(elocutio)、行為(pronuntiatioまたはActio)、記憶(memoria)
ロラン・バルト『旧修辞学 便覧』(沢崎浩平訳 みすず書房 初版1879年 新装板第1刷2005年 原著1970年)の順番によりました。バロック音楽当時までの修辞学全般の歴史や内容について日本語で読める唯一の本と言っていいと思います。修辞学に興味があったら覗いてみて下さい。音楽上の修辞学というものは限定的であることに気付くかと思います。版元品切れの状態らしいですが、運が良ければ本屋さんで新装版が手に入ります。もしくは、もっと安く古本で買えます。
https://www.msz.co.jp/book/detail/07127.html
後日また参照するかも知れません。

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2018年2月 3日 (土)

【読書・鑑賞案内】ヴィヴァルディ「春」(『四季』をめぐって)

前回は、典型的な「線の音楽」を聴いてみてもらいました。作りをもう少し詳しく説明した方が良かったかも知れませんが、まずは、こういう音楽があるんだ、ということを知ってもらえたなら嬉しいです。

で、また別のを聴いてみてもらおうと思います。

Manze タイトルでもう分かっちゃうのですが、誰でも知ってる「春」〜ヴィヴァルディ『四季』の最初のコンチェルトです。
YouTubeから4つほど埋め込み(ひとつはできませんでしたのでリンク掲載)ますが、10分程度のコンチェルトなので、時間を見つけて4つとも聴いてみて下さい。
時代は前回のデュファイから300年下ります。日本だと、おおよそ、足利将軍の時代(室町時代、能が花開いた時期)からお犬様(江戸時代元禄期)とか暴れん坊将軍(同じく享保期、歌舞伎が花開いた時期)くらいの隔たりです。正確じゃないですけど。それでピンと来なければ、AKBや乃木坂の今(それより新しいの知らなくてスミマセン!)と江戸歌舞伎が始まった頃とほどの時間的隔たりがあったわけです。音楽にも、そんな時間の差がくっきり反映されています。

聴く前から気付いてもらえるでしょうけれど、ヴィヴァルディの音楽には、ほとんど「線の音楽」らしいものは聴き取れません。その点で、初回に紹介した皆川達夫『バロック音楽』にある、当時の音楽は線の音楽だ、という説明は、かなり便宜的なものだ、ということが分かります。
「じゃあ、バロック音楽って、ほんとうは何が大きな特徴なの?」
ということについては、次回に回します。
次回に回す前提として、「春」をいくつか聴いてみてもらおう、と考えました。

皆川『バロック音楽』にも書かれていたとおり、日本ではヴィヴァルディ『四季』が第2次大戦敗戦の15年後くらいに盛んに聴かれ出したことが、その後のバロック音楽愛好に火をつけました。

火付け役になったのがイ・ムジチによる演奏だったことを、知っている人も少なくないでしょう。・・・いや、もう知らないかな?

その端緒となったステレオ録音(先にモノラル録音があったそうですが、私は聴いていません)が、1959年、フェリックス・アーヨのソロヴァイオリンによるものです。YouTubeに全部上がっているのを見つけましたが、全曲になるので、リンクのみ載せます。
https://www.youtube.com/watch?v=zdyHhddZy5k&t=73s
いまでもCDで手に入ります。
DECCA UCCD-51075 1,700円+消費税
https://www.amazon.co.jp/dp/B01MT7SHHY/

ずっと下って、1988年のイ・ムジチの演奏による「春」がYouTubeにありますので、それを埋め込んでおきます。最初は関係ない音がしますし、途中広告がはいったりするので、スキップして聴いて下さいね。

いまでもそうなのかは分かりませんが、中学校の鑑賞教材になっていると、イ・ムジチのこの感じで聴かされたんじゃないかと思います。

イ・ムジチの演奏の仕方は、今でも『四季』演奏のプロトタイプになっていて、最近に至るまで沢山のヴァイオリニストがコンサートで弾いたり録音したりしていますが、みんなイ・ムジチが下敷きになっているように、私には聞こえます。
なかでもアンネ=ゾフィ・ムターは1984年、1988年にも録音していましたが、2007年にも新たに録音しています。
その、ムターの演奏による「春」。新録音頃の演奏でしょうか?
埋め込みができませんので、リンクを貼ります。

https://youtu.be/N_Yq34w_1CY

https://www.amazon.co.jp/dp/B01GW03NTG/

・・・あえて感想などは述べませんが、2楽章のヴィオラについてだけは、もう少しなんとかならなかったものか、と言いたくて仕方ありません。まあ蛇足です。

日本人も何人かCDを出しています。2009年に千住真理子さんのものが出て話題になりました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B001NDR6SC/

以上は、最近の言いかたで言うと「モダン」ヴァイオリンによる演奏です。

そうではない、「バロック」ヴァイオリンによる演奏も、しかし決して遅くはない時期に録音が出始めました。アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの録音は1977年になされています。
(モダンの演奏ではついているシャープがついていなかったり、その他にも数ヶ所違いがあります。下記のマンゼ盤のほうがいっそう違うのですが、この件については楽譜の問題が絡むはずですが、いまは触れません。)
テルデックから出たCDを、これはこっそりアップしたものでしょうか? ピッチがオリジナル録音より高いようです。

https://www.amazon.co.jp/dp/B00005HIDX/

アーノンクールらの演奏を、イ・ムジチやムターの演奏と比べてみると、・・・ざっとした言いかたですみませんが・・・抑揚がくっきりしている、と感じませんか?
バロックヴァイオリンとモダンヴァイオリンの違いを私はきちんと知っているわけではないので、大きなことは言えませんが、これは楽器の性質によると言うよりも、演奏への取り組みかたの差から生まれてくるように思います。

バロックと呼ばれる時代に音楽家が何を大切にしたか、を典型的に教えてくれるセリフを、イタリアの大ヴァイオリニストだったコレルリが残しています。
「君は音楽が語っているのが聞こえないのか?」
1640年に、別の音楽理論家がこう言っています。
「ときどきヴァイオリンが、まるで人間の口から出たように、アクセントや言葉を表現するのを聴くことがある。」
どちらの言葉も、アントニー・バートン編『バロック音楽 歴史的背景と演奏習慣』(角倉一朗訳 音楽之友社 2011年第1刷)からの受け売りです。実はこの本を是非紹介したいのですが、次回あらためてにしますね。

ヴィヴァルディの『四季』は、ご存知のように、ひとつひとつのコンチェルトにソネットが添えられていて、このソネットが各コンチェルトの表現を、たいへんよく説明してくれる作りになっています。

もうひとつ聴いてもらう演奏の下に、「春」のソネットを載せておきますので、4つの演奏のどれが、ソネットの言っていることを最もよく再現(!)しているか、を、ぜひ感じとって下さい。
感じとってもらえることが、今回の最大の願いです。

アンドルー・マンゼのヴァイオリン
トン・コープマン指揮 アムステルダム・バロック管弦楽団
1993年の録音です。

CDは、ERATO WPCS-16274(日本盤 1,400円+消費税)
https://www.amazon.co.jp/dp/B06XYB18D6/

マンゼは、バートン編『バロック音楽』の筆者の一人です。
この本の紹介を次回にするのは、マンゼが『四季』の中の「夏」について述べているところが大事でもあり面白くもあるからで、今回でそこまで触れるとあまりに長過ぎてしまうからです。
残念ながら、マンゼの弾いた「夏」の演奏をYouTubeでは見つけられません。あらかじめCD買って聴いてね〜、と言いたいところですが・・・

では、「春」のソネットを載せときますね。
マンゼ盤CDの解説にある訳を引用します。原詩は略します。
(この作品のCD解説には、残念ながらソネットまで載っているものは意外にないのです。必ず載せるべきものだと思うのですが・・・名曲解説全集にも載ってないんですよ。)

春がやって来た
小鳥はうれしそうに楽しい歌で春を迎え、
泉はそよ風にあわせて、
やさしいつぶやきをささやきながら流れ出す。

やがて黒雲が空をおおい、
稲妻と雷鳴が春の到来を告げる。
嵐がおさまったあと、
小鳥たちはふたたび楽しそうに歌声をきかせる。

花ざかりの草原に、
草木のやさしいささやきを聞きながら、
忠実な番犬をかたわらに、羊飼いはまどろむ。

輝くばかりのすばらしい春の中に、
ニンフも羊飼いも、ひなびた牧笛の
陽気な調べにあわせて踊る。

(浜脇 大 訳)

このソネットの作者はわかっていません。
ヴィヴァルディその人ではなかったか、との説もあるそうです。

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2018年1月27日 (土)

【読書・鑑賞案内】デュファイ ミサ “Se la face ay pale (私の顔が蒼いのは)”

バロックの宗教曲のCDは、聴いてみてもらえましたか?

その最古のものより150年くらい古い、はるかにはっきり「線の積み重ね」になっている、ルネサンス期のミサ曲を、今日は耳にしてもらおうと思います。

Cdimage ルネサンス、という言葉は、気をつけて使われ、読まれるべきものかも知れません。
「暗黒の中世」のあとに訪れた「人間復興」の時代だ、という以前の読みかたは誤りである、と、近年はずいぶん明らかにされていますし、そもそもルネサンスという時代区分はなくてもいいものだ、と見なされるようにもなっています。
それでも、前に紹介した金澤正剛『中世音楽の精神史』を読んだ後だったら、西欧音楽においては、「古代」に対する「中世」、「中世」に対する、しかし近世近代のようなものに先立つ、何らかの目安としての「ルネサンス」と呼んでも良い画期があることを認めてもよい気になるでしょう(*1)。

14〜15世紀になると、西欧は庶民の音楽までを書きとめられる記譜技術を獲得しましたし、そのことで、名前の残る音楽家が、教会の枠を超えて、人々に歌を提供するようにもなったのでした。
ギョーム・デュファイ(c.1400-1474)は、そんな音楽の傾向の集大成を体現したとして名高い人です。

ご紹介する『ミサ曲「私の顔が蒼いのは」』は、集大成具合がはっきり分かる、面白い作品です。

4声で歌われるもので、現代風に直された楽譜は、ソプラノ、アルト(テノール1)、テノール(2)、バリトンと記されています。オリジナルもそうなのかどうかは、残念ながら浅学な私には分かりません。

まずは、17世紀からの、バロックと括られる音楽たちに比べて、線の音楽としての特徴がしっかり出ているところに耳を傾けてもらいたいのですが、その前に楽譜を見てみましょう。

全体の楽譜はネットにあります。
http://hz.imslp.info/files/imglnks/usimg/0/01/IMSLP273024-PMLP259472-IMSLP134922-WIMA.796a-06-01.pdf

小さくてすみませんが、この中から「キリエ」の楽譜を載せます。

Kyriedufay_3  

この楽譜の、テノール(上から3番目)のメロディを、次の楽譜と比べてみて下さい。

Selaface

「キリエ」のほうで2倍に引き延ばされているのに気付けば、同じメロディであることが分かります。

このメロディ、ミサ曲の作者デュファイが、以前作ったシャンソンなのです。
このシャンソンの最初の歌詞が「私の顔が蒼いのは Se la face ay pale 」で、このメロディが「キリエ」だけでなく、ミサ曲のすべての章のテノールで使われているために、このミサ曲もまた ”Se la face ay pale” の名で呼ばれています。
聖なる音楽を形作るのに、大切な素材として、世俗的なシャンソンのメロディを使っているわけです。

なぜ、こんな作り方をしたのでしょうね?

・・・まあ、難しいことは、ぜひ後日、説明してある文章をネットや図書館で探して、調べてみて下さい。調べることを楽しめるかどうか、が、このあたりの音楽を好きになれるかどうかの分かれ道かも知れませんが・・・私はまだあんまり調べてません!

さて、まずは、シャンソンそのものもYouTubeに上がっていますので、お聴き下さい。

このシャンソンの、ソプラノの方ではなく、テノールの方が、先に上げた楽譜です。


この、テノールのメロディが、ミサ曲の各章に現われます。
どう現われるようにするのか、デュファイが指示を書いています。それをCDの解説から抜き出します。(*2)

「(歌い方について原譜に記された指示句Canonは)キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイでは<テノールは2倍に拡大せよ Tenor crescit in duplo >、グロリアとクレドでは<テノールは3回歌え、1回目はどの音符も3倍に拡大せよ、2回目は2倍に、3回目はそのままで歌え。 Tenor ter dicitur. Primo quaelibet figura crescit in triplo, secundo in duplo, tertio utjacet.>となっている。」
(アルファベットで記した方の言語は、ラテン語ですね。)
先の「キリエ」は、デュファイのこの指示により、テノールは元のシャンソンの2倍に引き延ばされているわけです。それが、こう聞こえる。(楽譜を順次表示するものを埋め込んでおきます。)

その他の章も、どうぞ楽譜を見て、実際に聴いて、確かめて下さいね。

ルネサンス期の音楽作品には、こうした算術的な工夫が数多く見られます。そしてそれは、大抵の場合、聴いただけでは分かりません。
むしろ、歌うことに参加した人たちの方が、「お、ここにシャンソンの節が使われてる!」とハッキリ分かって、嬉しかったり面白かったりしたものと思います。

理詰めで作って聴き手を悩ませることが、ではなく、歌うことに参加する人の歓びや愉しみに、デュファイやその前後の音楽家の、ほんとうのねらいがあったのではないかなあ、と、私には感じられてなりません。

実際には、「私の顔が蒼いのは」のメロディが現われない部分もありますし、現われるところは上のシャンソンの方の楽譜に振られたA,B,Cからどれかが使われているのですが、いまは「シャンソンの節が使われている」ことを知ってもらえればいいので、これ以上詳しくは述べません(楽譜を読み取れば分かるでしょうし、CD等に解説もあります)。

ミサ曲の各章のことばについては、皆川達夫『バロック音楽』にも載っていたかと思います(この前記事を書いた後、貸し出してしまったので、いま確かめられません)。できればそれを参照してみて下さいね。ミサ曲を聴き比べるのは、言葉が共通で使われているために比べやすい、という大きなメリットがあります。

元のシャンソン、デュファイ以外の人たちがそれをアレンジしたもの(オルガン2曲、管楽アンサンブル1曲)と併せてミサ全曲を聴けるのが、次のCDです。このミサ曲のCDはいろいろ出ているのですが、これをいちばんにお勧めします。

デイヴィッド・マンロウ指揮 ロンドン古楽コンソート
1973年3月録音
ERATO WARNER CLASSICS WPCS-16258

https://www.amazon.co.jp/dp/B01LBJYZ3G/
http://tower.jp/item/4347222/
(どちらのリンクでも、各章の最初の部分を試聴できます。)

マンロウは若くして不幸な死をとげ、非常に惜しまれた天才でした。西欧の古い音楽に興味を持ち始めたとき、いまでも真っ先に聴かれるべき録音をいくつも残してくれています。

・・・次回は、できれば、ここ半世紀くらいの、とくにバロック音楽の演奏スタイルの変化について味わってみてもらえればと思っています。

*1:澤井繁男『ルネサンス再入門 複数形の文化』のご一読をお勧めします。
*2:文中で勧めるマンロウの演奏ではなく、テルツ少年合唱団による1964年の録音のLP/CDについた解説(今谷和徳)に記されています(CDはdeutsche harmonia mundi BVCD38007)。

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